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須磨の浦に、君が名を問う  作者: ろくさん
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第十三話:東への逃避行

一歩また一歩と、敦盛は泥濘ぬかるみに足を取られながら東へと歩を進めた。 背後では、一ノ谷の戦場の喧騒がまだ遠雷のように微かに響いている。だが彼女はもう二度と振り返らなかった。振り返るべき過去は、すべてあの浜辺の炎と煙の中に置いてきた。


市女笠いちめがさを深く被り俯き加減に、ひたすら歩く。 彼女の周囲には、同じように戦場から命からがら逃げ出してきた、おびただしい数の敗残者の群れがあった。 鎧を脱ぎ捨て泥にまみれた小袖一枚で、虚ろな眼をして歩く元・武士たち。あるじを失い泣きじゃくりながらその名を呼び続ける雑兵たち。そして男たちに手を引かれ、あるいは赤子を背負い、着物の裾を泥で汚しながらよろめくように歩く女房や子供たち。 誰もが己のことで精一杯だった。隣を歩く者が、たとえ昨日まで同じ釜の飯を食った同僚であろうと、今は気遣う余裕などひとかけらもない。時折力尽きて道端に倒れ込む者がいても、誰も足を止めようとはしなかった。見捨てられた者は、ただ泥の中に黒い塊となって取り残されていく。 それは平家一門という巨大な船が沈没した後に、海に投げ出された者たちがわずかな流木に必死にしがみついている地獄絵図であった。


敦盛は、その無慈悲な人間の流れの中に己の小さな身体を紛れ込ませた。 誰とも目を合わせない。誰にも声をかけない。ただひたすら無表情を装い歩き続ける。 彼女の胸の肌着の奥深くには、信経が遺したあの書状が、彼の最後の体温を伝えるかのように仕舞い込まれていた。それが彼女の唯一の道標でありお守りであった。


(……生きる……)


彼女は心の中で何度もその言葉を繰り返した。


(……私は、生きなければならない。この子の、ために……)


下腹部にそっと手を当てる。 まだ何の実感もないその場所。だがそこに信経の命が確かに宿っている。その確信だけが泥濘に沈みそうになる彼女の足を、前へ前へと押し進める唯一の力であった。


最初の数日間は悪夢のようであった。 昼は人の目を避け、山中の獣道や深い森の中に身を潜めた。夜になってようやくおぼつかない足取りで東を目指す。 信経が布包みに入れてくれていたわずかばかりの干し飯と干し肉を、少しずつ少しずつ齧り、岩清水で喉の渇きを癒した。 夜の森は恐ろしかった。ふくろうの不気味な鳴き声。風が木々を揺らすざわめき。闇の奥で光る獣の眼。そのたびに敦盛は心臓が凍り付くような恐怖に身を縮こまらせた。 だがそれ以上に恐ろしかったのは人であった。 時折山中で落ち武者狩りの集団に出くわすことがあった。彼らは血に飢えた獣のような目で獲物を探し山中を徘徊している。一度松明たいまつの光がすぐそこまで迫ってきた時は、敦盛は咄嗟に腐葉土の窪みに身を伏せ、死んだように息を殺した。武者たちの下卑た笑い声と足音がすぐそばを通り過ぎていく。その生きた心地のしない数瞬は、彼女にとって永遠よりも長く感じられた。


一週間が過ぎる頃には食料は完全に底をついた。 敦盛は生まれて初めて本物の飢えというものを知った。 腹の中の全てのものが溶けて消えてしまったかのような空虚感。そしてその空虚感を埋めようとして胃が自らを喰らおうとするかのような激しい痛み。 彼女は木の芽を口に含み、草の根をかじった。だがそんなものでこの根源的な飢えが満たされるはずもなかった。 世界が黄色く見え始める。まっすぐに歩くことさえおぼつかなくなってきた。


その日、彼女はふらふらと山を下り、一軒の寂れた農家へとたどり着いた。 茅葺かやぶきの屋根が崩れかけたあまりにも貧しい家であった。 庭先では人の良さそうな老婆が一人黙々と畑を耕している。 敦盛はその家の生垣の陰からしばらくその様子を窺っていた。 老婆の腰には小さな握り飯が一つ結びつけられている。おそらく彼女の昼餉ひるげなのだろう。 敦盛の喉がごくりと鳴った。 唾が口の中に溢れてくる。


(……乞う、のか……? この、私が……?)


