閑話「蒐書官」 7 枕草子
首相官邸。
そこの主である牟田口は、信頼する秘書官立原から国政にはまったく関係ないものの彼にとっては国の行く末よりもはるかに重要な報告を受けていた。
「……ということは、あの娘は無類の本好きだということなのか?」
「どうやらそのようです。語学にもかなり長けているようで外国語の本も読みこなしているようです」
「英語が得意なのか?」
「多くの外国語の本を読みこなせるようなので英語も得意。が正しいようです。ついでいえば他の教科も万遍なく優秀で七月におこなわれた定期試験ではすべて満点だったそうです」
「それはすごいな」
……いや。あのバケモノならありえる。
「ちなみに、好きなジャンルはわかっているのか?」
「女子高校生らしく恋愛小説が好きなようですが、古代史の専門書もよく読んでいるようです。特に古代エジプトにはかなりの造詣があるとのことです」
「なるほど」
彼が報告を受けていたこと。
それはある少女についてのことだった。
その少女の名は立花博子。
もちろん、自称天才料理人であるエセ文学少女と同一人物である。
……さて、どうしたものか?
牟田口は考える。
……本好きの少女に本を贈る。これは懐柔策として適切といえる。
……問題はどのような本を贈るかということだ。
……あの少女が立花家の跡継ぎということであれば金に困ることはない。それにあの娘の傍には引きこもり女天野川夜見子がいる。当然、読みたい本があれば大抵のものはあの女を通じて手に入れることができるはずだ。
……厄介なのは、あの引きこもり女の蔵書数が国会図書館を超えるということだ。生半可な稀覯本ならあの女の本棚に収まっていることは十分に予想できる。
……では、本を諦めてそれ以外のものにすべきか?たとえば服、それとも宝飾品か?
……それこそ無理だ。そのうえ金をかけて贈った品がゴミ箱に直行したのでは目も当てらない。
……そうすると、やはり贈るものは本。しかも、あの引きこもり女が持っていないような珍しい本ということになる。
……だが、あの娘が喜び、しかも引きこもり女が持っていない本とは何だ。皆目見当がつかない。相談するにも私の周辺には引きこもり女以上に本に対する造詣があるものはいない。
……仕方がない。
「首相?首相というのは先日お嬢様の城で由紀子が始末しそこなったあの蛆虫のことですか?」
「そのとおりです、夜見子様。牟田口首相より官邸にお越しいただきたいと連絡が入っております。何と返答しておけばよろしいでしょうか?」
「私はあの蛆虫になど用事はありません。まして本を読む時間を潰してまで腐臭を漂わせるあの男が住む豚小屋に出向く理由など永久にやってくるはずがないでしょう。会いたくはありませんが、私にどうしても会いたいというのであればそっちから来なさいと……その前に、あの蛆虫はどのような要件で私に会いたいと言っているのですか?」
「詳しくは夜見子様に会ったときに話すと言葉を濁しているのでどうも要領が得ないのですが、どうやらお嬢様にプレゼントする本について相談に乗ってもらいたいようでございます」
「お嬢様へ贈る本?」
「はい」
「……そういうことなら了解しました。伺うと言っておきなさい。それからこの件について当主様にも連絡を……。いや、それは私が直接連絡します」
「承知いたしました。訪問日時についてはいかがいたしますか?」
「偉くて忙しい首相様だからなるべくそちらに合わせますが、こちらにも都合があるのでいくつか候補を出すようにと」
「承知いたしました。では、そのように伝えます」
「それから、念のため当日は武装した護衛をひとり同行させると言っておいてください」
「由紀子、今度面白い場所につれていってあげるわよ」
「どうだった?実際に首相官邸に入った感想は」
「私に言わせれば、警備が圧倒的に甘い。それだけ日本が安全だということなのかもしれないけれど、私がその気になればあの蛆虫まで簡単に辿り着けた。あの男の価値を考えれば妥当ではあるけれども一国の首相のものであればあの警備体制は質量ともに考えものだと思うわよ」
「ちなみに、あなたが官邸を襲うなら何人が必要?」
「いつもあの程度の生ぬるい警備をしているのなら完全武装した私の配下を二十人も揃えれば正面は軽く突破できる。それから地下の逃走経路五か所に各五人と遠距離狙撃二チーム。これだけいれば確実に仕留められる。逆に逃走ルートからが侵入してもいいわね。もっとも私があの蛆虫の命を狙うならあそこをハンティング・ポイントに選ぶことは絶対にないけどね」
