第二十二話「安息」
「気ぃ進まねえなあ……」
沈み始めた紅い陽に照らされながら、銀はぼやいた。
結局、なかなか帰るきっかけがつかめなかった。
その傍らに、鉄の姿はない。彼女はまた気まぐれぶりを発揮し、どこかに姿を消している。
家路をたどる足どりは重い――玄関前でほうきを手に掃除をしているイリスの姿を見てしまえば余計に。
「あ――銀?」
感情を持て余し、しり込みしている間に、イリスの方が銀を視界に収め、駆け出していた。
「よ、よお……」
今さら逃げるわけにもいかず、銀も歩き出す。イリスの純粋に嬉しそうな笑顔がまぶしく、正視できない。
「おかえりなさい」
銀のそばまで来て、なぜか一瞬辛そうな表情を浮かべると、イリスは足を止め、それだけ言って微笑んだ。
「…………なんでだ?」
返事もそこそこに、思わず銀は訊いていた。
なぜ責められないのだろう? いきなり丸一日姿を消し、朝帰りの身なのだ。心配さえされていないのだろうか?
「なんでって――ああ、帰りの遅かったことね?」
きょとんとしたものの、すぐに銀の言わんとするところを察したのだろう、イリスは再び微笑んだ。
「責めないわ。また会えただけで嬉しいから。それに――」
言いかけて口ごもり、わずかなためらいの後に続ける。
「これ以上、銀を縛りたくないから」
うつむく横顔は、いつかのように、底知れぬ愁いに沈んでいた。
「何だそりゃ?」
「銀から……誰か、女の子の匂いがするわ」
「女の……? あ」
何のことだ、と問い返そうとする口をつぐむ銀。
(そういやあいつ、一応女だったっけ……)
匂いだけで察知するあたり、呆れた嗅覚だが、イリスが言っているのは十中八九、鉄のことだろう。
考えてみれば、鉄とは、家を出ている間中一緒だった。移り香くらいしてもおかしくはない。
「そうよね……銀は優しいもの。ふふっ、私ったら何を考えていたのかしら」
独り呟いて困ったように眉を寄せ、笑うと、イリスは銀の方に顔を戻した。
「夕御飯の用意、してあるわよ。行きましょう?」
「あ、ああ……?」
言われるまま後に付いて歩き出し、玄関に入ったところで、銀はふと我に返った。
(あの背中……?)
イリスの背中が、また小さい。二度に渡って追いかけた、今すぐにも消えそうなはかな儚い後ろ姿だ。
思えば、さっきのイリスの落ち込んだ表情と、今の明るそうな態度との間の、大きすぎる落差にも覚えがある。
「おい、イリス!」
「え? なに?」
弾かれたように振り返るイリス。銀が彼女の名を呼ぶのはこれでやっと二回目だ。
「おまえ、今何考えてる?」
肩をつかみ、問う銀。
「何って……、言いたいことなら、あるけれど」
視線をそらし、返すイリス。
「言えよ」
「……ええ」
言われ、イリスは銀の目をまっすぐに見つめ返した。
「大切にしている子がいるのなら、言って欲しかったわ。そうでなければ、こんな……」
噛み締められた歯が軋る。イリスの顔には、ふん憤ぬ怒や憎悪にさえ近い激情が、はっきりと浮かび上がっていた。
「嫌われるのがこんなに怖くなったのは初めて。なのに、私は、自分の嫉妬を抑えきれない……あなたの傍にいるでしょうその子が、嫌いでたまらない」
「嫉妬って、……ちょっと待――」
「私は、あなたに嫌われたくないのに、そのあなたを敵にまわしかねない……私は――」
「おい!」
言うなり発作的に玄関を飛び出しかけたイリスの手を、銀は危ういところで捕まえた。
「放して! これ以上あなたの顔を見ていたら、あなたまで憎んでしまう! あなたに持てた「好き」という気持ちを、自分で汚したくないの!!」
銀の手が触れたことで自制しきれなくなったのか、激情を解き放ち、銀を力ずくで振りほどこうと暴れるイリス。
「だっ、誰が放すかこのバカ女っ! てめえ自分勝手な思い込みで突っ走りやがって!」
その豪快な暴れぶりに、手だけでは長くも保たないと判断した銀は、イリスを強引に引き寄せ、きつく抱きすくめた。とたん――イリスの抵抗が弱まる。
「……放して……お願い。これ以上期待させないで。私……あなたに抱きしめられるのは厭じゃない……」
「悲しいことばっか言うなよ!」
閉ざした目から涙をこぼすイリスを一層強く抱きしめ、銀は叫んだ。
「オレはずっと前からおまえの涙を止めたかったんだ! 気にしてるのは他の誰でもねえんだよっ!!」
「ずっと、前から……私を?」
怪訝そうに、イリスは銀を見返した。
