第50話 名前の残し方
名前を残す。
それは、思っていたより難しいことだった。
名前を書けばよい、というだけではない。
誰の名前を書くのか。
どこまで書くのか。
何と一緒に書くのか。
何のために書くのか。
そして、書かれなかった名前をどう扱うのか。
セフィナ先生から授業準備を手伝ってほしいと言われた私は、放課後の歴史準備室で、山のような資料を前にして固まっていた。
古い戦死者名簿。
村落被害記録。
王国軍功労者一覧。
避難民台帳。
慰霊碑の写し。
寄進者名簿。
孤児院の受け入れ記録。
古い新聞の切り抜き。
それらが机の上に並んでいる。
すべて、名前に関わる資料らしい。
「多いですね」
私は言った。
セフィナ先生は穏やかに笑った。
「名前を残す方法は、一つではありませんから」
「戦死者名簿だけではないのですか」
「ええ。戦死者名簿に載る人もいれば、避難民台帳にだけ残る人もいます。慰霊碑に刻まれる人もいれば、誰かの日記にしか残らない人もいます」
先生は古い紙を一枚手に取った。
「逆に、公式記録には名前があるのに、その人が何を好きだったか、どんな声で笑ったかは残らないこともあります」
名前。
でも、その人そのものではない。
私は資料を見つめた。
王国軍戦死者名簿には、整然と名前が並んでいる。
所属。
階級。
死亡日。
戦場。
その横に、民間被害記録があった。
そこには、地名と人数だけが書かれている箇所が多い。
北境某村、死者二十三名。
西街道沿い、行方不明者八名。
山間集落、焼失家屋十二。
名前がない。
「なぜ、民間人の名前は少ないのですか」
私が聞くと、先生は少し目を伏せた。
「分からなかったから、という場合もあります。記録する余裕がなかったから、という場合もあります。役所の書類が焼けたから。家族全員が亡くなり、届け出る人がいなかったから。あるいは、当時の記録者が、兵の名は残すべきだが民間人は人数で足りると考えたから」
「人数で足りる」
私はその言葉を繰り返した。
足りるのだろうか。
戦況報告としてなら、足りるのかもしれない。
損害規模を把握するには、数が必要だ。
だが、ティナは言った。
名前が残っているといい。
ミナは問うた。
私なら、どう記録してほしいか。
人数では足りないものがある。
「姫……」
と言いかけて、私は止まった。
危ない。
セフィナ先生の前で、考えが魔王城側へ寄りすぎた。
「ディアさん?」
「いえ。失礼しました」
「大丈夫ですか?」
「はい。少し、記録の役割について考えていました」
危険な言い換えではない。
本当にそう考えていた。
セフィナ先生は、私の顔をしばらく見た。
この先生も、人の顔を見る。
アレンほど直接ではないが、ゆっくり深く見る。
「ディアさんは、記録に興味があるのですね」
「はい」
「なぜですか?」
なぜ。
私は少し考えた。
魔王城では、記録は力だった。
条約。
軍記。
血統。
罪。
功績。
命令。
残された記録によって、人は裁かれ、褒められ、守られ、時に消される。
父上は言った。
勝った者の名だけが、歴史ではない。
私は記録することで、世界を整理できると思っていた。
だが今は、それだけではない。
「忘れないためだと思います」
私は答えた。
「ですが、最近は、忘れないだけでは足りないのかもしれないとも思います」
「どういう意味ですか」
「名前だけ残っても、その人が数字や分類に閉じ込められることがあります。逆に、名前が残らなくても、誰かの記憶には残っていることがあります。何を残せば、その人を雑に扱わずに済むのか、まだ分かりません」
セフィナ先生は少しだけ微笑んだ。
「とても良い問いですね」
問い。
また増えた。
私は少し苦笑したくなった。
「問いばかり増えます」
「それでいいと思いますよ。ただ、昨日も言いましたが、問いで自分を傷つけすぎないように」
「はい」
「今日の準備では、三種類の資料を選びましょう」
先生は机の上の紙を三つに分けた。
「一つ目は、名前が整然と残っている資料。二つ目は、人数だけが残っている資料。三つ目は、名前ではなく、その人の生活が残っている資料」
「生活が残っている資料」
「たとえば、避難民の子供が孤児院に持ってきた持ち物の記録です」
先生は古い帳面を開いた。
そこには、名前ではなく、品物が書かれていた。
小さな木彫りの馬。
青いリボン。
母の刺繍入り布。
欠けた銀の匙。
煤けた絵本。
壊れた笛。
「これは……」
「戦災孤児院の受け入れ記録です。名前が分からない子もいました。でも、持っていたものは記録されています」
名前はない。
でも、持ち物がある。
その人が何を大事にしていたかの欠片。
