第5話:皇子の失脚と、田舎の畑
皇城の奥には、アレクシス皇子が私的な面会に使う一室があった。
その日、ブルーム・ザルツはそこに通されていた。
表向きは、農務に関する確認。
だが、部屋に入った瞬間から、それがただの名目であることは明らかだった。
「どうやってローザリアを唆したんだ」
アレクシスは、椅子に深く腰掛けたまま、立たされたブルームを冷ややかに見た。
「公爵令嬢が、泥と豆に夢中になるはずがない。誰かが仕向けたのだ。そうだろう?」
ブルームは、静かに答えた。
「ローザリア様は、最初から領地を見ておられました」
「……なんだと」
「殿下が婚約をお解きになった後、ローザリア様が何を選ばれるかは、ローザリア様ご自身がお決めになることです」
アレクシスの表情が、険しくなった。
「私がローザリア様に与えたものなど、ありません。ただ、ローザリア様が育てようとしているものを、一緒に見ただけです」
それは、アレクシスにとって、最も認めたくない事実だった。
ローザリアは、誰かに騙されたのではない。
自分の意思で農園を選び、自分の意思で歩き始めた。
皇子であり、彼女の婚約者であったはずの自分を差し置いて。
その現実を、目の前の田舎令息は、静かな声で突きつけてくる。
「……貴様が!」
アレクシスが、立ち上がった。
「貴様がローザリアを汚したのだ!」
拳が、振り上げられる。
ブルームは、避けなかった。
ただ、静かに目を伏せた。
次に響いたのは、重い扉が閉じる音だった。
◇
その夜、公爵邸。
ビアンカのもとへ、一通の密かな知らせが届いた。
知らせを寄越したのは、皇城に勤める女官だった。
かつてビアンカと縁のあった人物であり、皇城内部の異変を、危険を承知で知らせてきたのである。
知らせの内容は、あまりにも重かった。
ブルーム・ザルツが、皇城の地下拘禁室――牢と呼ぶほかない石造りの部屋に入れられている。
手首には、強い拘束の痕がある。
片頬が腫れ、肋を痛め、熱を出している。
侍医が診たが、外へは出されていないという。
読み終えたロレンツォは、怒りを表に出さなかった。
だが、その沈黙は冷たく、重かった。
隣で聞いていたローザリアの顔から、血の気が引いた。
帳面を抱えていた指先が、白くなる。
「……ブルーム様が」
発酵蔵で外套をかけてくれた手。
桶の状態を確かめる時、いつも隣にあった静かな声。
その人が、皇城の地下で傷つけられている。
ローザリアは、唇を噛んだ。
泣いている場合ではなかった。
皇子が私的な呼び出しで他家の令息を拘束し、傷を負わせ、地下へ入れた。
それはもはや、嫌がらせではない。
権力の私物化である。
公爵家は、静かに動き始めた。
ロレンツォは、皇帝と重臣へ提出する正式な抗議の準備に入った。
ビアンカは、女官、侍医、商会筋から、証言と裏付けを一つずつ押さえた。
そしてローザリアは、これまで書き溜めてきた記録を整理した。
農園の記録。
発酵の記録。
試作品の成果。
輸送妨害の日付。
商会への圧力。
ザルツ家へ届いた警告。
皇子側近の接触の記録。
「これは公爵家の戦いだ」
ロレンツォは言った。
だが、ローザリアは静かに首を振った。
「いいえ。これは、わたくしと殿下の問題です」
帳面をめくる手は、止まらなかった。
「そして、わたくしの大切な協力者を傷つけた問題です」
失敗を記録してきた手で、彼女は今、皇子の罪を記録していた。
◇
数日後。
皇帝と重臣たちが同席する、公的な場が設けられた。
アグリコーラ公爵家は、証拠を一つずつ、卓上に並べていった。
ブルーム・ザルツ宛の出頭命令。
ザルツ領からの小麦輸送が止められた日付。
商会へ届いた圧力の文面。
ザルツ家へ送られた警告の写し。
皇城の女官の証言。
地下拘禁室への収容記録。
そして、侍医の診断書。
一つ増えるごとに、重臣たちの顔色が変わっていった。
侍医の診断書が置かれた時、場は静まり返った。
アレクシスは、最初は余裕の笑みを浮かべていた。
