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Chapter-6

 坂木えみを家まで送ってから、僕はハンバーガーショップに戻った。会社帰りらしき大人がぽつぽつといるだけの店内で、磯崎は一人テーブルに向かって座っていた。

「橘さんは?」

「山中先輩が送って行った」

「そっか」

 僕は磯崎の正面に腰を下ろす。

「僕の読みは間違っていた」

 ふいに口を開くと、磯崎は言った。

「え?」

「間違っていたんだ」

 それだけ言って、磯崎は黙り込んだ。

 僕は立ち上がり、二人分の飲み物とポテトを買って、席に戻った。

「橘綾香が泣き出したところで、気づいた。彼女が抱えた感情の中心は、劣等感や嫉妬ではなかった。彼女が坂木えみのために僕との繋がりを作ろうとしたのは、過剰なおもねりなどではなかった」

 僕が磯崎の前にコーラを置くと、磯崎は、顔も上げずに言った。

「え?でも、橘さんはさっき言ってたよね。坂木さんのピアノを聴くのが辛いからって……」

「あれは嘘だ」

「嘘?」

 僕はテーブルの真ん中にポテトを載せたトレイを置いた。ポテトに手を伸ばし、口に運ぶ。

「自分の感情を坂木えみに知られたくないために、ついた嘘だ」

 重苦しい声で、磯崎は続けた。

「橘さんは、結局坂木さんが家にいるのが嫌だったの?別に嫌じゃなかったの?」

「嫌ではなかった。むしろ嬉しかった。と同時にたまらなく嫌だった。だから不安定になったんだ」

「どういうこと?」

「彼女は混乱状態にあった。自分で認められる感情と認められない感情があり、それを自分の中でどう位置付けたらいいのかも、どう扱ったらいいのかもわからなかった。そしてそれは今も継続中だ」

「ぜんぜんわからないんだけど……」

「あの後山中先輩は橘綾香に想いを告げた。橘綾香は言った。自分はたぶん、坂木えみのことが好きなのだと」

 僕はポテトを口に運ぼうとしていた手を、思わず止めてしまった。

「それって」

「同性に恋心を抱くことへの戸惑い……自身をそういったいわゆる『マイノリティ』と自覚することへの抵抗感や、坂木えみが自分の想いを受け止める可能性の低さへの絶望、さらに坂木えみから自分に向けられるかもしれない嫌悪への恐怖、それら諸々がありつつも同じ屋根の下で過ごす中で膨れ上がる気持、そういったさまざまなことが、橘綾香の苦しみの内実だった。僕と坂木えみに接点を持たせることに協力したのは、坂木えみに彼氏を作らせることで、すっぱり想いを断ち切りたかったからだ」

「……それを聞いて山中先輩は?」

「救いだったのは、その時の山中先輩の反応だ。彼は嫌悪も見せず、彼女を否定することもなく、振られたにもかかわらず、それでも幼なじみだと言って、彼女を送って行った」

「そっか」

「僕の眼は曇っていた。勝手に自分の経験に重ねて、見当違いな解釈をしていたんだ」

 磯崎のガラス玉みたいに見える目が、どこに焦点を合わせているのかわからない。

「僕はやはり、人の気持がわからない人間なのかもしれない」

 僕は磯崎の正面に座っている。それなのに今目の前の磯崎は、どこか別の空間で独り言を言っているみたいだ。

 何故だか僕は、言いようのない怒りを覚えた。

「……そんなのあたりまえだ」

 僕が言うと、磯崎は「え?」と問い返した。

「自分の経験を元にして物を見るなんて、そんなのあたりまえのことだ。自分の経験に勝手に重ねて解釈を間違えるなんて、そんなの普通のことだ。人の気持なんてみんななかなかわからない。君は何でもわかるから、人の気持も他のことと同じくらいよくわかって当然だと思うのかもしれないけれど、そんなの思い上がりだ」

