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第32話 黒角隊という名前

 ノノへ手紙を出してから、二日が経った。


 返事はまだ来ない。


 当然である。


 前回の定期報告への返事が早すぎただけで、本来なら魔王城とのやり取りには時間がかかる。


 こちらから問い合わせた内容も、簡単ではない。


 黒角谷。


 赤黒い記録石。


 黒角を冠する部隊。


 それらを調べるには、魔王城の古い軍記や、強硬派に関する内部記録を確認する必要があるはずだ。


 ノノならできる。


 父上に確認が必要なら、そうするだろう。


 だが、時間はかかる。


 分かっている。


 分かっているのだが。


「ルシェラさん、さっきから同じページを五回見ています」


 図書室の机で、ポルカが小声で言った。


「五回ではありません」


「六回でしたか?」


「……五回です」


「正確でした」


 ポルカは少し嬉しそうにした。


 嬉しそうにするところではないと思う。


 私は開いていた本に視線を落とす。


 『北境古地名覚書』。


 黒角谷について、昨日から何度も読んでいる資料だ。


 新しい情報はない。


 それなのに、私は同じ箇所を読み返していた。


 返事を待っている間、何もしないのが落ち着かない。


 だから図書室へ来た。


 しかし、資料はほぼ調べ尽くしている。


 新しい点が見つからない。


 見つからないと分かっているのに、また探してしまう。


 非効率である。


 自覚はある。


「ルシェラ」


 向かいに座っていたミナが言った。


「はい」


「待つの、苦手?」


「……得意ではありません」


「分かる」


 ミナは短く言った。


 彼女の前には、黒角谷周辺の古地図が広げられている。


 昨日から何度も見ている地図だ。


 彼女もまた、新しい情報を探している。


 だが、手つきは落ち着いていた。


 落ち着いているように見せているだけかもしれない。


 ティナは隣で、二人分の茶を用意していた。


 図書室なので、飲むことはできない。


 だが、談話室へ移動した時にすぐ飲めるよう、茶葉を小袋に分けている。


 彼女なりの準備である。


「返事、まだなんだよね」


 ティナが小声で聞く。


「はい」


「そっか。じゃあ、今日は調べすぎない日でもいいんじゃない?」


「調べすぎない日」


「うん。ずっと考えてると、頭がぐるぐるするし」


 ティナは自分のこめかみのあたりで指を回した。


「お茶飲んで、ちょっと休んで、また明日考える。そういう日」


「それは、調査の中断ですか」


「休憩!」


「休憩」


 人間界では、何度も学んだ言葉だ。


 続けるために、止まる。


 壊さないために、緩める。


 魔族式訓練には不足しがちな概念。


 アレンを鍛える時にも、グレイン先生から言われた。


 弱い者を鍛えるには、続けられる状態を作れ。


 これは調査にも当てはまるのかもしれない。


 クロードが王国側の石碑管理記録を閉じた。


「今日は進展がない。これ以上同じ資料を見ても、誤読が増えるだけだ」


「誤読」


「期待する答えを探し始めると、文字を都合よく読む」


 クロードは真面目な顔で言った。


「セフィナ先生も言っていただろう。結論を急ぐなと」


「はい」


 私は頷いた。


 クロードにまで言われた。


 これは本当に休憩すべきかもしれない。


 アレンは、少し離れた席で薄い冊子を読んでいた。


 いつもなら早々に飽きている頃だが、今日は妙に集中している。


「アレン」


「ん」


「何を読んでいるのですか」


「これ」


 彼が表紙を見せる。


 『北境戦役における非正規武装集団の記録』。


 私は目を止めた。


「その本は、どこに?」


「魔族研究じゃなくて、戦争史の棚。しかも上の方」


 ポルカが驚いた顔をする。


「上の方は見ていませんでした……落下物が怖くて……!」


「それは仕方ありません」


「慰めが早い」


 アレンはページを開いた。


「黒角隊って名前が出てくる」


 空気が止まった。


 ミナが顔を上げる。


 クロードも身を乗り出した。


 私は、自分の指がわずかに硬くなるのを感じた。


 黒角隊。


 出てきた。


 人間側の資料にも。


「読んでください」


 私が言うと、アレンは該当箇所を指でなぞった。


「ええと……『黒角隊。北境戦役後期に確認された魔族側の非正規部隊、または魔族領内の強硬派集団の通称。正式な指揮系統との関係は不明。王国軍記録では、魔王軍の一部と見なされる場合が多いが、複数の報告書において、魔王軍本隊とは異なる行動を取ったとの記述がある』」


 ミナの手が、地図の端を握った。


 ティナが小さく息を呑む。


 クロードが低く言う。


「非正規部隊」


 アレンは続けた。


「『黒角隊は、黒い火を用いた襲撃、夜間行動、村落焼討ちなどの証言と結びつけられることがある。ただし、王国側記録には混乱が多く、同時期に活動した他の魔族小部隊との混同も見られる』」


