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第66話 全部と言わない練習

 怒りを消さない会の翌日、教室の空気は少しだけ変わっていた。


 大きく変わったわけではない。


 誰かが急に優しくなったわけでもない。


 魔族への怒りが消えたわけでもない。


 ミナが明るくなったわけでもない。


 ただ、教室の中に一つ、新しい言葉が増えていた。


 ――全部と言わない。


 朝の掲示板には、怒りを消さない会のまとめが貼られている。


 もちろん、個人名はない。


 話した内容の細部もない。


 残したのは、決まった扱い方だけだ。


 一、怒っていると報告してよい。できれば理由も言う。

 二、怒っても、相手を名前で呼ぶ。名前が分からない時は出来事で限定する。

 三、「全部」と言わない。言いたくなるほど怒っている、という形で報告する。

 四、怒りを厄介者扱いしない。

 五、すぐに「落ち着け」と言わず、何が嫌だったかを聞く。

 六、怖い時は、人ではなく言葉・声・行動が怖いと伝える。

 七、大きな言葉が出たら、誰の話か、どの出来事の話かに戻す。

 八、必要なら距離を取る。逃げではなく悪化防止。

 九、一人にしすぎない。囲まない。

 十、限界の合図が出たら休憩する。


 貼るかどうかは迷った。


 小談話室の会で出たものを、教室全体に貼ってよいのか。


 ミナにも確認した。


 彼女は少し考えてから言った。


「名前がないなら、いい」


 ティナも頷いた。


「これ、ミナだけのためじゃなくて、みんなに必要だと思う」


 アレンは言った。


「貼るなら、説明もいる。ただ貼ると重い」


 クロードは言った。


「朝の会で、用途を説明すべきだ」


 ポルカは言った。


「急に貼られると怖いです。理由があると少し怖さが減ります」


 全員の意見は正しかった。


 だから、貼った上で、朝の会で説明することになった。


 私は掲示の端を直しながら、深く息を吸った。


 グレイン先生が教室に入ってくる。


 いつもの低い声で出欠を確認した後、先生は私に視線を向けた。


「学級委員」


「はい」


「掲示の説明をしろ」


「はい」


 私は立ち上がった。


 教室の視線が集まる。


 昨日の小談話室にいた者たちは事情を知っている。


 それ以外の生徒たちは、掲示を読んで少し戸惑っている。


 怒りを消さない会。


 その名前は、やはり強い。


「昨日、少人数で話し合いを行いました」


 私は言った。


「題名は、怒りを消さない会です」


 教室が静まる。


「これは、魔族への怒りを消すための会ではありません」


 最初に言う。


 ここを曖昧にしてはいけない。


「怒りがあることを悪いこととして裁く会でもありません。ただし、怒りによって誰かを雑に扱うことを、そのままにしないための会です」


 ミナは窓側の席で、静かに聞いている。


 ティナはその隣にいる。


 アレンは後ろで、教室全体を見ている。


 クロードは姿勢を正している。


 ポルカは手帳を持っている。


「昨日の会で、私たちは、怒りがある時の行動について話しました。掲示には、その結果だけをまとめています。誰が何を言ったかは書いていません」


 ここで少し、空気が緩んだ。


 個人名がない。


 それが分かるだけでも、発言した者は守られる。


「この掲示は、魔族の話だけに使うものではありません。貴族と平民、前衛と後衛、成績が良い者と悪い者、どんな場面でも、大きな言葉で誰かを一括りにしそうになった時に使います」


 クロードが少しだけ目を伏せた。


 ティナも真剣に聞いている。


「特に重要なのは、二つです」


 私は黒板に書いた。


 ――怒っても、名前で呼ぶ。

 ――全部と言わない。


「名前が分からない時は、出来事で限定します。たとえば、『魔族は全部』ではなく、『あの村を襲った魔族』。『平民は全部』ではなく、『昨日、規則を破ったあの人』。『貴族は全部』ではなく、『責任を取らずに命令したあの人』」


