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第53話 書かないという約束

 名前を聞いた翌朝、私はいつもより早く目を覚ました。


 机の上には、昨夜の記録が置かれている。


 そこには、こう書かれていた。


 ――本日、ミナが家族の名前を少しだけ話してくれた。本人の希望により、名前そのものは記録しない。


 名前そのものは、ない。


 けれど、そこに名前があったことは残っている。


 不思議な記録だ。


 空白ではない。


 欠落でもない。


 守るために伏せた空白。


 私はその一文を見つめながら、胸の奥にある三つの名前を確認した。


 オルグ。


 リサ。


 カイ。


 書かない。


 でも、忘れない。


 これは、私とミナの約束だ。


 魔王城では、重要な名前は記録される。


 血筋。


 戦功。


 罪。


 命令。


 死者。


 記録に残すことで、存在を公にする。


 それが尊重だと思っていた。


 だが、人間界では昨日、新しいことを学んだ。


 名前を残すことが尊重になる時もある。


 名前を急いで残さないことが、尊重になる時もある。


 持ち主の許可なく名前を紙にすることは、時に奪うことになる。


 私は、羽ペンを手に取らなかった。


 書かないという行動にも、意志がいる。


 何もしないことではない。


 待つ力に似ている。


 記録しない力。


 私は木板に書きかけて、止めた。


 これも、今は木板に残さない方がいい。


 自分の頭の中で、静かに持つ。


「ルシェラ……起きてる?」


 ティナの眠そうな声がした。


「はい」


「また朝から記録?」


「今日は、記録を見ていました」


「昨日の?」


「はい」


 ティナは毛布から顔だけ出した。


「ミナの名前のこと?」


 私は少しだけ首を振る。


「名前そのものは書いていません」


「うん」


「ですが、話してくれたことは書きました」


「ミナに聞いたんだよね?」


「はい」


「じゃあ、大丈夫だと思う」


 ティナはそう言ってから、少し考えた。


「でも、書かないって難しそう」


「はい。難しいです」


「ルシェラ、何でも記録したがるもんね」


「必要なので」


「うん。でも、書かないのも必要な時があるんだね」


「はい」


 ティナは少しだけ微笑んだ。


「なんか、ルシェラがちゃんとミナのこと大事にしてる感じがする」


 胸の奥が、少し痛くなった。


 大事にしている。


 その言葉は嬉しい。


 同時に、怖い。


 私はミナに、まだ一番大事なことを言えていない。


 私が魔王の娘であること。


 魔族であること。


 彼女が憎む側に属する者であること。


 名前を書かない約束は守れても、正体を言えない嘘は残っている。


「ルシェラ?」


「はい」


「また重い顔」


「……顔面管理が」


「今日はいいんじゃない?」


「よくありません」


「でも、ミナのことを考えて重くなるのは、悪いことじゃないと思う」


 ティナは毛布から抜け出しながら言った。


「重くなりすぎたら、朝ご飯食べよう」


「それは解決策ですか」


「かなり」


 アレンと同じ方向の解決策である。


 食事と睡眠。


 単純だが、確かに有効。


 ノノも、きっと頷くだろう。


 ミナはまだ眠っていた。


 珍しい。


 普段は私より少し遅い程度には起きる。


 昨日、かなり疲れたのだろう。


 ティナはミナの方を見て、小声になった。


「起こす?」


「朝食時間まで、まだ少しあります」


「じゃあ、もう少し寝かせよう」


「はい」


 待つ。


 ここでも待つ。


 起こすことはできる。


 けれど、今は寝かせる。


 何もしないのではない。


 回復する時間を渡す。


 私はその感覚を、少しずつ覚え始めていた。


 食堂へ行く頃、ミナは起きていた。


 顔色は悪くない。


 ただ、少し眠そうだった。


「おはようございます」


「おはよう」


 ミナは短く答えた。


 ティナがすぐに聞く。


「眠れた?」


「うん。途中で起きたけど、また寝た」


「そっか」


「朝ご飯、食べる」


「よし!」


 ティナは嬉しそうに頷いた。


 食堂では、いつもの席に第一班が集まった。


 アレンはパンと卵と野菜。


 クロードは書類なしで食事。


 ポルカは手帳を閉じてスープを飲んでいる。


 全体的に改善傾向である。


「今日はみんな、食事態度が良いですね」


