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第5話:皇子の失脚と、田舎の畑

皇城の奥には、アレクシス皇子が私的な面会に使う一室があった。


その日、ブルーム・ザルツはそこに通されていた。

表向きは、農務に関する確認。

だが、部屋に入った瞬間から、それがただの名目であることは明らかだった。


「どうやってローザリアを唆したんだ」


アレクシスは、椅子に深く腰掛けたまま、立たされたブルームを冷ややかに見た。


「公爵令嬢が、泥と豆に夢中になるはずがない。誰かが仕向けたのだ。そうだろう?」


ブルームは、静かに答えた。


「ローザリア様は、最初から領地を見ておられました」

「……なんだと」

「殿下が婚約をお解きになった後、ローザリア様が何を選ばれるかは、ローザリア様ご自身がお決めになることです」


アレクシスの表情が、険しくなった。


「私がローザリア様に与えたものなど、ありません。ただ、ローザリア様が育てようとしているものを、一緒に見ただけです」


それは、アレクシスにとって、最も認めたくない事実だった。


ローザリアは、誰かに騙されたのではない。

自分の意思で農園を選び、自分の意思で歩き始めた。

皇子であり、彼女の婚約者であったはずの自分を差し置いて。

その現実を、目の前の田舎令息は、静かな声で突きつけてくる。


「……貴様が!」

アレクシスが、立ち上がった。

「貴様がローザリアを汚したのだ!」


拳が、振り上げられる。

ブルームは、避けなかった。

ただ、静かに目を伏せた。


次に響いたのは、重い扉が閉じる音だった。



その夜、公爵邸。

ビアンカのもとへ、一通の密かな知らせが届いた。

知らせを寄越したのは、皇城に勤める女官だった。

かつてビアンカと縁のあった人物であり、皇城内部の異変を、危険を承知で知らせてきたのである。


知らせの内容は、あまりにも重かった。


ブルーム・ザルツが、皇城の地下拘禁室――牢と呼ぶほかない石造りの部屋に入れられている。

手首には、強い拘束の痕がある。

片頬が腫れ、肋を痛め、熱を出している。

侍医が診たが、外へは出されていないという。


読み終えたロレンツォは、怒りを表に出さなかった。

だが、その沈黙は冷たく、重かった。


隣で聞いていたローザリアの顔から、血の気が引いた。

帳面を抱えていた指先が、白くなる。


「……ブルーム様が」


発酵蔵で外套をかけてくれた手。

桶の状態を確かめる時、いつも隣にあった静かな声。

その人が、皇城の地下で傷つけられている。


ローザリアは、唇を噛んだ。

泣いている場合ではなかった。


皇子が私的な呼び出しで他家の令息を拘束し、傷を負わせ、地下へ入れた。

それはもはや、嫌がらせではない。

権力の私物化である。


公爵家は、静かに動き始めた。

ロレンツォは、皇帝と重臣へ提出する正式な抗議の準備に入った。

ビアンカは、女官、侍医、商会筋から、証言と裏付けを一つずつ押さえた。

そしてローザリアは、これまで書き溜めてきた記録を整理した。


農園の記録。

発酵の記録。

試作品の成果。

輸送妨害の日付。

商会への圧力。

ザルツ家へ届いた警告。

皇子側近の接触の記録。


「これは公爵家の戦いだ」


ロレンツォは言った。

だが、ローザリアは静かに首を振った。


「いいえ。これは、わたくしと殿下の問題です」

帳面をめくる手は、止まらなかった。


「そして、わたくしの大切な協力者を傷つけた問題です」


