第6話「今日が吉日」
第6話です。
ついに初ライブ本番。
ふたばにとって、大きな一歩となるステージが始まります。
ぜひ最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
ライブ当日。
ステージ裏の空気は、思っていたよりも静かだった。
もっと騒がしい場所だと思っていた。誰かが走り回っていて、スタッフの声が飛び交って、出演者たちが慌ただしく準備をしている。そんな景色を想像していた。
けれど、実際は違った。
薄暗い通路。壁に貼られた古いフライヤー。少しだけ湿った空気。遠くから聞こえる客席のざわめき。
そのすべてが妙に現実味を帯びていて、ふたばの緊張をさらに強くした。
「……やばい」
小さく呟いた声が、自分でも情けなく聞こえた。
手が震えている。
マイクを持つ前から、指先が落ち着かない。呼吸は浅く、胸のあたりがぎゅっと締めつけられているみたいだった。
頭の中で、何度も歌詞を確認する。
一曲目。
“今日が吉日”。
れいじが大切にしてきた曲。
FirstDayの最初の一歩になる曲。
そう思った瞬間、さらに心臓が速くなる。
もし歌詞を飛ばしたら。
もし声が裏返ったら。
もし誰にも届かなかったら。
考えれば考えるほど、足元がぐらついた。
「緊張してる?」
横から、美月の声がした。
ふたばはびくっと肩を揺らす。
振り向くと、美月はいつも通りベースを抱えていた。表情は落ち着いている。でも、その指先がほんの少しだけ弦に触れているのを見て、ふたばは思った。
美月さんも、もしかしたら少しは緊張しているのかもしれない。
「……してます」
ふたばは正直に答えた。
隠せる気がしなかった。
美月は少しだけ笑う。
「いいじゃん」
「え?」
「そのまま出れば」
あの時と同じ言葉だった。
「変に慣れてるより、そっちの方が刺さるから」
ふたばは小さく息を吐いた。
来週ライブだと決まった日、同じことを言われた。
その言葉に救われた。
そして今も、少しだけ胸が軽くなる。
「でも……本当に刺さるんですかね」
「知らない」
「えっ」
「そんなの出てみないとわからないでしょ」
美月はさらっと言った。
けれど、すぐに続ける。
「でも、嘘のない声は残るよ」
ふたばは黙った。
嘘のない声。
今の自分にできることは、きっとそれしかない。
上手く見せることはできない。
堂々としたボーカルにもなれない。
でも、歌に込める気持ちだけは、嘘にしたくなかった。
「大丈夫大丈夫!」
今度は、はじめが明るい声で近づいてきた。
スティックを片手に、いつもと同じ笑顔を浮かべている。
「ミスっても死なないって!」
「それはそれで怖いです……」
「いや、ほんとほんと。俺なんか初ライブでスティック飛ばしたし」
「前にも聞きました」
「しかも二曲目で椅子から落ちかけた」
「それは初耳です」
「でも生きてる!」
はじめは胸を張った。
そのあまりの勢いに、ふたばは思わず笑ってしまう。
美月が呆れたように言った。
「武勇伝みたいに言わないで」
「でもさ、ライブってそういうもんだろ。完璧じゃなくても、その場で鳴った音が全部なんだよ」
はじめの声が、少しだけ真面目になる。
「今日の俺たちの音は、今日しか出せない。だから楽しもうぜ」
その言葉に、ふたばは頷いた。
楽しむ。
今の自分には、まだ遠い言葉に思えた。
けれど、この人たちは本気でそう思っている。
怖さも、不安も、全部抱えたままステージに立つ。
それがライブなのかもしれない。
少し離れた場所で、れいじがギターのチューニングをしていた。
会話には入ってこない。
でも、ずっと黙って見守ってくれているようだった。
ふたばは、れいじの横顔を見た。
いつも通り無表情に近い。
けれど、ギターを持つ手は、とても丁寧だった。
大切なものに触れるように、一本一本の弦を確かめている。
その姿を見て、ふたばの胸が少し震えた。
この曲を歌うんだ。
れいじがずっとあたためてきた曲を。
自分の声で。
「……ふたば」
名前を呼ばれた。
れいじがこちらを見ている。
「はい」
「上手く歌おうとするな」
「え?」
「歌詞を追うな。音程だけを気にするな」
れいじはギターを肩にかけながら言った。
「お前が初めてこの曲を聴いた時のことを思い出せ」
ふたばは息を止めた。
初めて、この曲を聴いた時。
まだ歌詞も完全じゃなかった。
スタジオの中で、れいじが少しだけ弾いてくれた。
その瞬間、胸の奥に何かが触れた。
終わったと思っていた自分に、まだ始められるのだと教えてくれるような曲だった。
「その気持ちで歌えばいい」
れいじは短く言う。
それだけだった。
でも、それだけで十分だった。
外から、店長の声が聞こえた。
「FirstDay、準備いいか」
その声で、全員の空気が変わった。
はじめがスティックを握り直す。
美月がベースのストラップを肩にかける。
れいじがギターを持つ。
ふたばはマイクを手に取った。
冷たい感触が手のひらに伝わる。
「……いくぞ」
れいじの一言で、足が自然と前に出た。
通路を抜ける。
ステージへ向かう数歩が、やけに長く感じた。
一歩進むたびに、ざわめきが近くなる。
ライトの熱が、少しずつ肌に届く。
そして、名前を呼ばれた。
「次は本日初出演、FirstDay!」
拍手がまばらに起こる。
ふたばは息を飲んだ。
ステージに出た瞬間、眩しいライトが目に飛び込んできた。