「なぜ?」
「もちろん、あの程度のターゲットを仕留めるために貴重な部下を何人も失いたくないもの。私ならマクミランを使った遠距離狙撃で遊説中に調子に乗って喋っている蛆虫の頭を大勢が見ている前で吹き飛ばす。これが一番」
「それはそうだ。私だって大事な蒐書官たちの命をあんなゴミと引き換えにするなど御免被るよ」
「ところで、その蛆虫総理との交渉だけどあれでよかったの?」
「もちろん。どこか問題があった?」
「相手が蛆虫といえどもさすがにあれは過大要求だったと思うわよ。お嬢さまへの献上品が本一冊で、仲介するあなたが手数料として要求したものがその十倍というのはどうなのかしら?」
「でも私の経験上、あの手の人間は全部出すわよ。なにしろ私が要求したものはひとつを除けばすべてが国のものだし、残りひとつも購入資金は国のお金よ。つまり彼の腹は一切痛まない。それで、自分の地位が保証されるのなら安いものだと考えているわよ。きっと」
「なるほど。それにしても、あなたが書籍以外のものまで要求するとは思わなかったわね。いつからそのような高尚な趣味を持つようになったの?」
「私は今も昔も絵や彫刻にはまったく興味がないわよ」
「では、あれは博子様の趣味ということ?」
「それも違う。あれは当主様から指示されたものよ。別邸のリビングと書斎に飾りたいのだとか」
「なるほど。別邸ということは御父上の趣味ということね」
「まあ、そうでしょうね」
「ところで、博子様への献上品だけど、どういうものなの?それだけが無印みたいだったけど」
「所有者以外では私たちしかその価値を知らない。でも私に言わせれば十分に国宝級。いや世界遺産級といえる本よ」
「なるほどね。そうなると問題は所有者ということになるわけね」
「相手は没落したとはいえ牟田口にとっては橘花とともにアンタッチャブルな存在といえる人だからね。その人の書棚にある本をあの蛆虫は手に入れられるかどうか。これは見ものです」
「総理。もう一度確認しますが、これをすべてあの女に渡してしまうのですか?」
「そうだ。私が生き残るためにはそうしなければならないのだ。とにかくこのリストにあるものすべてを大至急官邸に集めてくれ」
「承知しました。ありがたいことにひとつを除けは国が管理しているものですから買い上げの必要はないようです。とはいっても、そのすべてが国宝か国宝級ですので手続きなしでここに持ってくるには官邸に飾るためとでも言うしかないでしょうね」
「そうしてくれ。もし、ごねるようであれば、予算と人事権をちらつかせて脅すことも許す」
……あの女狐は私の足元を見て好き放題やってくれるな。
……それでも、所詮他人のものだ。私の財産が減るわけではない
……これで、一応私の身分は保証されるわけだ。それに比べれば国宝の十や二十なくなってもたいしたことではない。
「ただし、これだけは……」
「……枕草子?これがどうした?」
「これは国のものではありません」
「言い値で買い上げればよいだろう。いつもの金で。あれはいくら使っても表に出ることはないので心配はいらない」
「それは承知していますが、本当に真贋も確認せずに購入してもよろしいのですか?と言うか、本当に持っているのでしょうか?指定の本を」
「どういうことだ?」
「確認したところではこのリストに本の所有者として記された方が国宝や重要文化財に指定された枕草子の古い写本を所有しているという記録がありません。先方の指定とはいえどのようなものかもわからないまま言い値で購入してもよろしいのですか?しかも、持ち主が持ち主だけにどのようなものでも譲ってもらう交渉は簡単ではないかと」
「……そういう意味か」
……たしかにこれはおかしい。
……引きこもり女の話では、これこそあの娘へのプレゼントになるものだ。
……ということは、他のものと同等か、それ以上の価値のあるべきものでなければならないだろう。
……それが国宝級どころか、文化財としても登録されていないなどということが本当にありえるのか?
……次期当主に安物をプレゼントしたなどと言いがかりをつけるつもりか。それとも、持ち主と組んで金儲けを企んでいるのか?
……相手が相手だけにさすがに金儲けはないか。私を罠にはめるにしても、そうなればその本を指定したあの女の失態にもつながる。ないな。
……では、あの女の勘違いか?