だが、証拠が積み重なるにつれ、その笑みは薄くなり、指先が椅子の肘掛けを叩き始めた。
やがて、その顔から余裕が消えていく。
「違う! 私はただ、ローザリアを正しい場所へ戻そうと――」
「戻す、ですか」
静かに遮ったのは、ロレンツォだった。
「殿下。ローザリアとの婚約を破棄すると、最初に宣言なさったのは、殿下ご自身です」
アレクシスの唇が、わずかに震えた。
「あれは……ローザリアに自分の立場を分からせるためで――」
「ええ。よく分かりました」
ローザリアが、静かに答えた。
「殿下にとって、わたくしの意思は、聞くものではなく、正すものだったのですね」
アレクシスが、彼女を見た。
その顔には、焦りと苛立ちが入り混じっていた。
「違う! 私は、君が間違った道へ進まないように守ろうとしただけだ! 私の隣に立つ者が泥と豆に夢中になるなどあってはならない。あの男が、君を惑わせたに違いない!」
ローザリアは、怯まなかった。
「それを、わたくしの意思とはお考えにならなかったのですね」
「御託はいい。戻ってこい、ローザリア」
アレクシスは、苛立ちを押し隠すように言った。
「確かに、私も君を傷つけるようなことを言った。それは悪かったと反省している。だから、君のことも許そう」
ローザリアは、一度だけ目を伏せた。
それから、まっすぐに皇子を見た。
「殿下にお許しいただく必要はございません」
その声に、迷いはなかった。
「殿下に婚約を破棄していただいたおかげで、わたくしは自分の進む道と、その道を共に歩みたいと思える方に出会えました」
アレクシスの表情が、凍りついた。
「ブルーム様と出会うきっかけをくださったことには、心から感謝申し上げますわ」
「違う! 違うんだ、ローザリア!」
アレクシスの声から、最後の余裕が消えた。
「僕は君を愛していた! 君を正しい場所へ戻すのが、僕の務めだったんだ!」
「殿下のおっしゃる正しい場所とは――殿下の隣で、殿下だけを見ている、都合のよい婚約者のことでしょう?」
アレクシスは、息を詰まらせた。
「ローザリア、意地を張らないでくれ。これからは二人で手を取り合って、やり直せば――」
「殿下は、わたくしの農園を、ただの泥遊びと笑いました」
場が、静まり返った。
ローザリアは、静かに続けた。
「大切に思う相手が、大切にしているものを笑い、壊そうとする。そのような方の隣に、わたくしは立てません」
「ローザリア……」
アレクシスは名を呼んだが、その先の言葉は続かなかった。
椅子の肘掛けを叩いていた指が、力なく止まる。
ロレンツォが、低く静かな声で告げる。
「殿下がなさったことは、元婚約者への忠告でも、私的な諍いでもありません。正式な出頭命令を利用し、他家の令息を私的に拘束して傷つけ、地下へ閉じ込めた。明確な権力の私物化です」
その言葉に、重臣たちは誰も反論しなかった。
皇帝の裁定は、重かった。
アレクシスは、皇位継承権を剥奪された。
これまで任されていた公務からも、すべて解任。
期限を定めず離宮へ移され、許可なく帝都へ戻ることも禁じられた。
さらに、アグリコーラ公爵家とザルツ子爵家への公式謝罪と、被害に対する賠償が命じられた。
皇族としての身分だけは残された。
だが、帝位へ至る道も、政治の場へ戻る道も閉ざされた。
それがアレクシスの完全な失脚を意味することは、その場の誰の目にも明らかだった。
◇
救出されたブルームは、公爵邸の客室で手当てを受けていた。
片頬にはまだ腫れが残り、手首には拘束の痕がある。
肋を痛め、熱も引いていない。
ローザリアは、そのそばを離れなかった。
やがて、ブルームの瞼が、ゆっくりと開いた。
かすれた声で、最初に口にしたのは、やはり仕事のことだった。
「……桶は」
ローザリアは、濡らした布を絞る手を止めた。
「今は、桶よりあなたです」
「ですが……」
「あなたです」
きっぱりと言い切られて、ブルームは言葉を失った。
ローザリアは、熱を確かめようと、そっと彼の額へ指先を伸ばした。
