1話
「シエナ! シエナ、どこだ!? 私の愛しいシエナ、返事をしてくれ!!」
「で、殿下……っ、私は、ここに……」
「──ああっ、シエナ……! 良かった、無事か!」
泥に塗れ、魔物の血や体液で顔を汚し。
足を縺れさせながら二人の男女はひしっと抱き合った。
男の美しい髪や顔は薄汚れている。
男に抱きしめられている女もまた、美しい髪と顔を汚していたが二人はそんな瑣末な事など気にせず、互いの無事を喜び合い、強く抱き合った。
まるで生き別れた恋人と運命的な再会を果たしたかのような二人の様子。
だが、ここは森深く、周囲は凄惨な光景が広がっていた──。
「でっ、殿下……! アンドリュー殿下……! お早く退避を……! このままでは持ちません……!」
「──ああ、くそっ! お前達、私たちの囮になってでも魔物を食い止めろ!」
アンドリューは自分の護衛にそれだけを言うと、シエナを抱き上げ、この場から離脱するのを最優先にした。
護衛達が退路を確保しているのを確認し、その方向へ一目散に駆け出す。
周囲には、まだ自分達と同じ学園の制服を身に纏った学生達が多く居る。
学生達は引率の教師や騎士に何とか守られ、アンドリューが逃げ出した後に続いて、退避を始めた。
多くの学園生が取り残される、そんな中に信じられない表情でアンドリューを見つめる女性がいた。
その女性こそ、アンドリューの婚約者、ラシェル・スタシータであった。
◇◆◇
約、半年前にそれは起こった。
エデュンサ王国の、王侯貴族が通う学園。
そこで、魔法訓練の授業中。
学園生が放った攻撃魔法が暴走し、多くの怪我人が続出した。
その授業にはこの国の王太子、アンドリューも参加しており、彼もまた例に漏れず怪我を負った。
その時、アンドリューの近くに居た子爵家の令嬢、シエナ・ハーパルがパニックになりながらもアンドリューを「聖魔法」で治癒したのだ。
聖魔法の適性はあれど、シエナの聖魔法はお世辞にも強力なものではなかった。
だが、王太子であるアンドリューの怪我を治したい、というシエナの強い気持ちが聖魔法の覚醒を促した。
アンドリューを治癒するために放ったシエナの聖魔法は眩い光を放ち、アンドリューの怪我をあっという間に完治させた。
聖魔法の「適性」を持つ人間は、この国では希少な存在だ。
聖魔法を発動出来る人間は数少なく、そして大怪我を負ったアンドリューを瞬く間に治癒したシエナの聖魔法は賞賛された。
国で一番の聖魔法の使い手を「聖女」と呼ぶ。
誰が言い出したのか。
アンドリューを癒したシエナを、誰かが「聖女」だと呟いた。
その言葉はどんどん広がり、シエナが次代の聖女だと。
シエナこそがこの国の聖女だという空気が広がっていった。
そんな事があってから。
アンドリューの態度が段々と冷たくなり、元から殆ど無かった交流が完全に無くなったのだ──。
◇
「ラシェルお嬢様。いいのですか、殿下はまた……」
学園内、廊下。
昼食の時間になり、ラシェルは廊下を歩いていた。
彼女の斜め後ろを歩いていた侍従に話しかけられる。
ラシェルは背後を見ないまま「いいのよ」と答えた。
「……殿下の関心は、シエナ嬢の元にあるのは周知の事実だから」
「──ですがっ」
ラシェルの返答に、侍従の男──レオは悔しそうに顔を歪めた。
そう。
もう、いいのだ。
ラシェルは廊下からちらりと教室内を見やった。
教室内には、自分の婚約者アンドリューと、シエナが仲睦まじく過ごす姿がある。
アンドリューのあんな幸せそうな笑顔、ラシェルは殆ど見た事がなかった。
それこそ、幼少期に婚約を結んだ頃。その当時はアンドリューも笑顔でラシェルに接してくれていた。
だが、婚約者として過ごし始め、一年が経ち、二年が経ち、と時間が経つ内にアンドリューの顔から笑顔は消え、冷たい目で見られる事が増えた。
笑いかけられた事など、昔過ぎてラシェルの記憶には残っていなかった。
──いいわ、行きましょう。
ラシェルと侍従のレオが去ってから。
教室内にいたシエナは、ラシェルの姿に気がついていた。
そして、シエナは怯えるようにアンドリューに擦り寄る。
「どうした、シエナ。どうしてこんなに震えている……?」
「で、殿下……」
シエナの怯える姿に、アンドリューはすぐさまシエナを抱き寄せる。
そして、心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。
シエナの顔色は真っ青で、今にも倒れてしまいそうなほどだ。
「──どうした、体調が悪いのか!?」
アンドリューの焦った声が教室に響く。
周囲にいた学園生達は、どうしたんだとアンドリューとシエナの周りに集まってくる。
「いえ……、だ、大丈夫です」
「大丈夫な訳がないだろう。こんなに震えて……」
今日はもう早退した方が良い。
そう、優しく微笑むアンドリューに、シエナは瞳を潤ませ彼にか弱く擦り寄った。
「ち、違うんです……先程、ラシェル様がそこを通って……」
「──何だと?」
シエナの口から「ラシェル」の名前が出た瞬間、アンドリューの表情が険しいものに変わる。
眉間にはぐっと深い皺が刻まれ、鋭い視線を廊下に向ける。
すでにそこにラシェルの姿は無かったが、それでもアンドリューは睨みつけるのをやめない。
「あの女……シエナを怖がらせたのか?」
「ち、違います……っ、ただっ、少し……こちらを見られた、だけで……っ」
シエナは憐れなほど震えている。
ガタガタと体を震わせ、か細い声でアンドリューに告げた。
そんな怯えた様子のシエナが酷く哀れで、庇護欲を誘う。
アンドリューは強く奥歯を噛み締めた。
「──あの女っ、私の恩人であるシエナを怖がらせるなど……、調子に乗っているな!」
「わ、私がいけないのです……! 殿下は、ラシェル嬢の婚約者……。それなのに、私が殿下の傍にいるから……」
「シエナは私の恩人だ。あの女はただ見ているだけで、何の役にも立たなかった。……それに、名だけの婚約者だ。王家にとって、あの女の公爵家と縁を繋ぐ事が最善だっただけだ」
「殿下……ですが……」
「ただの政略的な婚約だ。……私の心は、あの女になどない。私の心は……っ」
悔しげなアンドリューの声と、表情。
ぱっと顔を向けてきたアンドリューの熱い視線を受け、シエナは「いけません」と呟き、そっと視線を外す。
悲しそうに俯くシエナがとてもいじらしく、愛らしい。
アンドリューはそれ以上は何も言葉にはせず、シエナをぎゅっと抱き寄せた。
「私の心は……私だけのものだ」
低く呟くアンドリューの言葉を聞き、シエナは仄暗い感情を瞳に乗せ、薄っすらと口角を上げた──。




