第7話 落ちこぼれ勇者候補
狼型の模擬魔物は、魔導具で動く訓練用の人形である。
そのはずだった。
金属の骨格に魔獣皮を張り、内部の魔石で一定の行動を再現する。噛みつき、跳躍、回避、突進。実戦に近い動きはするが、本物の魔物ではない。
だから、通常は殺意がない。
正確に言うと、殺意を模した動作はあっても、獲物を選ぶ意思はない。
だが、訓練場に置かれたその狼型は、少し違った。
動きの節々に、妙な間がある。
首を振る角度。
前足に重心を移す癖。
対象を見る時の、わずかな遅れ。
魔導具というより、誰かが本物の魔物の動きを模倣させようとしているようだった。
私は内心で警戒度を上げた。
もちろん、表には出さない。
私はルシェラ・ディアである。
魔族式魔物対処訓練で狼系魔獣を何度も相手にしたことがある、などと悟られてはならない。
「模擬魔物への対応試験を始める」
グレイン教師が訓練場の中央に立った。
「勝つ必要はない。重要なのは、状況判断、距離管理、反応、危険回避だ。勇者候補に必要なのは、力だけではない」
その言葉に、何人かの受験生が背筋を伸ばした。
よい教師だ。
少なくとも、力だけを見ているわけではない。
私はグレイン・バルドという教師への評価を少し修正した。
敵教育機関の指揮官。
ただし、生徒の生存を重視する傾向あり。
「まずはレインハルト」
「はい」
クロード・レインハルトが前へ出た。
訓練場の空気が少し変わる。
彼は剣を構えた。
姿勢が美しい。
貴族の子弟として訓練を積んできたのだろう。足運び、剣の角度、視線、呼吸。どれも整っている。
狼型の模擬魔物が低く唸り、地面を蹴った。
速い。
だが、クロードは動じなかった。
正面から受けるのではなく、半歩ずれて剣の腹で進路を逸らす。すぐに体勢を戻し、追撃の前足を避けて、首筋に訓練剣を当てた。
周囲から感嘆の声が上がる。
模擬魔物は動きを止めた。
「対応良好。無駄が少ない」
グレイン教師が短く評価する。
クロードは剣を下ろし、礼をした。
「ありがとうございます」
自信はある。
だが、慢心しきってはいない。
面倒だが、有能。
私は彼の分類を更新した。
次に何人かの生徒が試験を受けた。
ある者は突進に慌てて転び、ある者は魔法で距離を取ろうとして詠唱が間に合わず、ある者は剣を振り回しすぎてグレイン教師に止められた。
ティナの番になった。
「ティナ・マール」
「は、はいっ!」
ティナは緊張しながら前へ出る。
彼女は短杖を構えた。
攻撃魔法は苦手だと言っていた通り、最初の水弾は威力が弱く、狼型の足元を濡らしただけだった。
だが、その後がよかった。
狼型が踏み込んだ瞬間、濡れた地面に滑り、わずかに体勢を崩す。
ティナはその隙に後退し、簡易防壁を展開した。
防壁は薄いが、狼型の突進を一度だけ受け止めた。
「そこまで」
グレイン教師が止める。
「攻撃力は低い。だが、判断は悪くない。回復だけでなく、支援にも適性がある」
「は、はい! ありがとうございます!」
ティナはぱっと表情を明るくした。
人間は褒めると伸びる。
やはり有効な仮説である。
ポルカの番では、狼型が動き出す前から本人が逃げ出しかけた。
「無理です! 見てます! 完全に僕を食べる目で見てます!」
「模擬魔物だ」
「模擬でも怖いものは怖いです!」
それでも、ポルカは逃げながら使い魔を飛ばした。
小さな鳥型の使い魔が狼型の視界を横切る。
狼型が一瞬そちらへ反応した隙に、ポルカは障害物の後ろへ転がり込んだ。
戦闘にはなっていない。
しかし、生存能力はある。
「逃げ方は悪くない」
グレイン教師が言う。
「ほ、褒められたんですか!?」
「半分は」
「半分でも生きます!」
ポルカは訓練場の端でへたり込んだ。
その様子を見て、何人かが笑う。
けれど、悪意のある笑いではなかった。
ポルカ自身も半泣きで笑っている。
次にミナ・オルステッドが呼ばれた。
彼女は弓を構え、狼型との距離を取る。
動きが静かだ。
余計な音を立てない。
狼型が走る。
ミナは正面から撃たない。
まず足元。
次に肩。
最後に額。
訓練用の矢は鋭くはないが、正確に急所を捉えていた。