 私が言うと、アレンが顔をしかめた。


「学級委員っていうより食堂監督だな」


「食事は戦力維持に関わります」


「もう聞いた」


 クロードが真面目に頷いた。


「だが、実際に食事を抜くと訓練効率が落ちる。ディアの指摘は妥当だ」


「クロードまでそっち側に行った」


「そっち側とは何だ」


「ルシェラ側」


「それは不本意だな」


「不本意ですか」


 私は少しだけ不満だった。


 ティナが笑い、ミナも小さく笑った。


 その笑いを見て、私はほっとした。


 昨日の名前は、消えていない。


 でも、今日の朝食もある。


 重いものを抱えたまま、普通の時間が続く。


 それは少し不思議で、少し救いでもあった。


 午前の授業は、学級委員業務の都合で、グレイン先生から追加の連絡があった。


「来週、班別の小規模遠征訓練を行う」


 教室がざわついた。


 遠征訓練。


 言葉だけで、生徒たちの表情が変わる。


 前衛希望者は目を輝かせる。


 ポルカはすでに青ざめる。


 ティナは楽しみと不安が混ざった顔。


 アレンは面倒そうだが、目だけは動いている。


 クロードは真剣。


 ミナは静かに聞いている。


「遠征と言っても、学校近くの管理林だ。泊まりではない。だが、通常の演習場より広い。地形確認、班行動、負傷者対応、撤退判断、簡易野営準備を行う」


 簡易野営。


 ポルカが手帳を開く速度が上がった。


「学級委員と副委員は、事前準備を手伝え。持ち物一覧、班ごとの役割確認、危険箇所の共有、体調申告の取りまとめだ」


「はい」


 私とクロードは同時に返事をした。


 仕事が増えた。


 だが、重要な仕事だ。


 管理林。


 広い場所。


 戻り道。


 負傷者対応。


 役割確認。


 これまでの訓練が、外に出る。


 教室や演習場で作った言葉が、本当に使えるか試される。


 グレイン先生は続けた。


「なお、管理林には古い石碑や慰霊標もある。勝手に触るな。ふざけるな。歴史授業で扱った内容とつながる場所もある」


 石碑。


 慰霊標。


 私は少しだけ反応した。


 黒角谷北口の破損碑。


 血晶石。


 名前の残し方。


 名前のない記録。


 管理林の慰霊標が何に関わるものかは分からない。


 だが、今の流れで出てくるなら、何か意味があるはずだ。


 セフィナ先生も関わるのだろうか。


 グレイン先生は私を見た。


「ディア」


「はい」


「遠征訓練の準備で、記録係を一人置く。お前が全部書くな。誰かに任せろ」


 先に釘を刺された。


「……はい」


「顔が不満そうだ」


「記録は重要です」


「だから任せる練習をしろ」


「承知しました」


 アレンが後ろで肩を震わせている。


 笑っている。


 後で問い詰める。


 いや、問い詰めると喜ぶかもしれない。


 放置する。


 授業後、さっそく準備が始まった。


 私はクロードと一緒に、職員室で遠征訓練の資料を受け取った。


 持ち物一覧。


 管理林の簡易地図。


 危険箇所。


 班別行動予定。


 緊急連絡手順。


 体調申告書。


 記録係選出表。


 紙が多い。


 非常に多い。


 魔王城の書記官の気持ちが、ますます分かってきた。


「ディア」


 クロードが資料を整理しながら言った。


「役割を分けよう」


「はい」


「持ち物一覧と体調申告は僕が整理する。規則と漏れの確認が必要だからだ」


「妥当です」


「危険箇所と戻り道の共有は、リントに協力を頼むべきだ」


「同意します」


「記録係は……」


 クロードが少し考える。


「フォルクが向いているのではないか」


「アレンが?」


「観察と伝達ができる。余計な美化も少ない」


「本人が嫌がる可能性が高いです」


「だろうな」


 クロードは真面目に頷いた。


「だが、適性はある」


 確かに。


 アレンは見えるものを言葉にする練習をしている。


 記録係は、その延長になる。


 ただし、彼にすべてを書かせると、本人が「面倒」と言うだろう。


「補助記録係として、セシルも候補です」


「魔法陣補助の?」


「はい。印をつける、位置を示す、図で残すことに向いています」


「なるほど」


 クロードは紙に書いた。


 記録係候補。


 アレン・フォルク。


 セシル・ノート。


 ポルカ・リント。


 ポルカは危険箇所記録に強いが、全部任せると怖さで紙が埋まる可能性がある。


 だが、それも情報として有用。