私は胸が少し重くなった。
遺品。
いや、これは遺品とは限らない。
生き残った子供が持っていたものだ。
だが、失われた家族や生活の痕跡であることは間違いない。
以前、応募作の案を考えた時に、遺品ミステリという方向を一度話したことがあった。
センシティブだと感じた。
コメディとは合わないのではないかと疑った。
今なら、その危うさが少し分かる。
人の持ち物や名前を扱うことは、軽くできない。
だが、だからこそ、扱い方を間違えなければ強い。
この作品では、遺品そのものではなく、名前と記録と持ち物の残り方として触れる。
重くなりすぎないように。
でも、なかったことにはしないように。
「この資料を授業で使うのですか」
「一部だけです。全文は重すぎますから」
「はい」
私は頷いた。
段階を作る。
全部を一度に見せない。
見せ方にも配慮が必要。
「ディアさんには、この三種類の資料を並べた時、生徒が考えやすい問いを作ってほしいのです」
「問いを」
「ええ。あなたは問いを作るのが上手ですから」
昨日の注意と同時に、任された。
問いを作る力。
それは危険でもあり、役割でもある。
私は資料を見比べた。
名前が整然と残っている名簿。
人数だけの被害記録。
持ち物だけの受け入れ帳。
そこから、問いを作る。
私は羽ペンを取った。
――名前が残っていることで、何が分かるか。
――名前だけでは分からないことは何か。
――人数だけで記録されると、何が見えなくなるか。
――名前が分からない人を、どう扱えばよいか。
――持ち物は、その人の何を伝えるか。
――記録に残らないものを、私たちはどう想像してよいか。
――想像してよいことと、勝手に決めつけてはいけないことの境目はどこか。
最後の問いを書いた時、私は少し手を止めた。
想像。
決めつけ。
これは難しい。
名前がないからといって、勝手な物語を作れば、その人を利用することになる。
しかし、何も想像しなければ、数字のままになる。
どこまで想像してよいのか。
セフィナ先生はその問いを見て、深く頷いた。
「これを使いましょう」
「よいのですか」
「ええ。難しいですが、大切な問いです」
授業準備は日暮れ近くまで続いた。
その間、私は何度も資料を読み、問いを直し、重すぎる表現を削った。
セフィナ先生は、時々お茶を淹れてくれた。
私は少し驚いた。
教師が生徒にお茶を淹れる。
魔王城なら、かなり珍しい。
「ありがとうございます」
「長く手伝ってもらっていますから」
「いえ、任務……ではなく、手伝いですので」
「ふふ。ディアさんは、時々言葉が独特ですね」
「よく言われます」
非常によく言われる。
アレン、ティナ、ミナ、グレイン先生、ノノ。
全員から言われている気がする。
準備室を出る頃には、廊下は夕方の色に染まっていた。
私は資料の写しと問いの紙を持ち、教室へ戻った。
すると、教室にはまだアレンがいた。
彼は窓側の席で、何かを読んでいる。
「アレン」
「遅かったな」
「待っていたのですか」
「別に」
「では、なぜ教室に?」
「静かだったから」
嘘ではないかもしれない。
だが、全部でもない。
アレンは私の手元の紙を見た。
「名前の授業準備か」
「はい」
「重そうだな」
「重いです」
「珍しく即答」
「軽く扱えません」
「だろうな」
アレンは少しだけ椅子を引いた。
「見てもいいやつか?」
「一部なら」
私は問いの紙だけを渡した。
彼は黙って読む。
最後の問いで、少し眉を動かした。
「想像していいことと、勝手に決めつけちゃいけないことの境目、か」
「はい」
「お前、また自分に刺さる問い作ってるな」
「……そうかもしれません」
「名前がない人を勝手に物語にするな。でも、数字のままにするな。難しいな」
「はい」
アレンは紙を返した。
「でも、必要なんだろ」
「はい」
「なら、やるしかないな」
軽い言い方。
だが、不思議と少し楽になった。
「アレン」
「何だ」
「あなたは、問いに潰されそうな時、どうしますか」
「寝る」
「……寝る」
「あと、食う」
「非常に単純です」
「単純なことを舐めるなよ。寝不足と空腹で考えると、だいたい悪い方に転がる」
ティナと同じことを言っている。
やはり、食事と睡眠は重要。
ノノも正しい。
「それと」
アレンは少し考えてから言った。
「誰かに投げる」
「投げる」
「自分だけで考えると、同じところぐるぐるするだろ。お前とか特に」
「否定できません」
「だから、投げる。ティナでも、ミナでも、先生でも、俺でも。返ってきた答えが正しいとは限らないけど、問いの形は変わる」
問いの形が変わる。
それは、今日の授業準備にも通じる。