失敗を記録してきた手で、彼女は今、皇子の罪を記録していた。



数日後。

皇帝と重臣たちが同席する、公的な場が設けられた。


アグリコーラ公爵家は、証拠を一つずつ、卓上に並べていった。


ブルーム・ザルツ宛の出頭命令。

ザルツ領からの小麦輸送が止められた日付。

商会へ届いた圧力の文面。

ザルツ家へ送られた警告の写し。

皇城の女官の証言。

地下拘禁室への収容記録。

そして、侍医の診断書。


一つ増えるごとに、重臣たちの顔色が変わっていった。

侍医の診断書が置かれた時、場は静まり返った。


アレクシスは、最初は余裕の笑みを浮かべていた。

だが、証拠が積み重なるにつれ、その笑みは薄くなり、指先が椅子の肘掛けを叩き始めた。

やがて、その顔から余裕が消えていく。


「違う! 私はただ、ローザリアを正しい場所へ戻そうと――」


「戻す、ですか」


静かに遮ったのは、ロレンツォだった。


「殿下。ローザリアとの婚約を破棄すると、最初に宣言なさったのは、殿下ご自身です」


アレクシスの唇が、わずかに震えた。


「あれは……ローザリアに自分の立場を分からせるためで――」

「ええ。よく分かりました」

ローザリアが、静かに答えた。


「殿下にとって、わたくしの意思は、聞くものではなく、正すものだったのですね」


アレクシスが、彼女を見た。

その顔には、焦りと苛立ちが入り混じっていた。


「違う! 私は、君が間違った道へ進まないように守ろうとしただけだ! 私の隣に立つ者が泥と豆に夢中になるなどあってはならない。あの男が、君を惑わせたに違いない!」


ローザリアは、怯まなかった。

「それを、わたくしの意思とはお考えにならなかったのですね」

「御託はいい。戻ってこい、ローザリア」

アレクシスは、苛立ちを押し隠すように言った。


「確かに、私も君を傷つけるようなことを言った。それは悪かったと反省している。だから、君のことも許そう」


ローザリアは、一度だけ目を伏せた。

それから、まっすぐに皇子を見た。


「殿下にお許しいただく必要はございません」

その声に、迷いはなかった。

「殿下に婚約を破棄していただいたおかげで、わたくしは自分の進む道と、その道を共に歩みたいと思える方に出会えました」

アレクシスの表情が、凍りついた。


「ブルーム様と出会うきっかけをくださったことには、心から感謝申し上げますわ」

「違う! 違うんだ、ローザリア!」

アレクシスの声から、最後の余裕が消えた。


「僕は君を愛していた! 君を正しい場所へ戻すのが、僕の務めだったんだ!」

「殿下のおっしゃる正しい場所とは――殿下の隣で、殿下だけを見ている、都合のよい婚約者のことでしょう?」


アレクシスは、息を詰まらせた。

「ローザリア、意地を張らないでくれ。これからは二人で手を取り合って、やり直せば――」

「殿下は、わたくしの農園を、ただの泥遊びと笑いました」


場が、静まり返った。

ローザリアは、静かに続けた。


「大切に思う相手が、大切にしているものを笑い、壊そうとする。そのような方の隣に、わたくしは立てません」


「ローザリア……」

アレクシスは名を呼んだが、その先の言葉は続かなかった。

椅子の肘掛けを叩いていた指が、力なく止まる。


ロレンツォが、低く静かな声で告げる。

「殿下がなさったことは、元婚約者への忠告でも、私的な諍いでもありません。正式な出頭命令を利用し、他家の令息を私的に拘束して傷つけ、地下へ閉じ込めた。明確な権力の私物化です」