狼型の動きが止まる。
「索敵、距離管理、命中精度、いずれも良好」
グレイン教師が評価する。
ミナは小さく頷いただけだった。
周囲が拍手しても、表情は変わらない。
ただ、彼女の視線が一瞬だけ狼型の額に刺さった矢へ向いた。
魔族を相手にした時も、彼女はこうして狙うのだろうか。
私は自分の首元が少し冷えるのを感じた。
「次。フォルク」
空気が変わった。
先ほどまでのざわめきとは違う。
期待ではない。
好奇。
失敗を待つ空気。
アレン・フォルクが、ゆっくり前へ出た。
彼は訓練用の剣を手に取った。
握りは、悪くない。
ただし、力が足りない。
足運びも、訓練はしているが、身体能力がついてきていない。
魔力量が低く、剣術も並。
勇者の血筋として見られるなら、確かに期待外れなのかもしれない。
しかし、私は彼の目を見ていた。
アレンは狼型の模擬魔物を見ている。
正確には、狼型の脚、首、魔石の位置、足元の砂の乱れを順番に見ている。
彼も気づいている。
この模擬魔物の動きが少し変だと。
「始め」
グレイン教師の合図。
狼型が低く構えた。
アレンは剣を正面に構えない。
半身になり、右へ逃げる余地を作った。
よい判断だ。
あの狼型は最初に左前足へ重心を乗せる癖がある。
だから初撃は、受験者から見て右側へ逃げるのが正解。
狼型が跳んだ。
アレンは右へ避けた。
剣は振らない。
反撃ではなく回避を優先。
周囲から小さな声が漏れる。
「逃げた」
「まあ、フォルクだし」
アレンは聞こえているはずだ。
だが、顔は動かさない。
狼型が着地し、すぐに向きを変える。
その瞬間、アレンは地面の小石を蹴った。
小石が狼型の右目付近に当たる。
魔導具なので痛覚はない。
だが、視界反応が一瞬乱れた。
アレンはその隙に距離を取る。
攻撃ではない。
勝とうとしていない。
時間を稼ぎ、相手の動きを見ている。
私は内心で評価を改めた。
弱い。
だが、愚かではない。
狼型が再び突進する。
今度は低い姿勢。
アレンは横へ避けようとするが、足が少し遅れた。
肩口に模擬魔物の体当たりを受け、地面を転がる。
「っ……!」
彼はすぐに起き上がろうとした。
だが、狼型は追撃に入っている。
周囲が息を呑む。
グレイン教師が止めに入るか迷った、その一瞬。
アレンは剣を捨てた。
そして、左腕を地面につけ、身体を低く沈める。
狼型の爪が彼の頭上を通り過ぎた。
剣を捨てなければ、姿勢が高いまま直撃していただろう。
判断は正しい。
しかし、見た目は悪い。
勇者候補が剣を捨て、地面に転がって避けた。
周囲の笑いが起こる。
「剣捨てたぞ」
「勇者候補なのに」
「逃げるのだけは得意なんだな」
アレンは立ち上がった。
口元に土がついている。
肩も痛めている。
それでも、彼は狼型から目を離さなかった。
私は気づいた。
アレンは狼型の動作間隔を数えている。
初撃から次の突進までの間。
着地後に方向転換するまでの遅れ。
視界反応が乱れてから復帰するまでの時間。
勝てないと分かった上で、情報を集めている。
「そこまで」
グレイン教師の声が響いた。
狼型が停止する。
アレンは息を吐き、捨てた剣を拾った。
周囲の笑いはまだ残っている。
グレイン教師は記録板を見た。
「戦闘力は不足。剣の保持にも課題がある」
「はいはい、分かってますよ」
アレンは軽く返す。
だが、グレイン教師は続けた。
「ただし、初動の回避判断、視界攪乱、追撃回避は悪くない」
笑いが少し止まる。
アレンも、わずかに顔を上げた。
「勝てない相手から生き残る判断はできている。鍛え方次第だ」
ほんの短い評価だった。
だが、アレンの表情が一瞬だけ変わった。
驚き。
それから、すぐに皮肉っぽい顔へ戻る。
「どうも。逃げ足だけは褒められました」
また周囲から笑いが起こった。
今度は、少し種類が違う。
けれど、完全に好意的でもない。
アレンは訓練場の端へ戻ってくる。
私の近くを通り過ぎる時、私は声をかけた。
「あなたは、剣を捨てたのではありません」
アレンが足を止める。
「……は?」