けれど、触れる直前、その指がわずかに震えた。
ブルームの手が、弱々しく持ち上がった。
何かを言おうとして、言葉にならないまま、彼はローザリアの指先に、そっと触れた。
握るのではない。
ただ、かすかに触れるだけ。
それだけで、ローザリアの胸は苦しくなった。
「あなたが戻ってくださらなかったら……」
声が、少しだけ揺れた。
「わたくしは、あなたのいない農園を、もう見たくありませんでした」
ブルームは、静かに目を閉じた。
痛みのせいではなかった。
その言葉が、胸の奥に深く届いたからだった。
それ以上、どちらも言わなかった。
ただの事業の協力者ではない。
ただの農園の相棒でもない。
互いが互いにとって、もう手放せない存在になっている。
言葉にしなくても、二人には分かっていた。
◇
数週間後。
起き上がれる程度に回復したブルームは、ロレンツォの執務室に呼ばれた。
「君を、単なる協力者として手放すつもりはない」
ロレンツォは、まっすぐにブルームを見て言った。
「アグリコーラ家へ、婿入りする気はないか」
ブルームが、息を呑む。
「もちろん、これは父として、領主としての打診だ。ローザリアの気持ちも、君の気持ちも、ザルツ家の意向も、無視はしない」
ブルームは、深く頭を下げた。
それから、顔を上げ、一つだけ願い出た。
「お許しいただけるのであれば、いずれ私はアグリコーラ家の者となります。だからこそ、その前に、自分を育てた土地と家族を、ローザリア様に見ていただきたいのです」
ロレンツォは、しばらくブルームを見つめた。
そして、静かに頷いた。
◇
ザルツ子爵領。
どこまでも続く麦畑が、風に揺れていた。
ブルームは、ローザリアを両親と兄に紹介した。
ザルツ子爵家の嫡男である兄は、ローザリアを見て、それから隣のブルームを見た。
「お前、本当に豆と水路の話ばかりで、公爵令嬢様をここまで連れてきたのか」
「兄上」
ブルームが少しだけ眉を寄せると、兄は愉快そうに笑った。
「いや、褒めているんだ。お前の話を最後まで聞いてくださる方がいるとは思わなかった」
ローザリアは、思わず小さく笑った。
「豆と水路の話は、とても大切ですわ」
その言葉に、兄は目を丸くした。
それから、父であるザルツ子爵と顔を見合わせ、堪えきれないように笑った。
「なるほど。これは、うちの弟が勝てないわけだ」
ブルームが何か言い返そうとした時、ザルツ子爵がふと、ローザリアの手に目を留めた。
そこには、泥に触れてきた跡がある。
帳面を書き続けた、ペンだこもある。
公爵令嬢の手としては、あまりに飾り気のない手だった。
ローザリアが、少し身構えた。
けれど、ザルツ子爵は、温かく笑った。
「よい手です」
その一言で、ローザリアの肩から、ふっと力が抜けた。
彼女は、麦畑へ目を向けた。
金色の穂が、波のように揺れている。
その目が、みるみる輝いていった。
「立派な農園ですね」
ザルツ子爵は、少しだけ目を丸くした。
それから、笑った。
「畑です」
ローザリアは、まっすぐに答えた。
「では、わたくしが農園にいたします」
ブルームは、その横顔を見た。
この人となら、どんな土地でも耕していける。
塩の強い土地でも。
豆しか育たぬ土地でも。
まだ名もない黒い調味液が眠る、桶の前でも。
二人なら、きっと芽を待つことができる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、泥遊びと笑われた令嬢が、自分の努力を理解してくれる人と出会い、見捨てられた土地と自らの未来を耕していく物語でした。
作中の「黒い調味液」は、もちろん醤油を下敷きにしています。
短編のため製造工程はかなり簡略化していますが、失敗を記録し、何度でもやり直すローザリアたちの姿を楽しんでいただけましたら嬉しいです。
ローザリアとブルームのこれからに、温かな実りがありますように。
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