 教室に緊張が走る。


 貴族も平民もいる。


 魔族を憎む者もいる。


 勇者を目指す者もいる。


 大きな言葉は、皆の近くにある。


「大きな言葉は便利です。ですが、便利すぎるために、人の名前を消すことがあります」


 私は少し息を吸う。


「だから、練習します」


 ラウルが思わず声を出した。


「練習?」


「はい」


 私は頷いた。


「全部と言わない練習です」


 教室の空気が、少しだけ変な方向に動いた。


 アレンが後ろで肩を震わせている。


 笑っている。


 私は無視した。


「今日の基礎訓練の前に、短い言い換え練習を行います。大きな言葉を、具体的な言葉に戻します」


 グレイン先生は何も言わない。


 つまり、許可されている。


 私は黒板に書いた。


 例。

 「前衛は全部、周りを見ていない」

 →「昨日の訓練で、前に出すぎて後衛の射線を塞いだ前衛がいた」


 例。

 「後衛は全部、後ろで見ているだけ」

 →「後衛の役割が見えにくい場面があった」


 例。

 「貴族は全部、偉そう」

 →「責任を取らずに身分だけを使う態度が嫌だった」


 例。

 「平民は全部、規則を守らない」

 →「規則の理由が伝わっていない場面があった」


 教室が少しざわついた。


 痛い例を出した自覚はある。


 しかし、痛くない例だけでは意味がない。


 クロードが手を挙げた。


「質問があります」


「はい」


「言い換えた後でも、怒りは残ります」


「はい」


「それでよいのですね」


「はい」


 私は答えた。


「怒りを消す練習ではありません。怒りが向かう範囲を、雑に広げすぎない練習です」


 クロードは頷いた。


「理解しました」


 ティナが小さく手を挙げる。


「言い換えても、うまく言えない時は?」


「その時は、『全部と言いたくなるほど怒っている』と報告します」


 ミナが昨日言った形だ。


 私は黒板に書く。


 ――全部と言いたくなるほど怒っている。


「これは、怒りの強さを伝える言葉です。ただし、そのまま誰かを全部にしないための言葉でもあります」


 ポルカが手を挙げた。


「怖い時は、怖いと言ってよいですか」


「はい」


「たとえば、『全部という言葉が怖いです』でも?」


「はい。非常に良いです」


 ポルカは胸を張った。


「分かりました!」


 グレイン先生が前に出た。


「今日の基礎訓練に入る前に、三分だけやる」


 三分。


 短い。


 しかし、最初としては十分だ。


「長引かせるな。訓練前に全員を疲れさせるな」


「はい」


 私は頷いた。


 時間管理。


 重要。


 朝の会の後、実技場へ移動した。


 今日は剣術と魔法の混成基礎訓練。


 だが、その前に、言い換え練習を行う。


 グレイン先生は全員を円形に立たせた。


「学級委員」


「はい」


 私は木板を持つ。


「では、短く行います。大きな言葉を、具体的な言葉へ戻してください。答えは一つではありません」


 最初の文。


「前衛は全部、突っ込むことしか考えていない」


 前衛希望者たちが少し反応する。


 ベルトも表情を引き締めた。


「言い換えられる人」


 少し沈黙。


 ベルトが手を挙げた。


「前衛の中には、前に出ることを優先しすぎて、後衛の射線や退路を見落とす者がいる」


「良いです」


 私は頷いた。


「全部が消えました。問題も具体的です」


 ベルトは少し照れたように視線を逸らした。


 次。


「後衛は全部、安全な場所から口だけ出す」


 ミナの表情は変わらない。


 だが、後衛希望者たちが少し固くなる。


 ラウルが言いかけて止まり、手を下げた。


 アレンが手を挙げた。


「後衛の危険や負担が、前衛から見えにくい時がある」


 私は頷いた。


「良いです。責め言葉ではなく、見えにくさに変わりました」


 ミナが小さく頷いた。


 次。


「貴族は全部、平民を見下している」


 教室ではなく実技場だが、空気が少し鋭くなる。


 クロードが手を挙げた。


「一部の貴族生徒には、身分を理由に平民生徒の発言を軽く扱う態度がある」


 自分で言った。


 これは大きい。


 ティナが少し驚いた顔をしている。


 私は頷いた。


「良いです」


 クロードは続けた。


「その態度は改めるべきだ」


 グレイン先生が少しだけ目を細めた。


 私は黒板代わりの木板に書く。


 ――態度を指摘する。身分全体に広げない。


 次。


「平民は全部、規則を軽く見る」


 今度はティナが手を挙げた。


「規則の理由が伝わっていない時、守る意味が分からなくて軽く見えることがある」


 クロードがティナを見る。


 ティナは少し緊張しながらも続けた。


「でも、理由が分かってても守らない人はいるから、その時はその人に言う」


 良い。


 非常に良い。


 私は頷いた。


