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 洋行が秋絵のメールに気がついたのは、翌日の就業時間がとっくに過ぎたあとだった。

自分からは何もアクションを起こさない。

そう決めたものの、どこでも秋絵と接点がもてる道具は気になる存在で、ついそれを手にとっては小さく落胆していた。そんな自分が嫌で、あえて無視する方向になって日数を重ねる。本当に久しぶりの着信の印に、無意識に息を吐き出す。

彼女は、やっぱり自分と仲直りがしたいのだ、と。

幸い、自分の気の迷いを秋絵に知られることはない。共通の知人にすら、洋行は亜紀子のことをもらしてはいなかったのだから。

彼女らしい柔らかな言葉で綴られた謝罪文だろう、と、ディスプレイが知らせる秋絵からのメールに、一瞬頬を緩め、それを読むべくボタンを押す。

そこには、彼が想像もしていなかった言葉が、あまりにもそっけなく並べられていた。

"もう無理だと思う。ごめん、別れましょう"

思わず携帯電話を握り締め、床へ叩きつけようとする衝動を抑える。

咄嗟に、彼女を問い詰めたくて、急いで彼女に電話を繋げる。

幾度かの呼び出し音の後、彼女の声が聞こえた。まるでそれはどこか遠い国から聞こえてくるようで、洋行の焦燥感を一層煽り立てた。


「どういう意味だ?」

「意味って言われても」


何の前置きも無しに、行き成り切りつける。それに対して、秋絵のほうは今までと同じやわらかな声音なのに、ひどく他人行儀だ。当然、そんな扱いなど受けたことがない洋行は愕然とする。何か、が、手から滑り落ちていくような感覚に陥る。先ほどまであったかすかな罪悪感すら忘れ、頭に血が上っていく。


「そのままって、おまえ、これだけじゃわかるわけないだろ」

「もう無理、だから別れる。それじゃ、だめ?」

「だめって、おまえ」


急いて言葉が荒くなっていく洋行に対し、秋絵はどこまでも穏やかだ。

洋行は、あと少しで手が届かないようなもどかしさを感じる。


「もう、いいんじゃないかな?私たち」

「いいって、いまさら。どれだけ長い間つきあっていたと思ってるんだよ。そんな簡単に割り切れるもんじゃねーだろ」

「まあ、長いよね、ほんと。両手の指じゃ足りないぐらいになっちゃった」


自分の言葉が、秋絵を素通りしていくようなもどかしさを感じる。

何か、を間違えたのかもしれない。だけど、その何かがわからない。

亜紀子とのことを秋絵が知るはずもない。

それ以外の自分は、彼女ときちんとつきあっていたはずだ。


「前さ、友達が結婚したんだよね。洋行も知っている人」


その名を告げられ、洋行も知る名前に疑問が沸き起こる。

関係性からいえば、自分も二次会程度には呼ばれるかもしれない、程には知人である。


「まあ、勝手に返事して、一人で参加したけどさ、披露宴も二次会も」

「いや、誘われてたんだったら、言ってくれたって」

「んーー、でも誘ったらつきあってくれた?」


仮定の話をするのは好きではないものの、秋絵から誘われれば参加していたかもしれない。どれほどそれを、煩わしいと捕らえていたとしても。

そこまで考えて、秋絵の方から不自然なほどに「結婚」の二文字が出なかったことに気がついた。男の彼の方ですら、先輩同僚、友人関係からあれこれ言われることはあったというのに、一番の当事者たる恋人からそれを促す言葉を一度も聞いたことがない。

おそろしく不自然だ。

洋行が適齢期だということは、彼女はそれ以上に適齢期である。

そんな自明な出来事に、気がついていなかった。いや、気がつかないふりをしていた。

「まだ早いですよー」という逃げ口上とともに、それ以上の思考は停止していた。今の付き合いの延長線上に“それ”がある、というぼんやりとした認識はあったものの。


「まあ、それは、そこまで隠し事をする私が悪いんだけどね。今思えばもっとあっけらかんと披露宴なんだって言えばよかったと思う」

「あたりまえだろう、それは。そんな隠し事するようなまね」


どこかで決まりが悪く、強く言い切ることができない。煮え切らない洋行を気にすることもなく、秋絵が続ける。


「ごめん、もう無理なんだ。本当に無理」

「無理って」

「よく考えたら、言えないことが普通になっていて、もうこれからどうやってあなたに伝えたらいいのかわからない」

「もう一度最初からやり直せばいいだろう」

「今さら?もう三十だよ?」

「だから、結婚しようって」

「どうして急にそんな風に思ったわけ?今までそんなこと一言もなかったよね?」


原因の一つに亜紀子との関係があるせいか、洋行の言い訳は歯切れが悪い。長く付き合っていた彼女、秋絵がいるにも関わらず、途中で割り込んできた無神経な女に少なからずも心をひかれていたなどとは、口が避けても言えない。しかも、その罪悪感を覆い隠そうとするため、半ばやけになって秋絵にプロポーズしただなんて。何も知らないはずの秋絵に全てを見透かされているような恐怖感を抱く。


