第四話:驕る平家
偽りの元服の儀から二年余りの歳月が過ぎた。敦盛は十五に、信経は十七になっていた。 季節が巡るのと同じ速さで、平家を取り巻く風は、その色を日ごとに険しいものへと変えていた。治承元年(1177年)、後白河法皇の近臣たちが平家打倒を企てた、いわゆる「鹿ケ谷の陰謀」が露見する。首謀者たちは一網打尽にされ、平家の権勢はかえって強まったかに見えた。だがこの事件は、これまで水面下で燻っていた反平家の炎を、白日の下に晒す結果となった。
清盛入道は、法皇さえも幽閉するという強硬手段に打って出る。その剛腕は、もはや日の本に敵なしと、一門の者たちに錯覚を抱かせた。彼らは知らなかった。あまりに張り詰められた弓の弦は、やがてたやすく断ち切れてしまうという理を。
六波羅の屋敷では、そんな不穏な世情などどこ吹く風とばかりに、夜ごと宴が繰り広げられていた。それは、自らの権勢を誇示し、内なる不安から目を逸らすための空虚な狂騒のようでもあった。
その夜も、清盛の異母弟である頼盛の邸で、大規模な花の宴が催されていた。 春の夜気を払うように、庭のあちこちに篝火が焚かれ、満開の八重桜が炎に照らし出されて、まるで燃え立つように闇夜に浮かび上がっている。渡殿には数えきれないほどの灯籠が吊るされ、その光はさながら昼の明るさであった。
広間には、平家一門の主だった公達が綺羅星のごとく居並んでいた。それぞれが身に纏うのは、趣向を凝らした色とりどりの直垂や狩衣。袖が触れ合うたびに、上質な衣擦れの音と、各々が焚きしめた名香の香りが、むせ返るような芳香となって立ち上る。
敦盛もまた、父・経盛に伴われ、その末席に座していた。 彼女が着ているのは、月光を思わせる淡い銀鼠の地に、精緻な刺繍で藤の花房をあしらった直垂である。元服を終えてからというもの、彼女の類まれなる美貌はますます磨きがかかり、「光源氏の再来」と誰もが口を揃えて褒めそやした。男たちは憧憬と嫉妬の入り混じった眼差しを向け、女房たちはうっとりとしたため息と共に熱い視線を投げかける。
だが、敦盛の心は凍てついた冬の湖のように静まり返っていた。 目の前で繰り広げられる光景の何もかもが、彼女にはひどく滑稽で虚しく思えた。
膳に並べられた料理は、海山の珍味を尽くした目にも贅沢なものばかり。しかし、都では長雨と日照りで作物が育たず、多くの民が飢えに苦しんでいるという噂を、敦盛は信経から聞いていた。楽人たちが奏でる雅な楽の音も、彼女の耳には、民のうめき声をかき消すための不快な騒音にしか聞こえない。
「見よ、敦盛殿。今宵の月と桜、そして我ら平家の栄華。これぞ、まさしく日の本の春ではないか!」
酒に酔い、顔を赤らめた従兄弟の誰かが、大仰な身振りで敦盛の肩を叩いた。その口から吐き出される酒と香の匂いが入り混じった息が敦盛の顔にかかる。彼女はこみ上げてくる吐き気を必死にこらえた。
彼らの語る言葉は、どれもこれも己の武勇伝か、手に入れた荘園の広さか、あるいは女房たちの美しさについてばかり。誰も飢えに苦しむ民のことなど口にしない。誰も日に日に増していく源氏の不穏な動きについて警鐘を鳴らそうとはしない。 彼らは、この六波羅という美しくも堅牢な殻の中に閉じこもり、その殻が外側から少しずつ蝕まれている現実から目を背けているだけなのだ。
(神託の子……)
敦盛は心の中で自嘲した。自分は、この一門に永代の勝利をもたらすはずの神の子ではなかったのか。だがこの体たらくは何だ。この内側から腐り落ちていくような緩慢な滅びの予兆は何だ。自分がもたらすべき「勝利」とは一体、誰のための、何のための勝利なのだ。この驕り高ぶった者たちの際限なき欲望を満たすためのものか。