「良いです。理由の不足と、個人の行動を分けています」


 ティナはほっとしたように笑った。


 次。


 少し迷った。


 しかし、避けるわけにはいかない。


「魔族は全部、人間を殺す」


 実技場の空気が、一気に重くなった。


 ミナの肩が少し動く。


 ティナが彼女を見る。


 アレンも、周囲の反応を見る。


 ポルカは胸の前に手を上げかけたが、まだ止めている。


 私は息を吸う。


「これは重い文です。無理に答える必要はありません」


 沈黙。


 誰も答えない。


 当然だ。


 重い。


 重すぎる。


 私は、やりすぎたかもしれない。


 その時、ミナが手を挙げた。


 ティナが少し驚く。


 私は確認する。


「ミナ、無理なら」


「言う」


 ミナは短く言った。


 そして、少しだけ間を置いて続けた。


「私の家族を殺した魔族はいた」


 空気が止まった。


 だが、ミナは続けた。


「でも、全部の魔族を私は知らない」


 それは、静かで、痛くて、強い言葉だった。


 私はすぐには声が出なかった。


 進行役。


 流れを整える。


 受け皿ではない。


「ありがとうございます」


 私は言った。


「非常に重要な言い換えです」


 木板に書く。


 ――私の家族を殺した魔族はいた。だが、全部の魔族を私は知らない。


 書いてよいか、一瞬迷った。


 だが、ミナは見ていた。


 彼女は小さく頷いた。


 書いてよい、という合図だ。


 ただし、名前はない。


 事実と範囲だけ。


 ポルカが胸の前に手を上げた。


「休憩が必要ですか」


「少し、怖いです。理由は、今の言葉が重かったからです。でも、大事だと思いました」


 グレイン先生がすぐに言った。


「よし。ここで一度、水を飲め」


 短い休憩。


 三分練習のはずが、やはり重くなった。


 だが、今の言葉を無理に流してはいけない。


 ティナがミナに水を渡す。


 ミナは受け取った。


 アレンが私の近くに来て、小声で言う。


「お前も水」


「私は」


「進行役も飲む」


「はい」


 水を飲む。


 冷たい。


 喉が少し乾いていたことに気づく。


 短い休憩の後、グレイン先生が判断した。


「言い換え練習はここまでだ」


 私は少し驚いた。


「まだ予定の文が」


「ここまでで十分だ」


 先生は私を見る。


「欲張るな」


「はい」


 その通りだ。


 重い一文を扱った後に、さらに続けるのは危険だった。


 訓練へ移る。


 身体を動かす。


 重い言葉の後、普通の動きに戻る。


 静けさの後に動くのと同じ。


 剣術基礎では、前衛と後衛の位置確認を行った。


 ベルトは後衛の射線を確認してから前に出る。


 ミナは射線なしを短く報告する。


 ティナは支援位置を声に出す。


 ポルカは足元の危険を報告する。


 アレンは観察記録を短く残す。


 クロードは全体の整列を見ている。


 訓練は普通に進んだ。


 普通に、という言葉が少し大切に思えた。


 昼休み。


 中庭ではなく、日陰のある小さな庭に集まった。


 自然と、昨日の会にいた面々が集まる。


 ミナは静かに弁当を食べていた。


 ティナは心配そうにしすぎないように、いつも通り卵焼きを分けている。


「ミナ、卵いる?」


「いる」


「はい」


「ありがとう」


 普通の会話。


 だが、朝の言葉の後だと、それが少し尊く見える。


 アレンがパンをかじりながら言った。


「今朝の言い換え、強かったな」


 ミナは視線を落とす。


「強かった?」


「ああ。『全部の魔族を私は知らない』ってやつ」


 私は少し緊張した。


 アレンは続ける。


「無理して言ったのか?」


 ミナは少し考えた。


「少し」


「じゃあ次は、無理しすぎる前に言え」


「うん」


 短いやり取り。


 だが、必要だった。


 ポルカが手帳を見ながら言った。


「僕は怖かったですが、あの言い換えが一番分かりました」


「なぜですか」


 私が聞くと、ポルカは真剣に答えた。


「怒りが消えていないのに、範囲が分かるからです。怖いものの形が少し見えます」


 怒りの形。


 また良い言葉だ。


 私は記録したくなる。


 ティナが先に言った。


「それ、書いていい?」


 ポルカは驚いた。


「僕の言葉を?」


「うん。怒りの形って、分かりやすい」


「ど、どうぞ」


 ティナが小さな紙に書いた。


 ポルカが照れている。


 アレンがそれを見て言う。


「記録係が増えてるな」


「今日はティナ記録です」


「お前は?」


「我慢しています」


「偉い」


「子供扱いしないでください」


 クロードが真面目に言う。


「今日の練習は、全体へ広げる場合に注意が必要だ」


「はい」


 私は頷いた。


「重い文は、いきなり出すと負荷が高いです」


