第8話「気づいてしまった気持ち」
第8話です。
ライブ後の時間の中で、ふたばの中に小さな変化が生まれていきます。
ぜひ最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
打ち上げが終わる頃には、すっかり夜も更けていた。
居酒屋の扉を開けると、外の空気が一気に流れ込んできた。さっきまで店の中にあった熱気や笑い声が、夜風にさらわれていく。
ふたばは思わず肩をすくめた。
少し冷たい風が、頬に当たる。
ライブの熱も、打ち上げの楽しい空気も、まだ体の中に残っているはずなのに、外に出た瞬間、急に現実へ戻されたような気がした。
「いやー、楽しかったな!」
はじめが大きく伸びをしながら言った。
「ライブも打ち上げも最高! やっぱバンドっていいな!」
その声は、夜の路地に明るく響いた。
ふたばは小さく笑う。
本当に、楽しかった。
怖かった初ライブ。
震えた最初の一音。
届いた拍手。
居酒屋で笑い合った時間。
全部、忘れられない夜になった。
そう思うのに、胸の奥にはまだ小さな違和感が残っていた。
「飲みすぎた……」
美月が少しふらつきながら呟く。
頬は赤く、いつもの鋭さが少しだけ柔らかくなっていた。
次の瞬間、美月は自然な動きで、れいじの方にもたれかかった。
「……重い」
れいじが低く言う。
「いいじゃん別に」
美月はくすっと笑った。
「今日くらい、支えてよ」
「歩け」
「冷たいなあ」
そう言いながらも、美月は離れない。
れいじも、強く払いのけるわけではなかった。
ただ面倒そうな顔をして、少しだけ身体を支えている。
その距離が、また近かった。
ふたばは、思わず視線を逸らした。
胸の奥が、きゅっと痛む。
さっきまで店の中で感じていたざわめきが、また大きくなる。
美月は綺麗だ。
強くて、自由で、れいじと並んでも自然に見える。
ふたばは自分の手元を見た。
何も持っていないのに、指先に力が入っていた。
「じゃ、ここで解散な」
れいじが言った。
店の前の路地は、駅へ向かう道と住宅街へ向かう道に分かれている。
それぞれ帰る方向が違う。
はじめは「おう」と軽く返事をし、美月はまだれいじの近くで眠そうに瞬きをしていた。
その時だった。
「ふたば」
名前を呼ばれた。
ふたばは顔を上げる。
「はい」
れいじがこちらを見ていた。
いつも通りの無表情に近い顔。
けれど、その声は少しだけ静かだった。
「送る」
一瞬、言葉が止まった。
「……え?」
「一人だろ」
当たり前のように言う。
その一言に、胸が跳ねた。
嬉しい。
本当なら、すぐに「お願いします」と言いたかった。
れいじが自分を気にしてくれている。
夜道を一人で帰らせないように、そう言ってくれている。
それは間違いなく嬉しいことだった。
なのに。
胸の奥が、苦しくなった。
さっきの光景が頭から離れない。
美月がれいじにもたれかかったこと。
れいじが、それを強く拒まなかったこと。
居酒屋で、二人が近い距離で笑っていたこと。
ふたばは小さく息を吸った。
「……大丈夫です」
思っていたよりも、あっさりと言葉が出た。
自分でも驚くほどだった。
れいじが少しだけ眉を動かす。
「近いんで」
ふたばは笑ってみせた。
ちゃんと笑えているかは、わからなかった。
「そうか」
れいじはそれ以上、何も言わなかった。
それが、少しだけ寂しかった。
引き止めてほしかったわけではない。
もう一度「送る」と言ってほしかったわけでもない。
そんなことを望む資格が、自分にあるとも思わない。
でも、あっさり引かれたことが、胸のどこかに残った。
「じゃあねー!」
はじめが大きく手を振った。
「気をつけて帰れよー!」
「はい。お疲れ様です」
ふたばは軽く頭を下げた。
美月もひらひらと手を振る。
「ふたば、またね」
「はい。また」
れいじは何も言わず、ただ小さく頷いた。
その横顔を見た瞬間、胸がまた苦しくなった。
ふたばはそれ以上見ていられなくなり、くるりと背を向けた。
そして、そのまま走り出した。
足が勝手に動いた。
夜の道を、ただまっすぐに走る。
駅前の灯りが遠ざかる。
人通りが少なくなる。
靴音だけが、静かな道に響く。
なんで走っているのか、自分でもわからなかった。
でも、止まりたくなかった。
止まったら、胸の中にあるものが一気にあふれてしまいそうだった。
「……なんで」
息が乱れる。
それでも足は止まらない。
楽しかったはずなのに。
嬉しかったはずなのに。
初ライブは成功した。
れいじにも褒めてもらえた。
はじめも、美月も、仲間として受け入れてくれた。
今日の自分は、少しだけ前に進めたはずだった。
なのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
美月とれいじの距離が、何度も頭に浮かぶ。
肩に触れる手。