 黒い火。


 村落焼討ち。


 ミナの村の記憶と重なる。


 だが、混同もある。


 断定はできない。


 私は自分に言い聞かせた。


 アレンは一度言葉を切り、こちらを見る。


「続き、読むぞ」


「お願いします」


「『一部資料では、黒角隊は魔王軍中央の停戦方針に従わず、人間側への報復行動を続けたとされる。だが、その存在は王国側の敵意を煽るために誇張された可能性もあり、実態は不明である』」


 実態は不明。


 また、その言葉。


 けれど、今までよりは進んだ。


 黒角隊は、人間側資料にも記録されている。


 魔王軍本隊と異なる行動を取った可能性がある。


 中央の停戦方針に従わなかった可能性がある。


 黒い火、夜間行動、村落焼討ち。


 ミナの村の事件と関係している可能性は高まった。


 だが、確定ではない。


 ミナはしばらく黙っていた。


「魔王軍じゃなかったかもしれない」


 小さな声。


 私は答えを急がないようにした。


「魔王軍本隊とは異なる行動を取った可能性があります」


「でも、魔族ではあった」


「はい」


 そこは否定できない。


 ミナの家族を殺した者は、魔族だった可能性が高い。


 黒角隊が何であれ、魔族側の者であったことは変わらない。


 ミナは目を伏せた。


「そっか」


 その声は、少しだけ複雑だった。


 怒りが消えるわけではない。


 悲しみが軽くなるわけでもない。


 だが、形の分からなかった暗闇に、少し輪郭が生まれたような声だった。


 クロードが本を覗き込む。


「この本、著者は誰だ」


 アレンが表紙裏を確認する。


「王国軍戦史編纂局。二十年前の資料」


「公式記録に近いが、一般教科書より細かいな」


「だが、実態不明と何度も書いてある」


 私は言った。


「この資料だけで結論は出せません」


「分かってる」


 アレンはそう答えた。


 以前より、皆が結論を急がなくなっている。


 それ自体が成長かもしれない。


 ポルカが手帳に必死で書き写している。


「黒角隊……非正規部隊……魔王軍本隊と異なる行動……黒い火……混同の可能性……」


 彼は書きながら、少し青ざめていた。


「怖いです。でも、情報が形になってきました」


「ポルカ」


 ミナが言う。


「はい」


「ありがとう。書いてくれて」


 ポルカの手が止まった。


 そして、顔が一気に赤くなる。


「い、いえ……僕は怖いので書いているだけで……」


「それで助かってる」


「助かってる……!」


 ポルカは泣きそうな顔で手帳を抱えた。


 ティナがそっと笑う。


「じゃあ、今日はこの本の写しを取って、続きはお茶にしよ」


「賛成です」


 私は即答した。


 これ以上続けると、ミナにも、皆にも負荷が大きい。


 情報が出た時ほど、休む必要がある。


 学習している。


 図書室を出る前、私はアレンに小声で言った。


「よく見つけましたね」


「たまたまだ」


「たまたまではありません」


「上の棚を見ただけだ」


「ポルカが下段を見つけ、あなたが上段を見つけた。役割分担として有効でした」


「そういう言い方されると、否定しづらいな」


「否定する必要はありません。成果です」


 アレンは少しだけ視線を逸らした。


「……まあ、役に立ったならいい」


「役に立ちました」


「はいはい」


 照れている。


 私は追撃しない。


 逃げ道を残す。


 お茶会、いや、休憩は談話室で行われた。


 ティナが淹れた茶は、いつもより少し薄めだった。


「今日は重い話だったから、軽いお茶」


 彼女はそう言った。


 茶に重さを調整する概念があるらしい。


 興味深い。


 ミナはカップを両手で持っていた。


「黒角隊」


 彼女が呟く。


 その名は、部屋の中で重く響いた。


 クロードが真面目に言う。


「王国側の教科書では、そこまで詳しく教えない。魔族の襲撃、王国軍の防衛、被害。それだけだ」


「詳しく教えない方が、王国には都合がいいのかな」


 ティナが言った。


 クロードは少し眉を寄せた。


「都合、という言い方は好きではない」


「ごめん」


「いや」


 クロードは少し考えた。


「だが、分かりやすい物語にした方が、国民に伝えやすいのは確かだ。魔族が襲い、王国が守った。その方が単純だ」


「でも、単純じゃなかったかもしれない」


 ポルカが小さく言う。


「単純じゃない怖さもありますね……」


「そうだな」


 クロードは認めた。


「僕も、単純な方が正しいと思っていた。だが、単純にすると、見えなくなるものがある」


 彼の言葉は、セフィナ先生の授業を確かに受け取っていた。


 ミナは静かに聞いている。


 アレンが茶を飲みながら言った。


「単純じゃないからって、ミナの家族を殺したやつが許されるわけじゃない」