……いや。世界中で本を買い漁っているある引きこもり女がわざわざ所有者を知らせてきたのだ。間違いがあるとは思えない。しかも、未来の主人へ渡すものだ。その本がそれだけの価値があるものであるという確証があるのだろう。
……ということは、それは今まで知られていないとんでもないお宝ということになるのではないか。もしかして、あらたな写本?それとも最古の写本?まさか清少納言本人の肉筆?だが、あの女が指定したのだ。どれもありえる。
……欲しい。
……だが、所在場所を把握しているあの女は私がそれを無事手に入れ、そのまま自分のところに届けるのかを監視している可能性は十分ある。それがどれほどのものかはわからないがこの地位を捨てるほどの価値があるとは思えない。それはやめておこう。
……そういえば、あの引きこもり女は本以外のものを自分用として所望しているがこれも気になる。
……あの女が本以外のものを要求するなどありえるのか?
……ないな。
……ということは、こちらを要求しているのはあの女の背後にいるあれらということか。
……わかった。これはあれらが引きこもり女を使って私の覚悟のほどを試しているのだ。
……よし、そういうことなら受けて立とうではないか。
「どんな手段を使ってでもそれを必ず手に入れろ。たとえ相手がどのような方であっても隠し持っていた以上遠慮などまったく必要はない。この国で一番権力を持っているのは私であることを見せつけなければならない」
……牟田口が夜見子に接触してきたらしい。
……ほう。一の谷でも晶でもなく交渉相手としては橘花で一番面倒な夜見子を選ぶとは興味深いな。
……目的はわかるか。
……夜見子に本以外での要件がある人間などそうはいないだろう。おおかた博子に貢ぐ本を見繕ってもらうつもりだろう。
……まあ、そうだろうな。近々夜見子を官邸に招くのだそうだ。
……それで夜見子はそれを受けたのか?
……許可を求めてきたところをみるとそのつもりなのではないか。
……それは驚きだな。
……驚くことはまだある。その場合には護衛として一緒に由紀子を連れていきたいと言ってきておる。
……もしかして官邸でひと暴れするつもりなのか。
……いくら夜見子でもさすがにそれはないだろう。おそらく由紀子に見せておけば将来役に立つかもしれないとでも考えたのではないか。夜見子は蒐書官を抱えているだけのことはあってこういうところは気が利く。専門家である由紀子が見せておくのはたしかにいいことだろうと思ってそれも許可するつもりだ。それから夜見子は牟田口に法外な仲介手数料を要求するつもりのようなので、便乗させてもらおうと思うがおまえも一緒にどうだ?
……断る。あのゴミに物をめぐんでもらうなど俺のプライドが許さない。
……そう言うな。これはあの男を縛る枷のひとつだ。
……というと?
……あやつ個人の利益のために国の財産を我々に差し出すのだ。それがどういうことを意味するかはわかるだろう。
……国の財産?もしかして要求するものとは……。
……そう。当然すべて国が管理する国宝級のものだ。夜見子が仲介料として手に入れる本も国宝級のものらしいからな。しかも、今回は夜見子を経由させるので、我々との直接取引ではない。悪くない話であろう?
……たしかにそれはおもしろい。そういうことなら俺は絵画と置物でも貢がせるか。だが、要求するのはいいとしてもやつは本当にそれを差し出すのか?
……出すだろうよ。なにしろ自分の腹は一切痛まない。これで、博子の歓心を買えるものなら安いものだと考えるだろう。あれはそういう男だ。
……なるほど。やはりあいつはクズだ。では、心置きなく吟味して良い物を要求することにしよう。ところで、夜見子はあのクズを脅して博子へ何を献上させようとしているのだ?
……桐花家の当主が持つ枕草子。清少納言の直筆、いわば原本の可能性が高いものだそうだ。こっそりと持ち続けていたのだろうが、内密に鑑定を依頼した相手である北浦美奈子が夜見子の配下だったとは、かの者も不運だったな。もっとも、今回の件がなくても夜見子は動いていたはずだ。結果として本一冊のために一族皆殺しになっていたわけなのだから彼らにとってはまるっきり不幸というわけではないだろう。
「蒐書官」は、閑話「古書街の魔女」に登場した天野川夜見子と彼女配下の蒐書官たちが主人公として活躍するスピンオフ的作品群になります。
本編で使えないネタをここで消費する目的があるとかないとか・・・。