 問題は整理である。


「役割を分割しましょう」


 私は言った。


「アレンは観察記録。セシルは地図と印。ポルカは危険箇所と戻り道。最終整理は学級委員で行う」


「良い」


 クロードが頷いた。


「任せられているな」


「努力しています」


「以前なら自分で全部やっただろう」


「はい」


「成長だ」


「クロードが言いますか」


「たまには言う」


 クロードは少しだけ口元を緩めた。


 冗談か。


 たぶん冗談である。


 彼の冗談は、まだ少し分かりにくい。


 昼休み、第一班に遠征訓練の準備を共有した。


 場所は中庭。


 いつもの木陰。


 ティナが弁当を広げ、ミナが干し林檎を出し、ポルカが地図と聞いた瞬間に手帳を構え、アレンが嫌そうな顔をし、クロードが資料を並べる。


「来週、管理林で小規模遠征訓練があります」


 私が言うと、ポルカが震えた。


「管理林……演習場より広い……迷子発生率上昇……木の根による転倒リスク……虫……」


「ポルカ」


「はい!」


「あなたの力が必要です」


 ポルカの震えが止まった。


「僕の?」


「はい。危険箇所と戻り道の確認係として、準備に協力してください」


「戻り道……」


「あなたが見つけた戻り道が、班全体を助ける可能性があります」


 ポルカは少しだけ背筋を伸ばした。


「やります」


「お願いします」


 次に、私はアレンを見る。


「アレン」


「嫌な予感しかしない」


「記録係をお願いします」


「ほら来た」


「観察記録です。全部を書く必要はありません。見えた違和感、判断の根拠、危険予兆を短く記録してください」


「面倒」


「適性があります」


「適性って便利な言葉だな」


 アレンはパンをかじりながら、少し目を逸らした。


「俺が書いたら、字が汚いぞ」


「読める程度なら問題ありません」


「読めなかったら?」


「セシルに清書補助を頼みます」


「もう逃げ道塞がれてる」


「逃げ道ではなく、補助線です」


「言い換えたな」


 ティナが笑った。


「アレン、やってみたら? アレンの見てること、後から分かると助かると思う」


 ミナも短く言った。


「向いてる」


 アレンは二人を見る。


 そして、諦めたように息を吐いた。


「分かった。短くでいいなら」


「ありがとうございます」


「ただし、全部は書かない」


「はい。全部は私が」


 言いかけると、アレンがすぐに指を向けた。


「そこ」


「……最終整理は学級委員と副委員で行います」


「よし」


 なぜ私が監督されているのか。


 だが、正しい。


 ティナには、体調確認と支援物資の相談を頼んだ。


「お茶は?」


「遠征訓練にお茶は必要ですか」


「必要!」


 ティナは即答した。


「休憩の時、温かいものがあると落ち着くよ。無理なら水でもいいけど、飴とか干し果物とか、ちょっとしたものがあるといい」


 ポルカが強く頷く。


「士気維持物資です!」


「では、士気維持物資係をお願いします」


「やった!」


 ティナは嬉しそうに笑った。


 ミナには、後衛視点での危険箇所確認を頼む。


「木が多いと射線が切れます」


「うん。見ておく」


「ただし、無理はしないでください」


「言われなくても、言う」


 ミナは静かに答えた。


 できない理由も報告。


 それを覚えている。


 私は頷いた。


「お願いします」


 話が進むにつれて、第一班の役割が自然に決まっていく。


 アレンは観察記録。


 ティナは士気維持と体調確認。


 クロードは持ち物と規則。


 ミナは後衛視点の危険確認。


 ポルカは戻り道と危険箇所。


 私は全体調整。


 全員が動ける形になっている。


 学級委員の仕事としては、悪くない。


 ただし、問題が一つ残っている。


 管理林の慰霊標。


 ミナへの負荷。


 そして、昨日聞いた家族の名前。


 遠征訓練で慰霊標に触れるなら、彼女が何を感じるか分からない。


 だが、先回りしすぎても支配になる。


 私はミナを見た。


「ミナ」


「うん」


「管理林には古い慰霊標があるそうです」


「先生が言ってた」


「はい。必要なら、事前にセフィナ先生かグレイン先生へ内容を確認します」


 ミナは少し考えた。


「確認してほしい」


「分かりました」


「でも、私が行けないって決めないで」


「はい」


 私は頷いた。


「内容を確認し、情報を共有します。その後、ミナが判断してください」


