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須磨の浦に、君が名を問う  作者: ろくさん
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第八話:一ノ谷の城砦

年が明けた寿永三年(1184年)。 屋島での長く陰鬱な冬を乗り越えた平家一門は、大きな賭けに出た。故郷である都にもう一歩近づくため、一門の拠点そのものを摂津国福原ふくはらへと移したのである。福原はかつて清盛が日宋貿易の拠点として、そして新たな都として、その栄華の粋を尽くして築き上げた場所であった。都落ちの際にその多くは兵火によって失われたが、石垣や堀などの基礎はまだ生きていた。


一門はこの地に最後の望みを託した。 福原の西に連なる六甲の山々が天然の防壁となる。その中でもひときわ険しい崖が海に迫り出す一角があった。名を一ノ谷。北は鳥も通わぬほどの険峻な崖。南は寄せる波が洗う断崖絶壁。西に山々を背負い、東に広大な播磨平野と海を望む。ここはまさに天が作り出した難攻不落の要害であった。 平家はこの一ノ谷を中心に、東西に数キロにわたって堅固な陣を敷いた。海には数百艘の軍船を浮かべ、陸路には逆茂木さかもぎを巡らし赤旗を林立させた。その様はあたかもこの地に平家の栄華が再び蘇ったかのような壮大な光景であった。


この新たな拠点への移動は、沈みきっていた一門の士気をわずかながら回復させた。


「見よ、この鉄壁の守りを! 木曽の山猿どもはもちろん、東国の源氏が、いかに大軍で押し寄せようと、この一ノ谷を落とすことなど、できはせぬわ!」


武士たちはそう言って己を鼓舞し、久しぶりにその顔に自信の色を取り戻していた。 つかの間の平穏が訪れた。 人々は福原の焼け跡に、再びささやかながらも生活の営みを築き始めた。


敦盛もまたこの地で静かな日々を送っていた。 あの生死の境をさまよった高熱は、信経の懸命な看病のおかげで数日後には嘘のように引いていた。だが彼女の心と身体には、あの夜を境に決して元には戻らない決定的な変化が刻みつけられていた。


身体が熱から解放された後も、奇妙な微熱がずっと続いていた。それは病の熱ではない。彼女の内側から生まれる甘くそして疼くような熱であった。 信経の姿を見るたびにその熱はふわりと上昇した。 彼の声を聞くたびに指先が小さく震えた。 もう以前のように彼をただの乳兄弟として、ただの従者として見ることはできなかった。


彼は男なのだ。 その事実があまりにも鮮烈な現実として敦盛の前に立ちはだかっていた。 これまで気づかぬふりをしていた彼の節くれだった大きな手。鍛え上げられた肩から背にかけてのしなやかな筋肉のライン。そして自分を見つめるあの静かな瞳の奥に宿る深い深い光。 その一つ一つが今の敦盛にとってはあまりにも刺激が強すぎた。 彼と二人きりになると何を話せばいいのか分からなくなり、意味もなく視線を彷徨わせてしまう。彼の衣が風に揺れてかすかに触れただけで、心臓が喉まで飛び出してきそうになる。


彼女は信経を避けるようになっていた。 それは嫌悪からではない。むしろ逆であった。彼に近づけば近づくほど、自分の内に生まれたこの名付けようのない感情の奔流に飲み込まれてしまいそうで怖かったのだ。 女として彼を求めてしまう自分。 その抗いがたい欲望が、これまで偽りの男として必死に築き上げてきた自分という存在そのものを根底から破壊してしまいそうだった。


信経もまた敦盛のその微妙な変化を痛いほど感じ取っていた。 若はもう自分を以前のようには見ていない。あの夜、彼女が己の腕の中で涙ながらにその弱さを、魂の叫びを吐露したあの瞬間から。自分たちの間には決して越えてはならない一線を越えてしまったかのような、甘くそして危険な空気が流れるようになっていた。


彼はこれまで以上に敦盛から一歩距離を置くように努めた。 決して彼女の瞳を正面から見つめない。 決して二人きりになるような状況を作らない。 それは彼女のためであると同時に、彼自身のためでもあった。 あの夜かいま見てしまった彼女の白い肌。汗ばんだうなじの匂い。苦しげな寝息。その一つ一つが彼の脳裏に焼き付いて離れない。 夜一人寝床に就くとその記憶が鮮やかに蘇り、彼の身体を内側から焼き尽くす。彼はそのたびに冷たい水で頭から己の煩悩を洗い流さねばならなかった。


忠誠と恋情。 その引き裂かれそうな矛盾の中で、信経はただ黙々と己の責務を果たし続けた。 そして彼は誰にも気づかれぬよう密かに、ある準備を始めていた。 それは敦盛を守るためのあまりにも悲壮で、そして究極の覚悟であった。 彼は毎夜月明かりの下で、敦盛のあの黒糸縅の小さな胴丸を自分の身体に合わせて少しずつ調整し始めた。胸当ての紐をわずかに伸ばし草摺くさずりの革を打ち直す。 また彼は、敦盛の笛「小枝」の音色を完璧に模倣する練習を始めた。敦盛が昼間練習するその音色に人知れず耳を澄まし、夜誰もいない浜辺で自らの粗末な横笛を唇に当てる。 その音色はまだ本物には遠く及ばない。だが彼は憑かれたように何度も何度も同じ旋律を繰り返した。 なぜそんなことをするのか。 その問いを彼は自らの心に封じ込めていた。ただ来るべきその日のために。