「最初は、前衛、後衛、貴族、平民などの身近な例から入るべきだ。その後、魔族関連に進むとしても、本人の状態を確認する必要がある」


「同意します」


 ミナが言う。


「毎日は無理」


「はい」


 私はすぐに答えた。


「毎日行うものではありません。必要な時に使う練習です」


「うん」


 ティナが言う。


「でも、掲示はあっていいと思う。いつでも見られるから」


「はい」


 掲示の役割。


 常に話し合うのではなく、必要な時に戻れる場所として残す。


 戻り道と同じだ。


 怒りにも戻り道が必要。


 私はそう思ったが、今は口に出さなかった。


 午後、セフィナ先生の授業があった。


 題目は「記録における分類語」。


 明らかに、朝の会とつながっている。


 先生は黒板に三つの言葉を書いた。


 ――魔族。

 ――魔王軍。

 ――黒角隊。


「この三つは、同じではありません」


 教室が静まり返る。


 セフィナ先生は穏やかに続けた。


「しかし、記録の中では混同されることがあります。混同には理由があります。情報が不足していたから。記録者が区別できなかったから。あるいは、区別する必要がないと考えたから」


 私は黒角隊の破損碑を思い出す。


 ミナの家族。


 父上の調査。


 セフィナ先生は続ける。


「分類語は便利です。ですが、便利さの代わりに細部を消します」


 朝の言い換え練習と同じだ。


 全部と言わない。


 大きな言葉で雑にしない。


「今日は、分類語を使う時の注意を学びます」


 先生は黒板に追加する。


 ――分類語は使ってよい。

 ――ただし、範囲を確認する。

 ――分からない時は、分からないと書く。


 分類語を使ってはいけない、ではない。


 使う。


 ただし、範囲を確認する。


 これは実用的だ。


 すべてを名前で呼べるわけではない。


 名前が分からない場合もある。


 だから、分類語は必要。


 だが、乱用すれば人を消す。


 セフィナ先生の授業は、朝の会で揺れた空気を、知識の形に整えてくれた。


 教師とはすごい。


 いや、危険である。


 いや、ありがたい。


 授業後、セフィナ先生は私に小さく声をかけた。


「今朝の練習、聞きました」


「グレイン先生からですか」


「はい」


「やりすぎましたか」


「少し重かったと思います」


「はい」


「でも、必要な言葉も出たようですね」


「はい」


 セフィナ先生は黒板を消しながら言った。


「これからは、分類語と名前の間を行き来する練習が必要になります」


「分類語と名前の間」


「はい。全部を名前にすることはできません。でも、全部を分類語だけにすると、人が消えます。その間をどう扱うかです」


 また難しいことが増えた。


 しかし、今の流れには必要だ。


「覚えておきます」


「ええ。それと、ディアさん」


「はい」


「今日のあなたは、少しだけ自分を責めすぎている顔です」


「……顔面管理が」


「それより、少し休みましょう」


 セフィナ先生にも言われた。


 私は素直に頷いた。


 夜。


 私は個人記録を書いた。


 ――朝、怒りを消さない会のまとめを掲示。説明実施。

 ――全部と言わない練習を開始。大きな言葉を具体的な出来事や態度へ戻す。

 ――前衛、後衛、貴族、平民の例は有効。魔族関連の例は負荷が高い。今後は段階が必要。

 ――ミナ「私の家族を殺した魔族はいた。でも、全部の魔族を私は知らない」と発言。非常に重要。本人の頷きを得て木板へ記載。

 ――ポルカ「怒りの形が少し見える」と発言。重要。

 ――セフィナ先生の授業「分類語」。魔族、魔王軍、黒角隊は同じではない。分類語は便利だが細部を消す。使ってよいが、範囲を確認する。分からない時は分からないと書く。

 ――今後の課題。分類語と名前の間を扱う練習。


 最後に一行。


 ――全部と言わないことは、怒りを弱めることではない。怒りが誰へ向いているのかを、雑に広げすぎないための技術である。


 羽ペンを置く。


 疲れた。


 昨日に続いて、今日も怒りを扱った。


 ミナは強い言葉を出した。


 私は、その言葉を受け止めた。


 だが、受け止めすぎてはいけない。


 進行役。


 怒りの受け皿ではない。


 何度も自分に言い聞かせる。


 私は胸元のお守りに触れた。


 父上。


 今日は「全部と言わない」練習をしました。


 人間の怒りは消えていません。


 ですが、怒りの範囲を少しだけ見ました。


 私の家族を殺した魔族はいた。


 でも、全部の魔族を私は知らない。


 ミナはそう言いました。


 その言葉は、私にとって救いではありません。


 許しでもありません。


 ただ、真実に近づくための形です。


 私はその形を、雑に扱わないようにしたいと思います。

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