「うん」


 ティナが安心したように息を吐いた。


 アレンが小さく言う。


「学習してるな」


「はい」


「本人抜きで決めない」


「はい」


「よし」


「なぜあなたが先生のように」


「癖になってきた」


 それは困る。


 だが、少し頼もしくもある。


 放課後、私はグレイン先生のところへ行った。


 慰霊標について確認するためだ。


 先生は職員室で資料を見ていた。


「ディアか」


「はい。管理林の慰霊標について、事前に確認したいことがあります」


「ミナの件か」


 すぐに分かった。


 教師はやはり危険である。


「はい」


「慰霊標は北境戦役ではなく、二十年以上前の獣害と土砂崩れの被害者を悼むものだ。魔族関連ではない」


 私は少し息を吐いた。


「そうですか」


「だが、死者の名前が刻まれている。昨日の授業内容とつながる可能性はある」


「はい」


「オルステッドには事前に伝えろ。ただし、参加するかどうかは本人に決めさせろ」


「承知しています」


「ならいい」


 グレイン先生は少しだけ私を見た。


「最近、先回りしすぎる前に確認に来るようになったな」


「学習中です」


「悪くない」


 私は頭を下げた。


「ありがとうございます」


「それと、記録係をフォルクにしたらしいな」


「はい。観察記録として」


「良い判断だ。あいつは書くことで、自分の見たものを整理できるかもしれん」


「はい」


「ただし、書かせすぎるな。嫌になる」


「承知しました」


 職員室を出ると、廊下にアレンがいた。


「……なぜいますか」


「偶然」


「本当ですか」


「半分」


「もう半分は?」


「お前が慰霊標のこと聞きに行くだろうと思った」


 読まれている。


「聞きました」


「魔族関係?」


「違うそうです。獣害と土砂崩れの慰霊標とのことです」


「そっか」


 アレンは少しだけ安心したように息を吐いた。


「ミナには?」


「伝えます。参加するかは本人が決めます」


「学習してるな」


「二回目です」


「大事だからな」


 アレンはそう言って、少し黙った。


「それと、記録係だけど」


「はい」


「名前のことは、俺は書かないからな」


 私は一瞬、言葉を失った。


 アレンは、私が昨日名前を書かなかったことを知らない。


 だが、察している。


 どこまで見えているのか。


 怖い。


 けれど、ありがたい。


「はい」


 私は答えた。


「書かないでください」


「分かった」


「ありがとうございます」


「礼を言われるほどじゃない」


「いえ。重要です」


 アレンは顔を背けた。


「……なら、覚えとく」


 夜。


 私は記録を書いた。


 ――小規模遠征訓練の告知。管理林にて実施予定。地形確認、班行動、負傷者対応、撤退判断、簡易野営準備。

 ――学級委員・副委員で事前準備。持ち物一覧、体調申告、危険箇所、戻り道、記録係選出。

 ――役割分担。アレン=観察記録、セシル=地図と印、ポルカ=危険箇所と戻り道、ティナ=士気維持・体調確認、クロード=持ち物・規則、ミナ=後衛視点の危険確認、私=全体調整。

 ――管理林の慰霊標は魔族関連ではなく、獣害と土砂崩れの被害者を悼むもの。ただし死者名あり。ミナへ事前共有し、参加判断は本人に任せる。

 ――アレン、記録係を引き受ける。ただし「名前のことは書かない」と先に言う。重要。


 私は羽ペンを止めた。


 最後に一行書く。


 ――書かないという約束は、私だけでなく、周囲も守ろうとしてくれている。


 胸の奥が、少し熱くなった。


 書かない約束。


 名前を紙にしないこと。


 その重みを、アレンも何となく分かってくれている。


 ティナも、ミナの隣にいる。


 クロードも、規則だけでなく人を見るようになっている。


 ポルカは戻り道を探す。


 皆が少しずつ、誰かの名前や怖さや沈黙を守る方法を覚えている。


 私は胸元のお守りに触れた。


 父上。


 遠征訓練があります。


 管理林へ行きます。


 そこには、魔族とは関係のない慰霊標があるそうです。


 人間の死者の名前が刻まれた場所です。


 私はそこで、また名前の扱い方を学ぶことになるのかもしれません。


 そして、今日も思いました。


 書くことだけが記録ではない。


 書かないと決め、その理由を忘れないこともまた、一つの記録なのだと。

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