二月に入り、福原の地にもかすかな春の兆しが見え始めた。 梅の蕾が固く小さく枝の先に膨らみ始めている。風の冷たさも心なしか和らいだように感じられた。 そんな穏やかな昼下がりだった。 敦盛は信経と共に一ノ谷の陣の西の端にある須磨の浦を散策していた。 父・経盛が「顔色が悪い。少しは、外の空気を吸うてこい」と半ば命じるように二人を送り出したのである。


久しぶりに二人きりになった浜辺。 白い砂浜が弓なりにどこまでも続き、その背後には見事な枝ぶりの老松の林が屏風のように広がっている。波は絹の衣が擦れ合うような優しい音を立てて寄せては返していく。 そこは戦乱の世にあるとは思えぬほど静かで美しく、そしてどこか物悲しい場所であった。


気まずい沈黙が二人の間を支配していた。 敦盛は信経から二、三歩離れて砂浜を歩く。 信経はそれ以上近づくことも離れることもせず、黙って彼女の後ろをついていく。 まるで見えない壁が二人の間に存在しているかのようだった。


やがて敦盛は、一つの大きな松の木の根元に腰を下ろした。 彼女は膝を抱え、ただぼんやりときらきらと光る冬の海を見つめていた。 その横顔はまるで精巧な人形のように美しくそして儚かった。


「……信経」


不意に敦盛が小さな声で言った。


「……あの夜のこと……覚えているか」


信経の心臓が大きく跳ねた。 あの夜。高熱に浮かされ、彼女が本心を吐露したあの夜のことだ。


「……無論、覚えております」


信経は声が上ずらないように必死にこらえながら答えた。


「……私は、恥ずべきことを、申した……。平家の武士にあるまじき、弱音を……。どうか、忘れてくれ」


「忘れろ、と、仰せか」


信経はゆっくりと敦盛の方へと歩み寄った。そして彼女の隣に片膝をついた。


「それは、できぬ相談にございます」


その声は低くそして穏やかだった。


「あの夜、私は、初めて、あなた様の、魂の、本当の姿に、触れた。あれを、忘れろと仰せになるのは、この信経に、死ねと、命じられるのと、同じことにございます」


敦盛ははっとしたように顔を上げた。 初めて真正面から信経の瞳を見た。 その黒い瞳の奥に燃えている激しい炎。 それはもはや隠しようのない一人の男の愛の炎であった。


敦盛の白い頬がさっと赤く染まる。 彼女は慌てて再び視線を海へと戻した。 心臓が痛いほど鳴っている。 もう駄目だ。このままでは自分が自分でなくなってしまう。その張り詰めた空気を破ったのは、遠くから聞こえてきた馬の蹄の音と人の叫び声であった。


「伝令! 伝令! 源氏の大軍、播磨に現る! 総大将は、九郎義経!」


その声は二人のつかの間の甘い夢を無慈悲に引き裂いた。 信経は弾かれたように立ち上がった。その顔からは先ほどまでの穏やかな表情は消え失せ、厳しい武士の顔へと戻っていた。 敦盛もまた立ち上がった。だがその身体は小刻みに震えていた。


九郎、義経。 その名は平家一門にとって、もはや悪夢の同義語であった。 倶利伽羅峠で義仲が用いた奇策。そのさらに上をいく戦の天才。常人には思いもよらぬ奇策を用いて敵を殲滅する。 その男が大軍を率いて今この一ノ谷に迫っている。


敦盛の顔から血の気が引いていくのが分かった。 手足の先が急速に冷たくなっていく。 戦。 本当の命のやり取り。 自分は初陣なのだ。この人を斬ったこともないこの手で。人を殺さねばならないのか。あるいは殺されるのか。


その圧倒的な恐怖が敦盛の全身を支配した。 彼女は無意識のうちに信経の袖をぎゅっと掴んでいた。


「……のぶつね……わ、私は……」


声が震えて言葉にならない。


信経はそんな彼女の姿をじっと見つめていた。 その瞳には深い深い哀れみの色が浮かんでいた。


(……やはり、この御方には、無理だ……)


彼は心の中で呟いた。 このあまりにも清らかで美しすぎる魂。戦場の血と泥と狂気の中で生きていけるはずがない。


信経は敦盛が掴む己の袖をそっと解いた。 そして彼女の震える肩に力強く手を置いた。


「……ご案じなさいますな、若」


その声は不思議なほど落ち着いていた。


「全て、この、伊勢信経に、お任せくだされ」


彼はそう言うと、敦盛の驚く顔を後に残し、伝令が駆けてきた陣の中心へと一人走り去っていった。 その後ろ姿を敦盛は呆然と見送ることしかできなかった。


信経の瞳の奥に宿っていた炎。 それはもはやただの恋の炎ではなかった。 愛する人を守るためならば自らの命さえも喜んで燃やし尽くす。 そんな自己犠牲のあまりにも悲壮でそして崇高な決意の炎であった。 その本当の意味に敦盛が気づくのはまだ少し先のことである。

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