そう考えると、自分の存在そのものが巨大な欺瞞の塊のように思えた。偽りの性、偽りの名、そして偽りの神託。自分を構成するその全てが嘘で塗り固められている。
「……気分が、悪い」
敦盛は、隣に控える信経の耳元にだけ聞こえるようか細い声で囁いた。
「少し、夜風にあたりたい」
信経は敦盛の青ざめた顔色と、その瞳に宿る深い絶望の色を瞬時に読み取った。
「御意に」
彼は短く答えるとすっと立ち上がった。そして周囲の誰にも気づかれぬよう巧みに敦盛を宴席から連れ出した。まるで影が主人の身体からすっと分離するように自然な動きだった。
二人は喧騒を離れ、屋敷の裏手にある小さな庭へと向かった。そこは宴の灯りも届かぬ静かな闇に包まれていた。ひんやりとした夜気が火照った敦盛の頬に心地よい。敦盛は庭の隅にある苔むした石にどさりと腰を下ろした。
「……信経」
「は」
「私は、時々、分からなくなるのだ」
「……何が、でございますか」
「私が、私である理由が」
敦盛は膝を抱え、闇を見つめながらぽつりぽつりと語り始めた。それはこれまで誰にも、たとえ信経にさえも、見せたことのない魂の告白だった。
「皆、私を『神託の子』と呼ぶ。平家の勝利の象徴だと。だが、私には、弓を引く才も、馬を駆る術もない。ただ、笛を吹くことしかできぬ。こんな私が、一体、どうやって一門に勝利をもたらすというのだ」
「……」
「もし、本当に、私にそんな力が備わっているのだとしたら……私は、一体、誰のために、その力を使えば良いのだ? あの、宴席で、己の富貴に酔いしれている者たちのためか? 民の苦しみなど、歯牙にもかけぬ者たちのためにか?」
その声は震えていた。十五歳の少女が背負うにはあまりにも重すぎる問いだった。信経はすぐには言葉を返せなかった。敦盛の問いは彼自身の心をも深く抉っていたからだ。彼もまた平家の分家筋とはいえ武士の家に生まれた男。一門の繁栄を願わぬわけではない。だが今の平家の在り方は、彼の目にも正道を大きく踏み外しているように見えた。
「若……」
信経は慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「私が、お仕えしているのは、平家一門ではございませぬ。私は、ただ、あなた様、お一人にお仕えしているのです。あなた様が、何を望み、何を憂い、何を成そうとなされるのか。それだけが、私の道標にございます」
それは彼の偽らざる本心だった。
「ですから、どうか、ご自分をお責めなさらないでください。若は、若のままで、ただ、そこに居てくだされば、それで……」
その時だった。屋敷を囲む高い築地塀の向こうから、人々の騒ぐ声と、何かが燃えるようなパチパチという音がかすかに聞こえてきた。
「……何の音だ?」
信経が眉をひそめる。敦盛は弾かれたように立ち上がった。
「……信経。行ってみよう」
「若、なりませぬ! 危険にございます!」
信経が慌てて制止する。だが敦盛の瞳には抗いがたい強い光が宿っていた。
「見たいのだ。この壁の向こうで、何が起きているのかを。この目で、確かめたい。私たちが、目を背けているものを」
その瞳に信経は逆らうことができなかった。それはただの好奇心ではない。自らの運命と向き合おうとする悲壮な覚悟の光だった。
「……承知、いたしました。ですが、決して、お一人にはいたしませぬ。この信経が、必ずや、お守りいたします」
信経は自分の羽織を脱ぐと、それを敦盛の頭から深く被せた。敦盛の、月の光に照らされてもなお目立つ美しい顔を隠すためだ。そして自分も供の者から借りてきた粗末な頭巾を被った。二人は使用人だけが使う裏の小さな潜り戸から、音を立てぬようそっと屋敷の外へと抜け出した。