その言葉に、重臣たちは誰も反論しなかった。


皇帝の裁定は、重かった。


アレクシスは、皇位継承権を剥奪された。

これまで任されていた公務からも、すべて解任。

期限を定めず離宮へ移され、許可なく帝都へ戻ることも禁じられた。


さらに、アグリコーラ公爵家とザルツ子爵家への公式謝罪と、被害に対する賠償が命じられた。


皇族としての身分だけは残された。

だが、帝位へ至る道も、政治の場へ戻る道も閉ざされた。


それがアレクシスの完全な失脚を意味することは、その場の誰の目にも明らかだった。



救出されたブルームは、公爵邸の客室で手当てを受けていた。

片頬にはまだ腫れが残り、手首には拘束の痕がある。

肋を痛め、熱も引いていない。

ローザリアは、そのそばを離れなかった。


やがて、ブルームの瞼が、ゆっくりと開いた。

かすれた声で、最初に口にしたのは、やはり仕事のことだった。


「……桶は」


ローザリアは、濡らした布を絞る手を止めた。


「今は、桶よりあなたです」

「ですが……」

「あなたです」


きっぱりと言い切られて、ブルームは言葉を失った。


ローザリアは、熱を確かめようと、そっと彼の額へ指先を伸ばした。

けれど、触れる直前、その指がわずかに震えた。


ブルームの手が、弱々しく持ち上がった。

何かを言おうとして、言葉にならないまま、彼はローザリアの指先に、そっと触れた。


握るのではない。

ただ、かすかに触れるだけ。


それだけで、ローザリアの胸は苦しくなった。


「あなたが戻ってくださらなかったら……」

声が、少しだけ揺れた。

「わたくしは、あなたのいない農園を、もう見たくありませんでした」


ブルームは、静かに目を閉じた。

痛みのせいではなかった。

その言葉が、胸の奥に深く届いたからだった。


それ以上、どちらも言わなかった。

ただの事業の協力者ではない。

ただの農園の相棒でもない。


互いが互いにとって、もう手放せない存在になっている。

言葉にしなくても、二人には分かっていた。



数週間後。

起き上がれる程度に回復したブルームは、ロレンツォの執務室に呼ばれた。


「君を、単なる協力者として手放すつもりはない」

ロレンツォは、まっすぐにブルームを見て言った。


「アグリコーラ家へ、婿入りする気はないか」


ブルームが、息を呑む。


「もちろん、これは父として、領主としての打診だ。ローザリアの気持ちも、君の気持ちも、ザルツ家の意向も、無視はしない」


ブルームは、深く頭を下げた。

それから、顔を上げ、一つだけ願い出た。


「お許しいただけるのであれば、いずれ私はアグリコーラ家の者となります。だからこそ、その前に、自分を育てた土地と家族を、ローザリア様に見ていただきたいのです」


ロレンツォは、しばらくブルームを見つめた。

そして、静かに頷いた。



ザルツ子爵領。

どこまでも続く麦畑が、風に揺れていた。


ブルームは、ローザリアを両親と兄に紹介した。

ザルツ子爵家の嫡男である兄は、ローザリアを見て、それから隣のブルームを見た。


「お前、本当に豆と水路の話ばかりで、公爵令嬢様をここまで連れてきたのか」

「兄上」


ブルームが少しだけ眉を寄せると、兄は愉快そうに笑った。

「いや、褒めているんだ。お前の話を最後まで聞いてくださる方がいるとは思わなかった」


ローザリアは、思わず小さく笑った。

「豆と水路の話は、とても大切ですわ」


その言葉に、兄は目を丸くした。

それから、父であるザルツ子爵と顔を見合わせ、堪えきれないように笑った。


「なるほど。これは、うちの弟が勝てないわけだ」


ブルームが何か言い返そうとした時、ザルツ子爵がふと、ローザリアの手に目を留めた。


そこには、泥に触れてきた跡がある。

帳面を書き続けた、ペンだこもある。

公爵令嬢の手としては、あまりに飾り気のない手だった。


ローザリアが、少し身構えた。

けれど、ザルツ子爵は、温かく笑った。


「よい手です」


その一言で、ローザリアの肩から、ふっと力が抜けた。


彼女は、麦畑へ目を向けた。

金色の穂が、波のように揺れている。

その目が、みるみる輝いていった。


「立派な農園ですね」


ザルツ子爵は、少しだけ目を丸くした。

それから、笑った。


「畑です」

ローザリアは、まっすぐに答えた。

「では、わたくしが農園にいたします」


ブルームは、その横顔を見た。


この人となら、どんな土地でも耕していける。

塩の強い土地でも。

豆しか育たぬ土地でも。

まだ名もない黒い調味液が眠る、桶の前でも。


二人なら、きっと芽を待つことができる。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、泥遊びと笑われた令嬢が、自分の努力を理解してくれる人と出会い、見捨てられた土地と自らの未来を耕していく物語でした。


作中の「黒い調味液」は、もちろん醤油を下敷きにしています。

短編のため製造工程はかなり簡略化していますが、失敗を記録し、何度でもやり直すローザリアたちの姿を楽しんでいただけましたら嬉しいです。


ローザリアとブルームのこれからに、温かな実りがありますように。


ご感想や評価をいただけましたら、今後の励みになります。

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― 新着の感想 ―
アグリとザルツ、どちらも欠かせない要素ですね(꘎ꔷ◡ꔷ꘎) 今回も素敵なお話をありがとうございます(*˘︶˘人)
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