 皆がアレンを見る。


 彼はカップを置く。


「そこ、間違えたらだめだろ。黒角隊が独断だろうが何だろうが、やったやつはいる」


 ミナはゆっくり頷いた。


「うん」


「でも、誰が何をしたか分からないまま全部一緒にすると、違うものまで同じになる」


 アレンは少し言葉を探した。


「……たぶん、それも嫌なんだろ」


 ミナはしばらく黙っていた。


 そして、小さく言った。


「うん。嫌」


 その一言には、いろいろなものが入っていた。


 家族を殺した魔族を許せない。


 でも、全部を同じにしたくない。


 知りたい。


 でも、知るのが怖い。


 誰かに簡単にまとめられたくない。


 そういうものが、たぶん。


 私はアレンを見た。


 彼はまた、必要なことを言った。


 観察し、違和感を言葉にする力。


 戦術だけでなく、人の傷にも働く。


「アレン」


「何だ」


「今の言葉は重要でした」


「いちいち評価するな」


「ですが」


「逃げ場がなくなる」


「分かりました」


 私は口を閉じた。


 少し成長した。


 ティナが微笑ましそうにこちらを見ていた。


「ルシェラ、ちゃんと止まった」


「はい」


「成長だね」


「前回比較ですね」


「うん!」


 お茶の後、ミナがぽつりと言った。


「黒角隊のこと、もっと知りたい」


「はい」


 私は頷く。


「ただし、今日はここまでにしましょう」


「うん」


 ミナは素直に頷いた。


「今日は、ここまで」


 その言い方は、自分に言い聞かせるようでもあった。


 止まることも、進むことの一部。


 私たちは、それを学びつつある。


 夕方、寮へ戻る途中、クロードが私の横に来た。


「ディア」


「はい」


「黒角隊の資料、王国側にもう少し残っているかもしれない。戦史編纂局の資料なら、貴族家経由で閲覧申請できる可能性がある」


「それは、クロードに負担がかかりませんか」


「僕にできることだ」


 彼はまっすぐに言った。


「それに、王国の記録が単純化しているなら、貴族である僕が知らないままでいるのはよくない」


 責任。


 彼らしい言葉だった。


 だが、以前より広い責任だ。


 家の名誉だけではない。


 記録を知る責任。


 見えないものを見る責任。


「お願いします」


「ああ」


 クロードは頷いた。


 少し離れたところで、アレンがこちらを見ていた。


「何ですか」


 私が聞くと、彼は肩をすくめた。


「いや。お前、任せるの少し上手くなったなと思って」


 私は少しだけ驚いた。


「そうでしょうか」


「前なら、全部自分でやろうとしてた」


「……学習中です」


「いいんじゃないか」


 アレンはそう言って、前を歩いていった。


 いいんじゃないか。


 その一言だけで、少し胸が軽くなった。


 夜。


 寮の部屋で、私は記録を書いた。


 ――図書室にて『北境戦役における非正規武装集団の記録』を発見。アレンが上段棚より発見。

 ――黒角隊の記述あり。北境戦役後期に確認された魔族側非正規部隊、または強硬派集団の通称。魔王軍本隊との関係は不明。

 ――黒い火、夜間行動、村落焼討ちの証言と結びつく。ただし他部隊との混同可能性あり。

 ――一部資料では、魔王軍中央の停戦方針に従わず報復行動を続けたとされる。実態不明。

 ――ミナ、黒角隊についてもっと知りたいと発言。ただし本日は調査中断。休憩を受け入れる。

 ――アレン、単純でないことと加害の事実は別だと指摘。重要。

 ――クロード、王国側資料の追加閲覧を検討。任せることができた。

 ――ティナ、重い情報後に薄いお茶を用意。場の負荷調整能力あり。

 ――ポルカ、資料の書き写しを担当。恐怖による記録精度が高い。


 最後に一行。


 ――黒角隊という名前が、人間側資料にも存在した。


 その下に、もう一行。


 ――点は増えている。だが、まだ真相ではない。


 私は羽ペンを置いた。


 窓の外は暗い。


 返事はまだ来ない。


 ノノが何を調べているのか。


 父上が何を知っているのか。


 それはまだ分からない。


 だが、今日、私たちは人間側の資料から一つの名前を得た。


 黒角隊。


 その名前は、ミナにとって傷の輪郭になり、私にとっては魔族側の過去へ続く扉になった。


 扉はまだ開いていない。


 急いで開けてはいけない。


 けれど、目の前にあることは、もう見なかったことにはできない。


 私は胸元のお守りに触れた。


 父上。


 ノノ。


 私たちは少しずつ近づいています。


 答えにではなく。


 たぶん、傷の中心に。


 だからこそ、急がず、でも逃げずに進みます。

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