「あの姿勢では、剣を持ったままだと重心が残り、追撃を受けていました。剣を捨てたのは、逃げるためではなく、生き残るための判断です」
アレンがこちらを見る。
周囲の数人も聞いていた。
私は続けた。
「武器に固執して死ぬより、武器を捨てて次の行動に移る方が合理的です」
「……褒めてんのか、それ」
「評価しています」
「それ、褒めてるより堅いな」
アレンは少し困ったように笑った。
だが、その笑いは先ほどの自嘲とは違った。
ほんのわずかに、力が抜けている。
その時、クロードが近くで鼻を鳴らした。
「だが、勇者候補が剣を手放したのは事実だ。実戦なら、その時点で終わっている」
アレンの表情が戻った。
慣れた顔。
傷つく前に、自分で笑いに変える顔。
「そうだな。俺には聖剣も木剣も向いてないらしい」
「フォルク家の名が泣くな」
空気が少し冷えた。
ティナが「ちょっと」と止めようとする。
ポルカは小さくなっている。
ミナは黙っている。
私はクロードを見た。
「確認してもよろしいでしょうか」
「何だ」
「人間の勇者学校では、弱い者を笑うのですか?」
クロードの眉が動いた。
周囲も静かになる。
私は、本当に疑問だった。
弱い者を鍛える場所で、弱いことを笑う。
それは矛盾している。
「弱点を見つけたなら改善すべきです。生き残る判断をしたなら評価すべきです。笑って終わらせるのは、随分と余裕のある行為ですね」
「君は……」
「人間の勇者学校とは、随分と余裕のある場所ですね」
言い終えた瞬間、訓練場が静まり返った。
私は少しだけ首を傾げた。
なぜ静かになるのだろう。
私はただ、構造上の問題を指摘しただけである。
クロードは言葉を失っていた。
アレンも私を見ていた。
ティナは目を丸くしている。
ポルカは「言った……言っちゃった……」と小声で震えている。
ミナは、ほんの少しだけこちらを見直したようだった。
グレイン教師が、低く息を吐いた。
「ディア」
「はい」
「次はお前の番だ」
そうだった。
私はまだ試験を受けていない。
私は訓練場の中央へ向かった。
背中に多くの視線を感じる。
まずい。
また目立っている気がする。
潜入任務としては好ましくない。
だが、先ほどの発言は必要だった。
少なくとも、私はそう判断した。
狼型の模擬魔物が再起動する。
私は訓練用の短杖を構えた。
落ち着け。
人間式魔法のみ。
魔族式魔力は使わない。
平均より少し上。
そして、先ほどの狼型の動きは変だ。
通常の模擬魔物より、反応が少し鋭い。
おそらく、内部魔石の調整がずれている。
下手をすれば、受験生を傷つける。
それを指摘するには、実際に動きを見せる必要があるかもしれない。
「始め」
グレイン教師の声。
狼型が低く唸る。
私は一歩、右へずれた。
初撃の方向は、もう分かっている。
狼型が跳ぶ。
私は紙一重で避けた。
ただし、速すぎないように。
人間の生徒らしく。
平均より少し上。
狼型が着地し、向きを変える。
やはり、右後ろ脚の戻りが遅い。
内部の魔石が、実際の狼型魔物の癖を再現しすぎている。
訓練用としては危険だ。
私は風の小さな魔法を地面に走らせた。
砂が舞う。
狼型の視界反応が乱れる。
アレンが小石でやったことと同じ。
ただし、人間式魔法で再現した。
狼型が突進する。
私は後退し、杖の先で石柱の影を指す。
風が細く流れ、狼型の足元に砂を集める。
足が滑る。
狼型の体勢が崩れた。
私は攻撃しない。
杖を構え、停止した狼型の首元に風刃を置く。
当てない。
触れる寸前で止める。
「そこまで」
グレイン教師が言った。
模擬魔物が停止する。
訓練場は静かだった。
また、静かだ。
なぜだ。
今度はかなり抑えた。
倒していない。
破壊していない。
攻撃も当てていない。
平均より少し上の、慎重な対応だったはず。
ティナが呟いた。
「……今の、すごくない?」
ポルカが震えている。
「模擬魔物が、かわいそうに見えました……」
クロードは眉間に皺を寄せている。
アレンは、私ではなく狼型の足元を見ていた。
そして、ぽつりと言った。
「やっぱり、あれ、右後ろ脚が遅いよな」
私は反射的に彼を見た。