「で、どうしてプロポーズしようだなんて思ったの?」


これは、最後のチャンスなのかもしれない。

そう思ったものの、先ほどから洋行の唇は、ぴたりと閉じられたまま動いてはくれない。純粋な思いから、彼女にプロポーズをしたわけではない、という罪悪感と、その後に起こった出来事が洋行の心に重くのしかかる。

どの口で、彼女に愛しているなどと言えるものか。

ただ一言、好きだから、と、軽くかわせばよかったにもかかわらず、洋行はそれをするには真面目すぎた。真面目すぎるがゆえに、少しでも心を惑わせた自分自身が許せなくてあんなことをしでかしてしまったのだから。


「……。わかった。もう終わり」

「ああ」


強がって、なぜだか最後の言葉だけは発することが出来た洋行と、どこかすっきりしたような秋絵が最後の言葉を交わす。


「さよなら」

「さよなら」


本当に、これが最後の会話になってしまうのだと、あっけなく切れた通話に呆然とする。

どうして、ただ好きなのだと伝えられなかったのかと。

額に手を当てながら物言わぬ携帯を見つめる。


「好き、なんだ」


洋行の言葉は誰にも聞かれることなく、人影がまばらなオフィス街へと吸い込まれていった。

もう二度と、その言葉を彼女に言う機会は巡ってこないだろうと、後悔をしながら。






「……」

「何?」

「……いや」


 洋行は一年ぶりに谷野に呼び出され、ビール会社が経営している室内のビアガーデンに足を運んだ。洋行が到着した頃には、すでに難しい顔をした谷野が座っており。目の前に置かれたビールのグラスに水滴がつくままに放置されていた。

当然、洋行もお目当てのビールを頼み、軽くいくつかのつまみを注文する。その間も谷野は黙って水滴を凝視したままだ。

何度目かのわけのわからないやりとりのあと、ようやく重い口を開き、谷野が本題を切り出したのは、二人で黙々と食したから揚げの皿が空になる頃だった。


「あのさ、秋絵ちゃん…、って元気?」

「さあ?元気なんじゃねーの?」


久しぶりに聞くその名に胸が痛むのを感じた。ただ、その痛みも、当初のような激しい痛みではなく、どこか懐かしさを伴うような感傷的な何かが含まれているようだ。


「じゃあさ、えっと、おまえらって別れた?とか」

「そうだけど?」


洋行は、あれ以来同級生の集まりには参加していない、秋絵のことを知られていてばつが悪いせいもあるが、何よりも再び土井亜紀子と顔を会わせることを避けたかったせいだ。彼女に会わないようにするのは、至極簡単なことだった。ただ引っ越して通勤ルートを変えてしまえばよいだけだ。たったそれだけで彼女との偶然の出会いはまるでなくなった。おまけに、最後まで自分は亜紀子に連絡先を教えていなかったことが幸いした。あんなにも短い期間で焦がれるように惹かれた亜紀子のことを、今ではまるで思い出す事もない。正直なところ、どんな顔だったかすら思い出せないでいる。同時に失った秋絵の存在が大きすぎて、そんな余裕がなかったせいなのかもしれない。

今思えば、随分酷い事をした。

全てが終わり、時間が癒していった現在の洋行にはそう思えるだけの余裕がある。だが、もう一度土井に顔を合わせるだけの度胸が無い。


「そっか、そうなのか」


安心したかのように、谷野は中途半端に残ったビールを飲み干し、代わりのビールをオーダーしている。


「で、何?」

「え?いやいやいや」


昔から、谷野は嘘をつく事が下手だ。現に、今でも目が泳いでいる。


「で?そんなことを聞くためにわざわざ呼び出したわけじゃないだろ?」

「ええ?いやいや、集まりに出てくれなくなったしさ、おまえ、なんか落ち込んでいるのかなぁ、なんてさ」


泳ぎっぱなしの視線は、新しいグラスに注がれ、無駄なはしゃぎ方をしてそれをあおぐ。


「で?」

「え?あーーーー、えへ?」


カワイイポーズを谷野がとっても、それは滑稽なだけだ。素早く蹴り上げて、続きを促す。


「秋絵ちゃんが結婚するって聞いて、さ」


洋行は、その言葉を聞いて、二人でやり取りした最後の会話を思い出していた。

素直に、好きだと言えなかった自分。


「そっか…」


三分の一ほど残っていたビールを流し込み、洋行も新しくオーダーをする。


「飲もうか」

「ああ」


新しく届いたグラスで、洋行は谷野と乾杯をする。


「ま、いつかはいいことあるさ」

「そうだな、いつかはな」


谷野と飲んだビールは、久しぶりに本当のビールの味がした。

こうやって心配をしてくれる友達がいるだけ、自分も捨てたものじゃないと、そう心の中で思いながら。


秋絵と過ごさない季節が一巡りする。

もう、君がいなくても、僕は大丈夫だと、どこかで幸せになっているはずの彼女に向って呟く。


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