セフィナ先生に見てもらったことで、問いは変わった。
第一班で話すことで、判断表も変わった。
「有用です」
「また評価」
「感謝です」
「ならいい」
アレンは立ち上がった。
「ほら、寮に戻れ。ティナに怒られるぞ」
「なぜティナが」
「夕飯抜きそうだから」
「抜きません」
「顔が怪しい」
顔面管理。
まただ。
私は書類を鞄にしまい、寮へ戻った。
女子寮三号室では、ティナが待っていた。
「遅い!」
「すみません」
「夕飯は?」
「まだです」
「やっぱり!」
ティナはすぐに私の手を引いた。
「食堂行くよ。ミナも行こ」
「うん」
ミナは静かに立ち上がった。
食堂へ向かう途中、ティナが聞いた。
「授業準備、重かった?」
「はい」
「名前の話だもんね」
「はい」
ミナは黙って聞いていた。
私は少し迷った。
明日の授業で扱う資料には、名前のない被害記録や持ち物の記録がある。
ミナにとって負荷があるかもしれない。
「ミナ」
「うん」
「明日のセフィナ先生の授業では、名前の残し方を扱います。戦争被害の記録も出ます」
「うん」
「重い内容になる可能性があります」
「分かった」
「必要なら、事前に資料の種類だけ説明します」
ミナは少し考えた。
「全部は、今聞かない」
「はい」
「でも、名前のない記録が出る?」
「出ます」
「持ち物の記録も?」
私は少し驚いた。
「はい。なぜ分かったのですか」
「名前がない時、残るのは物かなと思った」
ミナの声は静かだった。
「明日、聞く。途中で無理なら言う」
「はい」
できない理由も報告。
ミナは、それを自分で使おうとしている。
私は頷いた。
「言ってください」
「うん」
ティナがミナの隣で少し心配そうにしている。
ミナはそれに気づいた。
「ティナ」
「うん?」
「明日、隣にいて」
「もちろん」
即答だった。
ミナは小さく頷いた。
夕食後、部屋で私は授業用の問いをもう一度確認した。
ティナはベッドの上で足をぶらぶらさせながら、私の紙を覗き込んでいる。
「これ、難しいね。『想像していいことと、決めつけちゃいけないこと』」
「はい」
「でも、友達でも同じかも」
「友達でも?」
「うん。ルシェラが落ち込んでる時、何かあったんだろうなって想像はする。でも、勝手に理由を決めつけたら違うでしょ」
私は手を止めた。
ティナは、いつもこういうことを自然に言う。
重い歴史の問いを、友人関係の距離感へ置き換える。
「良い例です」
「記録する?」
「してもいいですか」
「いいよ」
私は書いた。
――友人でも同じ。何かあったと想像することはできるが、理由を勝手に決めつけてはいけない。
ミナが横から言う。
「でも、何も想像されないのも寂しい」
「はい」
私はさらに書く。
――何も想像しないことも、距離になる。
難しい。
想像しすぎない。
でも、想像しなさすぎない。
名前も、記録も、友人関係も、すべて距離の問題なのかもしれない。
夜。
私は個人記録を書いた。
――セフィナ先生の授業準備を手伝う。題材は名前の残し方。
――資料三種。名前が整然と残る戦死者名簿。人数だけの民間被害記録。名前ではなく持ち物が残る孤児院受け入れ記録。
――問いを作成。名前が残っていることで分かること。名前だけでは分からないこと。人数だけで記録されると見えなくなること。持ち物が伝えるもの。想像してよいことと決めつけてはいけないことの境目。
――アレンより、問いに潰されそうな時は寝る、食う、誰かに投げると助言。単純だが有用。
――ティナより、友人でも同じと指摘。何かあったと想像することはできるが、理由を勝手に決めつけてはいけない。
――ミナより、何も想像されないのも寂しいと指摘。重要。
最後に一行。
――名前を残すことは、その人を全部分かったことにするためではない。分からないままでも、そこにいたと忘れないための手がかりである。
私は羽ペンを置いた。
名前。
持ち物。
記録。
想像。
決めつけ。
明日の授業は、重くなるだろう。
だが、避けてはいけない。
ミナは聞くと言った。
ティナは隣にいると言った。
私は問いを作った。
セフィナ先生は、それを授業に使う。
人間は、こうやって過去に触れるのだろうか。
一人でではなく。
問いと、名前と、誰かの隣で。
私は胸元のお守りに触れた。
父上。
魔王城にも、名前を残す場所があります。
慰霊廊の血晶石。
勝った者だけが歴史ではないと、あなたは言いました。
明日、人間側の名前の残し方を学びます。
きっと、そこには魔族側と違う痛みがあります。
私はそれを、雑に扱わないように見たいと思います。
問いに潰されないように。
でも、問いから逃げないように。