アレンもこちらを見返す。
気づいていた。
やはり、彼は見ている。
グレイン教師が狼型の足元を確認する。
石柱の近くにいた補助教師が、慌てて魔導具を調べ始めた。
「……内部魔石の調整がずれているな」
グレイン教師が低く言った。
「本来より実戦寄りの挙動になっていた。怪我人が出る前に止められたのは幸いだ」
受験生たちがざわつく。
私は内心で少し困った。
どうやら、また目立ったらしい。
グレイン教師が私とアレンを順に見た。
「ディア。お前は動きで気づいたな」
「偶然です」
即答した。
アレンが横で小さく笑った。
「偶然であんな避け方するかよ」
危険個体。
本当に危険個体。
グレイン教師の視線がアレンへ向く。
「フォルク。お前も気づいていたのか」
「何となくです。俺は避けるので精一杯でしたけど」
「それで十分だ」
グレイン教師はそう言った。
アレンは少しだけ驚いた顔をした。
まただ。
褒められ慣れていない顔。
私はそれを見て、なぜか胸の奥が小さく引っかかった。
弱い者を笑う場所。
だが、弱い者が何も持っていないわけではない。
アレン・フォルク。
勇者の血筋。
魔力量は低い。
聖剣適性も弱い。
しかし、他の者が見ないものを見る。
これは記録すべき情報だ。
ただの落ちこぼれではない。
「本日の実技試験はここまでだ」
グレイン教師が告げた。
「結果は後日発表する。各自、次の面接に備えろ」
受験生たちが一斉に息を吐いた。
ティナが私のところへ駆け寄ってくる。
「ルシェラ、すごかった! っていうか、さっきの台詞もすごかった! クロード、完全に黙ってたよ!」
「私は疑問を述べただけです」
「それがすごいんだって!」
クロードはこちらを見ていた。
怒っているようにも、考えているようにも見える。
ミナは静かに弓を片付けていたが、一度だけ私に視線を向けた。
ポルカは「僕、試験終わるまで生きてました……えらい……」と自分を励ましている。
そしてアレンは、少し離れた場所で土を払っていた。
私は彼に近づいた。
「アレン・フォルク」
「あ?」
「あなたは、落ちこぼれなのですか」
言った瞬間、ティナが後ろで「あっ」と声を漏らした。
ポルカが「直球……!」と震えた。
アレンは一瞬だけ固まった後、皮肉っぽく笑った。
「そう見えただろ」
「魔力量と聖剣適性は低いように見えました」
「追い打ちが正確だな」
「ですが、観察眼は高い」
アレンの笑みが少し消えた。
「あなたは模擬魔物の違和感に気づいていました。小石で視界を乱した判断も正しい。剣を捨てたのも、逃げではなく生存判断です」
「……何だよ。分析されてんのか、俺」
「はい」
「はいって言うな」
「観察対象として有用です」
「もっと言い方あるだろ」
アレンは呆れたように言った。
だが、完全に拒絶しているわけではない。
「ルシェラ・ディア、だっけ」
「はい」
「お前、変なやつだな」
「よく言われます」
「言われるんだ」
「主に侍女に」
アレンは少しだけ笑った。
今度は、自嘲ではなかった。
「じゃあ、変なやつついでに一つ忠告しとく」
「何でしょう」
「お前、目立たないようにしてるつもりかもしれないけど」
私は姿勢を正した。
「はい」
「めちゃくちゃ目立ってるぞ」
私は沈黙した。
そんなはずはない。
魔力は抑えた。
攻撃も当てなかった。
歴史は不得意設定。
魔法実技も平均より少し上。
笑顔も、尋問前の顔にならないよう努力している。
それなのに。
「……改善します」
「たぶん無理だな」
「なぜですか」
「そういう真面目なとこが目立つんだよ」
アレンはそう言って、訓練場を出ていった。
私はその背中を見送った。
真面目なところが目立つ。
これは、重大な指摘である。
潜入任務上、早急な改善が必要だ。
私は心の中の報告書に記した。
――アレン・フォルク。落ちこぼれ勇者候補。魔力量、低。聖剣適性、低。観察眼、高。皮肉多め。こちらの偽装に気づく可能性あり。要注意。
そして、その下にもう一つ書き加えた。
――弱いと笑われているが、弱いだけではない。
その記述が、なぜか少しだけ大事なものに思えた。