 磯崎はぽかんとしていた。

「君は思い上がってる。君にだってできないことや苦手がある。それの何がいけない?」

「……どうしてそんなに怒ってるんだ?」

「知るもんか。感情なんて自分でだってなかなかわからないのに、他人にどうしてわかるんだ」

 言うと僕は、アイスコーヒーに口をつけた。

 磯崎は、あっけにとられて僕を見ていた。

「……坂木さんは、とりあえず橘さんに謝りたいって言ってたよ」

 僕は言った。

「そうか」

「それから君について。君のこと、変だって言ってた」

「そうか」

「磯崎くんは変人だから、きっとモテないよ、って言ってた」

「そうか」

「でも自分は好きだって言ってた。初めて見た日からずっと」

「そうか」

「ピアノ発表会で君が弾いた曲。ええと……」

「リストのラ・カンパネラ」

「そうそれ。発表会の日、プログラムでその曲名を見て、自分より年下の小二になんて絶対まともに弾けるわけないって思ってたんだって。なのに出てきたちびっこは、堂々と弾きこなした。ぴんと姿勢がよくて、もの凄く真剣な顔をして……鍵盤の上を必死で飛びまわるその子の小さな手を見ていたら、自分ももっと頑張らないといけないと思ったって、そう言ってたよ」

「そ……」

「頑張ってるから、好きだって」

 僕は磯崎の表情を窺った。

 ポーカーフェイスを装っているけれど、ちょっと照れたような顔をしている。

 何でも平気で上手くできるように見える磯崎は……事実、大半のことはそうなのだけど……「努力」を認められると、たぶん新鮮で、嬉しいのだろう。


 ハンバーガーショップを出て駅に向かって歩いていると、ショッピングセンターの一階に楽器店があるのが目についた。

「ラ・カンパネラって、今でも弾けるの?」

 話を聞く限りえらく難しい曲らしいのでそう訊ねると、

「たぶん」

 磯崎はそう答え、頼みもしないのに楽器店の中に入って行った。

 閉店十分前くらいで、人の少ない店内。磯崎は並ぶ電子ピアノの間をすり抜け、奥に一つだけ置いてあったアップライトピアノの椅子に腰かけた。両手の指をわきわきと動かすと、ふわりと鍵盤の上に手を置く。

 光の粒が零れ落ちるような音の始まりに、通路を歩いていた幾人かが視線を向けるのが見えた。楽器店の店長らしき人が、口をあんぐり開けている。

 凄かった。

 僕は音楽はそんなに得意ではないけれど、それでもそのリズム刻みがとてつもなく正確なコントロール下にあることはわかった。信じられないような高速で動く磯崎の長い指が、ひらめくようにどれだけあちこち移動しても、的確な場所を的確に押しているのは明白だった。次第に数を増して奔流のように溢れかえる大量の音の粒が、それでも妙に整然と、すべて狙ったとおりに飛び跳ねる。きらきらしていた音がいつの間にか怒涛の塊と化したかと思うと、荒々しさの中で曲は終わった。間違って弾いた部分があったかどうかなんて、僕にはわからない。通路では、十数人の人が足を止めていた。磯崎が弾き終えた時、一人が思わず拍手して、まわりもつられて拍手をした。

「今でも練習してるわけじゃないんだろ?」

 僕は訊ねる。

「ピアノに触ったのは、一昨年授業で弾いた時以来だ」

 顔を紅潮させて近づいてきた楽器店の店長が、磯崎の答えを聞いて顔をしかめた。通路の人たちは、すでに何事もなかったかのように散り始めている。

「毎日練習している人に失礼だよ」

「だが弾けるものは仕方がない」

「本当にいやな奴だよ君は」

 磯崎は、背後にいた楽器店の店長に向き直ると右手を大きく振って芝居がかったお辞儀をし、

「ピアノを弾かせていただきありがとうございました!」

 よく響く、いつものいい声で言った。

 蛍の光が流れだした店を、僕たちは後にする。

「平然とピアノを弾く僕はいやな奴だ。だから僕はピアニストではなく探偵なんだ」

 外に出ると、妙に晴れ晴れとした顔をして、磯崎は言った。

「苦手だから探偵?」

「そんなことはない。探偵は僕の天職だ」

「どういうこと?」

「探偵の僕はいやな奴ではない」

「どうかなあ」

 煌々とした駅の明かりを眺めながら、僕たちは笑った。

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