一歩外の世界へ足を踏み出した瞬間、敦盛は息をのんだ。そこは六波羅の華やかな世界とはまるで別次元の光景が広がっていた。
屋敷の周りには粗末な身なりの人々が黒山の人だかりを作っていた。その誰もが飢えと疲労で頬はこけ、その眼だけがぎらぎらと獣のように光っている。彼らの視線の先にあるのは燃え盛る篝火だった。いや、それは篝火ではない。打ち壊された貴族の牛車が燃え上がっているのだ。
「平家の犬めが! 俺たちの年貢で、毎夜、遊び呆けやがって!」
「食い物を出せ! 俺たちの子供が、飢え死にしていくんだぞ!」
人々の口から、平家に対する剥き出しの憎悪と呪いの言葉が次々と吐き出される。それは敦盛がこれまでの人生で一度も聞いたことのない生々しい人々の声だった。
敦盛は信経の腕にしがみつき、震えるのをこらえるので精一杯だった。怖い。しかし、それ以上に彼女の胸を打ったのは深い深い罪悪感だった。
人だかりの隅の方で、小さな子供が母親らしき女の袖を引き、か細い声で何かを訴えていた。
「かあちゃん、お腹すいたよぉ……」
「……もう少しの、辛抱だからね。もう少し、したら……」
母親はそう言って子供を抱きしめるが、その声には力がなかった。彼女の背負った赤ん坊は、泣く元気もないのかぐったりとして動かない。
敦盛は、その光景から目を逸らすことができなかった。自分はついさっきまで、食べきれぬほどの珍味を前にこの世の退屈を嘆いていた。この子たちが一口の粥もすすれずに泣いている、すぐその隣で。
その時、群衆の中から一人の男が、敦盛たちのすぐ近くにいた裕福そうな町人と思しき男に掴みかかった。
「おい、てめえ! その懐に隠してるのは、握り飯じゃねえのか! よこせ!」
「や、やめろ! これは、病気の女房に……!」
「うるせえ! 生きるか死ぬかだ!」
暴力的な光景に、敦盛が思わず「あっ」と小さな声を上げた。その声に何人かの男たちがぎろりとこちらを睨みつけた。
「なんだ、てめえら。見かけねえ顔だな」
まずい。信経の背中に冷たい汗が流れた。敦盛の羽織は上質で、どう見てもこの場にいるべき人間ではない。
信経は咄嗟に敦盛の腕を引き、その場から走り出した。
「逃げるぞ!」
「待て、こら!」
どれくらい走っただろうか。背後の足音が遠のいたのを確かめると、信経は古びた社の影に敦盛を引き込み、荒い息を整えた。敦盛はその場にへなへなと座り込んでしまった。心臓が破れそうなほど激しく鼓動している。
「……申し訳ございませぬ。若を、危険な目に……」
信経が息を切らしながら謝罪する。しかし敦盛は力なく首を振った。
「……いや。礼を言うのは私の方だ」
敦盛は俯いたまま呟いた。
「……ありがとう、信経。私に、本当の世界を、見せてくれて」
その声は涙で濡れていた。
「私は、何も知らなかった。知ろうとも、しなかった。あの壁の内側で、美しい着物を着て、悲劇の主人公を気取っていただけだ。……恥ずかしい。私は、何という、愚か者だったのだろう」
彼女の肩が小刻みに震えている。信経はかける言葉もなかった。ただその隣に膝をつき、震える背中を見守ることしかできなかった。
遠くで頼盛の屋敷の方向から、宴の賑やかな楽の音が風に乗ってかすかに聞こえてきた。それはまるで、この世の終わりを祝う悪魔の音楽のように二人の耳に不気味に響いた。
この夜を境に、敦盛の心は決定的に変わった。彼女の瞳からかつての儚げな憂いの色は消え、代わりに鋼のような硬い光が宿るようになった。それは自らが背負うべき運命と、そして滅びゆく一門の罪を直視しようと決意した者の光だった。
偽りの神託の子は、この夜、本当の意味で生まれたのかもしれない。美しく、そして残酷な現実の世界に。