平家の公達であるこの私が。物乞いなど。 死んだ方がましだ。 そう思った。 だがその瞬間、彼女の下腹部で何かがきゅるりと動いたような気がした。 もちろん気のせいだ。まだそんな時期ではない。 だがその幻のような胎動が、彼女のくだらない矜持を粉々に打ち砕いた。 死ぬわけにはいかない。 この子が腹を空かせている。 母である私がこの子を飢えさせるわけにはいかない。


敦盛は意を決し、生垣の陰からよろめき出て老婆の前に進み出た。 そしてためらいを振り払うように、泥の地面に両手をつき深く深く頭を下げた。


「……お、お恵みを……。三日の間、何も、口にしておりませぬ……。どうか、一口……一口だけで、よろしいのです。食べ物を、お恵みくだされ……」


声が震えていた。 涙がぼろぼろとこぼれ落ち、地面の泥を濡らした。 屈辱と惨めさで身体中の血が逆流しそうであった。


老婆は驚いたように動きを止め、しばらく敦盛の姿を見つめていた。 その皺だらけの目には侮蔑や不審の色はなかった。ただ深い深い哀れみの色が浮かんでいた。


「……まあ……。都の、お方かい……。こんな、ところまで……難儀な、ことじゃったのう……」


老婆はそう言うと、ため息を一つついて、自らの腰の握り飯を解いた。そしてそれを二つに割り、大きい方の半分を敦盛の前に差し出した。


「……こんなものしか、ないが……。さあ、お食べなされ」


差し出された粗末な麦飯の握り飯。 だがそれは今の敦盛にとってこの世のどんなご馳走よりも輝いて見えた。


「……ありがたき……幸せ……」


敦盛は嗚咽しながらそれを受け取ると、まるで獣のように夢中でその握り飯を口の中へとかき込んだ。 麦の素朴な甘さと塩のしょっぱさ。そして老婆の手の温かさ。 その全てが空っぽだった彼女の身体と心に染み渡っていく。 彼女は食べながらただ声を上げて泣き続けた。 この日、平家の姫君、平敦盛は死んだ。 そしてただ子を想う一人の名もなき母が生まれたのである。


旅は続いた。 敦盛は変わった。 彼女は物乞いをすることを覚えた。時には同情を引くためにわざと咳き込み、病人を装うことさえした。 またある時は人買いに攫われそうになった。その時は咄嗟に狂人のふりをして大声で意味不明な歌を歌い、髪をかきむしり地面を転げ回った。そのあまりの気迫に男たちは気味悪がって逃げていった。 かつての彼女であれば到底考えもつかないような行動であった。 生きるため。そしてこの子を守るため。彼女は何にでもなった。獣にも狂人にも嘘つきにも。


春が過ぎ、初夏が訪れる頃には彼女の身体にも明らかな変化が現れていた。 腹が目に見えて膨らみ始めたのだ。 それは彼女にとって生きる希望の象徴であると同時に、この過酷な旅においてはあまりにも危険な弱点であった。 彼女はゆったりとした古着を何枚も重ね着して腹の膨らみを隠した。だがそれもいつまで持つか分からなかった。 焦りが募る。 東へ。少しでも早く。 信経が指し示したあの安住の地へ。


そして夏も盛りの頃。 都を出てから半年近くが過ぎていた。 敦盛はついに目的の地である尾張国おわりのくにへとたどり着いた。 長く厳しい旅路は彼女の姿をすっかりと変えていた。 着物はぼろぼろに擦り切れ、肌は泥と垢に汚れ日に焼けて土気色になっている。かつての輝くような美貌の面影はどこにもない。ただその痩せこけた顔の中で双眸だけがぎらぎらと尋常ならざる光を放っていた。 それは生き抜いてきた者だけが持つ強い意志の光であった。


彼女は道行く行商人に、信経の文に記されていた尼寺の名を尋ねた。


「……ああ、あの妙法寺みょうほうじのことかい。それなら、この道をまっすぐ半里はんりほど行った、丘の上だよ。ずいぶんと古びた、小さなお寺さね」


半里。 あとわずか。 敦盛は最後の力を振り絞り、汗だくになりながら丘へと続く坂道を登った。 息が切れる。腹の子が重い。一歩進むごとにめまいがした。 だが彼女は決して足を止めなかった。


やがて視界が開け、木々の向こうにそれらしき建物が見えてきた。 行商人の言った通り、それは大きな寺ではなかった。むしろ寺というよりは、少し大きないおりとでも言った方がふさわしいような質素な佇まい。だがその静かで古びた佇まいが今の敦盛には、この世のどんな壮麗な御殿よりも安らかで神々しいもののように見えた。 門の前には「妙法寺」と彫られた古びた木の看板が静かにかかっている。


(……着いた……) (……ようやく……着いたのだ、信経……)


門の前にたどり着いた瞬間。 これまでずっと張り詰めていた意志の糸がぷつりと切れた。 足から力が抜ける。 彼女はその場に崩れ落ちるようにへたり込んだ。 涙が溢れてきた。だがそれはこれまでの悲しみや屈辱の涙ではなかった。 ようやくたどり着いた安堵。 そして生き抜いたという静かな誇り。 その全てが入り混じった温かい涙であった。 彼女はしばらくその場で動けなかった。


やがて彼女はゆっくりと立ち上がった。 そしてその古びた木の門に手をかけた。 ぎい、と重い音がする。 彼女は最後の力を振り絞り、その門を叩いた。 とん、とん、と。 そのか細い音は、この静かな丘の上にやけに大きく響き渡った。 彼女の第二の人生の始まりを告げる音であった。

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