近い声。
楽しそうな笑い方。
それを受け流すれいじ。
その全部が、胸の奥に引っかかって離れない。
「……嫌だ」
小さく声が漏れた。
言ってから、自分で驚いた。
何が嫌なのか。
美月が嫌なのか。
れいじが嫌なのか。
違う。
美月は嫌いじゃない。
むしろ、かっこいいと思う。
優しいところもある。
ステージでは本当に頼もしかった。
れいじだって、何も悪くない。
ただ普通に接していただけだ。
悪い人なんて、誰もいない。
だから余計に、苦しかった。
ふたばは街灯の下で足を止めた。
息が上がっている。
胸が痛い。
冷たい夜風が、火照った頬をなでていく。
周りには誰もいなかった。
静かな住宅街。
遠くで車の音がする。
自動販売機の明かりが、ぼんやりと道を照らしていた。
ふたばは膝に手をつき、何度か大きく息を吸った。
そして、ゆっくり顔を上げる。
「……あ」
その瞬間、気づいてしまった。
胸の奥にあった感情。
ずっと見ないふりをしていたもの。
歌に救われたから。
声を認めてくれたから。
一緒にバンドをやっているから。
そんな言葉で包んで、名前をつけないようにしていた気持ち。
でも、もうごまかせなかった。
れいじが美月と近いだけで苦しくなる。
れいじに名前を呼ばれるだけで嬉しくなる。
れいじに褒められるだけで、全部報われた気がする。
れいじの曲を歌いたいと思う。
れいじの隣に立ちたいと思う。
それは、ただの憧れではなかった。
「……私」
言葉にするのが怖かった。
口にした瞬間、もう戻れなくなる気がした。
でも、もうわかってしまった。
ふたばは胸に手を当てる。
心臓が、まだ速く鳴っていた。
「……好き、なんだ」
小さく呟いた。
その声は夜風に消えるほど小さかった。
けれど、自分の耳にははっきり届いた。
その瞬間、全部が繋がった気がした。
初めてライブハウスで見たれいじ。
暗いステージで歌っていた横顔。
冷たいようで、真っ直ぐな言葉。
ふたばの声を必要としてくれたこと。
“今日が吉日”を歌ってほしいと言ってくれたこと。
ライブ前に「上手く歌おうとするな」と背中を押してくれたこと。
そして、打ち上げの最後に「送る」と言ってくれたこと。
全部が特別だった。
特別だった理由が、やっとわかった。
嬉しいはずなのに、涙が出そうになった。
好きだと気づいた瞬間、世界が少し変わって見えた。
でも同時に、胸が苦しくなる。
美月の存在。
れいじの態度。
自分の気持ち。
全部が簡単ではなかった。
美月は魅力的だ。
れいじと距離が近い。
あの二人の間に、自分が入れる気がしない。
それに、れいじが自分をどう見ているのかもわからない。
たぶん、ただのボーカル。
バンドの仲間。
守るべき新人。
それ以上ではないかもしれない。
「……どうしよう」
夜空を見上げる。
答えなんて、出るわけがなかった。
星はほとんど見えない。
街の明かりにかすんだ夜空が、ただ静かに広がっている。
ふたばはゆっくり息を吐いた。
今日、自分は初めてライブをした。
初めて拍手をもらった。
初めて、自分の声が誰かに届く感覚を知った。
そして初めて、れいじへの気持ちに気づいてしまった。
一日で、あまりにもたくさんのことが起きた。
昨日までの自分とは、もう同じではいられない。
怖い。
苦しい。
でも、不思議と嫌ではなかった。
好きだと気づいたことは、苦しいだけじゃない。
胸の奥に、小さな灯りがともったようでもあった。
ふたばは目元をそっと拭った。
泣いてはいなかった。
でも、泣く寸前だった。
「……帰ろう」
小さく呟く。
足はまだ少し震えていた。
けれど、さっきみたいに逃げるためではなく、前へ進むために歩き出した。
れいじを好きになった。
その事実は、もう消せない。
美月のことも、気になってしまう。
これから、きっと今までみたいに自然には笑えない瞬間もある。
胸が痛むこともある。
でも、それでも歌いたい。
FirstDayで歌いたい。
れいじの曲を、自分の声で届けたい。
その気持ちも、嘘ではなかった。
ふたばは夜道をゆっくり歩いた。
冷たい風が、さっきより少し優しく感じた。
もう、前と同じ気持ちではいられない。
音だけじゃない。
心も、大きく動き出してしまった。
今日という日が、また一つ変わった。
初ライブの日。
FirstDayが始まった日。
そして、ふたばが恋に気づいた日。
忘れられない夜になった。
第8話を読んでいただき、ありがとうございます。
ふたばが自分の気持ちに気づく、大きな転換点となる回でした。
音楽とともに動いてきた物語が、ここからは心の面でも大きく揺れていきます。
この想いが、これからのバンドや関係にどう影響していくのか、ぜひ引き続き見守っていただけたら嬉しいです。
よろしければ、感想や評価もいただけると励みになります。
引き続きよろしくお願いします。