思っていたよりも近い観客。
数は多くない。
けれど、確かにそこにいる。
立って見ている人。
腕を組んでいる人。
ドリンクを片手に、なんとなくこちらを眺めている人。
前のバンドの余韻でまだ話している人。
その全部が見えた。
怖い。
逃げたい。
帰りたい。
足が固まりそうになる。
ふたばはマイクスタンドの前に立った。
手がまた震え出す。
心臓がうるさい。
音が始まる前の静けさが、こんなにも怖いものだとは知らなかった。
その時、ふと頭の中に浮かんだ。
あの日のこと。
失恋して、何もかも終わったような気がしていた日。
友達に誘われて、なんとなく来たこのライブハウス。
暗い客席。
知らない音。
知らない人たち。
そして、れいじの歌。
あの時、自分は救われた。
たった一曲で、全部が変わったわけじゃない。
でも、ほんの少しだけ前を向けた。
終わったと思っていた場所から、歩き出せた。
だから今、ここにいる。
今度は、自分が歌う番だ。
ふたばはゆっくり息を吸った。
「……いきます」
誰に向けたのかわからない、小さな声だった。
けれど、隣でれいじが小さく頷いたのが見えた。
ギターが鳴る。
静かで、まっすぐなイントロ。
はじめのドラムがそっと入る。
心臓の鼓動に寄り添うようなリズム。
美月のベースが重なる。
低く、温かく、足元を支えてくれる音。
FirstDayの音。
まだ荒い。
まだ未完成。
でも、四人でしか鳴らせない音だった。
ふたばはマイクを握った。
最初の一音。
少し震えていた。
自分でもわかった。
けれど、止まらなかった。
歌う。
ただ、まっすぐに。
“今さらなんて あきらめてしまう――”
声が会場に広がる。
自分の声なのに、自分のものじゃないみたいだった。
照明の中に溶けて、観客の方へ流れていく。
下手かもしれない。
完璧じゃない。
でも、嘘ではなかった。
“思い立ったその日が 吉日なんだ――”
言葉が、胸の奥から出てくる。
歌いながら、ふたばは気づいた。
この歌は、れいじの歌だ。
でも、それだけじゃない。
今の自分の歌でもある。
失恋して、立ち止まって、自分なんて何もできないと思っていた。
そんな自分が、今ステージに立っている。
怖くても、震えても、歌っている。
“本気でやりたいと思えた その瞬間が始まりさ――”
二番に入る頃には、少しだけ視界が広がった。
最初はただ眺めていた人たちが、こちらを見ている。
話していた人が、口を閉じている。
腕を組んでいた男の人が、少しだけ前に体を傾けている。
一番前にいた女の子が、じっとふたばを見ている。
届いている。
そう思った瞬間、喉の奥が熱くなった。
泣きそうになる。
でも、泣くわけにはいかなかった。
まだ歌の途中だ。
れいじのギターが少し前に出る。
その音が、ふたばの背中を押す。
はじめのドラムが強くなる。
美月のベースが会場の空気を揺らす。
ふたばは声を伸ばした。
“輝ける日は これからなんだよ――”
その言葉は、自分に向けて歌っているようでもあった。
今までの自分。
これからの自分。
全部を連れていくように、声を出した。
怖さも、不安も、情けなさも。
全部、音の中に溶けていく。
気づけば、手の震えは消えていた。
足も動く。
少しだけ前を向ける。
観客の顔が見える。
誰かの表情が変わる瞬間が見える。
それは大きな歓声ではなかった。
熱狂でもなかった。
でも、確かに何かが届いていた。
“新しい風に乗っていくんだ――”
最後のフレーズ。
ふたばは、ありったけの気持ちを込めた。
れいじが最後のコードを鳴らす。
はじめのシンバルが響く。
美月のベースの余韻が残る。
そして、音が消えた。
一瞬の静寂。
ふたばは息を止めた。
その一瞬が、永遠みたいに長かった。
次の瞬間、拍手が起こった。
大きくはない。
会場を揺らすほどでもない。
でも、確かに届いた。
誰かが手を叩いている。
前の方の女の子が、何度も頷きながら拍手している。
奥にいた男の人が、小さく口笛を鳴らした。
ふたばの視界が、少し滲む。
怖かった。
逃げたかった。
でも。
やってよかった。
心から、そう思った。
「……悪くない」
隣で、れいじが小さく言った。
たったそれだけ。
けれど、ふたばには十分すぎた。
全部報われた気がした。
はじめは後ろで満面の笑みを浮かべている。
美月も、少しだけ口元を緩めていた。
まだ一曲目が終わっただけ。
ライブは続く。
失敗もするかもしれない。
次の曲で声が揺れるかもしれない。
それでも、もう最初の一歩は踏み出した。
ふたばはマイクを握り直した。
まだ小さなステージ。
まだ少ない拍手。
まだ何者でもない四人。
それでも、確かに何かが始まっていた。
あの日、すべてが終わったと思った。
でも、違った。
あれは終わりではなかった。
始まりだった。
ふたばは客席を見た。
そして、初めて少しだけ笑った。
今日が、吉日だった。
第6話を読んでいただき、ありがとうございます。
初ライブ、そして楽曲「今日が吉日」。
ふたばにとっても、FirstDayにとっても、大きな意味を持つステージになりました。
ここから物語はさらに広がっていきます。
彼らがどんな評価を受け、どんな道を進んでいくのか、ぜひ引き続き見守っていただけたら嬉しいです。
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引き続きよろしくお願いします。