「ああ。オレ、物心ついた頃から、おまえそっくりなやつの夢をよく見てたんだ。そいつ、いつも一人で寂しそうにしてて……、ずっと気にしてた。……でも、おまえがそれにそっくりになったときから、オレはそいつを通しておまえを見てた。――あ、勘違いすんじゃねーぞ。おまえがそいつの代わりだってわけじゃねえんだからな」
「……!」
銀の告白を聞いたイリスの目から、涙があふれ出した。
「……ごめんなさい……銀……私……、あなたを信じきれなかった……」
「だーっ、言ったそばから泣きやがんのかてめーはっ!」
「違う……の。悲しいわけじゃ、ない。嬉しくて……でも、情けなくて……」
「前から言ってんだろ。小難しい理屈ばっかごねてねーで、嬉しけりゃ素直に喜べよな」
「うん……嬉しい」
ふうっと全身から力を抜き、イリスは自分から銀に身をゆだ委ねた。
「え……?」
イリスの重みを受け止め、銀は眉をひそめた。彼女の体はすっかり冷えきり、小刻みに震えている。
「どうしたんだ?」
「……怖かった……怖くて、ずっと銀が帰って来るのを待っていたの。なのに、帰って来てくれた銀から女の子の匂いがしたから、銀には頼れなくなったと思って、私、どうしていいか、解らなくなってしまって……」
銀の胸に顔を埋めながら、言葉に詰まり、しがみつく手にぎゅっ、と力をこめるイリス。
「頼ればいいに決まってんだろ。ったく……一人の時間が永過ぎて、気の抜き方も忘れてんのか?」
銀はイリスの頭をぽんぽんとなで、長い髪を指で梳いた。口調こそ乱暴だが、その表情は穏やかなものだ。
「……もっときつく、強く抱きしめて。私がいいと言うまで、離さないで」
「いいぜ。もう離れてる必要はなくなったからな」
銀が言ったとたん――ぐうぅ、と間抜けな音が聞こえた。朝食は摂っていなかったのだ。
「……悪い。その前に、メシ食わせてくれ」
すっかり困った顔で懇願する銀に、イリスも噴き出した。
「……お邪魔なようですね」
広げた日傘の下で、屋根の上に腰かけた蜜色の髪の女が呟いた。ベルンである。
「そのようだな」
膝の上で答える、黒猫。当然、こちらはヴァルター。
「今回はあきら諦めるか。お前の傷のこともある」
「はい、御主人様。……ありがとうございます」
「礼など言う余裕があるのなら、黙って私について来い」
「はい」
日傘が揺れ、屋根から消えた。
「で。何があったんだ?」
食事を終え、ようやく人心地つくと、銀は早速イリスに訊いた。
「――っ」
とたん、体を小さく震わせるイリス。
「おい?」
「ごめんなさい、話すつもりではいたのだけれど……」
思い出してしまったのだろうか、怯えた気配は消えず、その唇は震え、歯がかちかちと小刻みに鳴り続ける。
「……場所変えるか」
自分を抱きしめ震えるイリスの様子を見てとり、言うと、銀は食卓を立ち、居間のソファーに腰をおろした。
「来いよ」
「え?」
「今来いすぐ来いどんと来い! さあっ、来やがれ!」
自分が痛いのもお構いなしに、ばしばしばしっ、と膝を叩いてみせる。
「えと、その……それって……」
以前自分がしたことを思い出し、顔を赤らめるイリス。
「やかましっ! それ以上言うな!こっちだって死ぬほど恥ずいんだっ!!」
むきになって声を荒らげ、銀は不意に真顔になった。
「寂しいってのは、要するに、独りが怖い、ってこったろ。オレが触ってることでそれがなくなるんなら、その……あーもう! 早くしやがれっ!!」
最後まで言いきれず、再び照れ隠しに怒鳴る。
「……っ」
イリスは目眩を覚えた。
なんて、幸せ。
永のときを、たまにしか頼る者なく、過ごしてきているため、人肌のぬくもりには常に飢えている。触れることのできる時間は、少しでも長い方が――極端な話、窮屈であればあるほど――いい。
熱に浮かされたように、イリスは頷いていた。
「……軽いな」
イリスを膝にのせるなり、銀は呟いた。
「そう? 本当に、重くない?」
銀の首に両腕を回しながら、イリス。
「ああ。これじゃロリガキのときとあんま変わんねえや。歴史の重さ分は覚悟してたんだけどな」
「ばっ……ばかっ」
「ばか? ……そういえば、おまえの軽口って初めてじゃねーか?」
「もう……」
ぼやきつつも、銀に頬をすり寄せ、寄りかかる。
「……やっぱり。あなたと一緒なら、何も怖くない」
深呼吸と共に、安堵を告げる。
「やめろ、恥ずい」
以前とは明らかに違う、イリスの感触と、彼女との間に漂う甘い雰囲気に、今度は銀が一気に顔を赤らめ、そっぽを向いた。




