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#18 無痛世界への扉

《04:24:15 旧薬剤庫 電子扉内側》


 赤いロックランプが点灯するたび、遠くで四分タイマーの電子音が応える。白石あかりは薬液の甘ったるい匂いにむせながら、閉ざされた非常扉へ拳を打ちつけた。しかし鋼板は微動だにしない。


 「白石さん、こっちへ」

 玲奈の声が闇の奥で柔らかく響く。非常灯が残す三角形の光に、彼女の白衣が淡く浮かぶ。手には先刻の注射器。そして新たに取り出した透明チューブ付きの点滴バッグ。ラベルには《フェンタニル+ケタミン 高濃度調合法》と走り書き。


 「痛みを全部断ち切れば、人は恐怖を忘れられる。四分後、世界は静かになるわ」

 玲奈はそう言って、点滴ラインのクレンメを開き、あかりに差し向けた。


 あかりは頭を横に振った。「それは救済じゃない。痛みも恐怖も、生きてる証拠だよ!」

 「証拠だからこそ、私が消してあげる」

 玲奈の瞳は泣き腫らした後のように赤いのに、声は穏やかだった。


《04:25 薬剤庫中央》


 あかりは安藤拓真を椅子ごと押しながら玲奈と対峙した。安藤の意識は散発的に浮上し、つぶれた声で「助けて」と漏れる。

 「私に点滴するなら、まず拓真くんを解放して」

 玲奈は数秒だけ黙し、チューブを回収して安藤の腕へ向けた。「では彼を――」

 「ああっ、待って!」


 あかりは自分の袖をまくり、点滴ルートを取りやすい静脈を示した。「私が受ける。だから彼は放して」

 玲奈の片眉がかすかに揺れた。「本当?」

 「嘘じゃない。あなたが信じられるのは私だけでしょ?」


 玲奈はゆっくり頷き、安藤の拘束具を外す。あかりの胸が脈打つ。彼女自身は考えてもいなかった賭けだった。


《04:26 薬剤ポンプ前》


 点滴スタンドにバッグが吊られ、器械の画面が点灯する。玲奈は滴下速度を**240ml/h**に設定した。まるで四分へのこだわりを数字に埋め込むように。

 「これで一分少しで効果が出るわ」

 「あの事故の患者さんも、こんなふうに?」

 あかりは穿刺針が肌を貫く痛みをこらえ、問いを投げた。

 玲奈の顔が翳る。「……彼女は痛がっていた。私は止めたかっただけ」


《04:27 ダクト内・御堂側》


 換気ファンを外した御堂は狭い銀色の通路を這い、最後の格子を蹴破った。指揮官無線へ短く告げる。「あと三十秒で扉横へ出る」


《04:27:30 薬剤庫》


 あかりの視界がかすみ、鼓動が遠ざかる。フェンタニルの鎮痛とケタミンの解離が渦を巻く。床が柔らかい雲になる感覚。

 それでも耳だけは玲奈の独白を拾っていた。「痛くないでしょう? 無痛は優しい。私も、あなたも、もう責められない」


 あかりは震える手で造花の残骸を握る。鋭利な針金が掌を裂き、鮮血の痛みが意識を引き戻した。「――まだ痛いよ。私は生きてるから」

 針金を点滴チューブへ絡め、キンクさせる。流量がゼロになった数値を見て、玲奈が息を呑む。

 「どうして……」

 「痛みは、救いを測る物差しじゃない。選ばれる人を決めるルーレットでもない。生きてる人が自分で感じるものだよ」


《04:28 扉傍》


 御堂が非常扉のサイドパネルを内側から開け、クランプで磁気ロックを短絡させた。ワーニングアラームと同時に扉が滑動し、保安員が雪崩れ込む。

 玲奈はハッと振り返り、残った注射器を自らの頸静脈へ向けた。「来ないで。これを打てば終わる」

 あかりはフラつきながら手を伸ばす。「終わらせる? あなたが痛みを知らないまま?」

 「私は充分痛んだわ!」玲奈が叫んだ。


《04:29 カウントダウン残り60sec》


 院内放送が自動で鳴る。《次の四分帳尻まで残り——60秒》

 扉の外で技師が「配電室停止準備!」と叫ぶ。停電か玲奈か、最後の引き金が重なり合う。


 あかりは玲奈の前へ身を投げ、注射針を自分の手の甲で受けた。刺痛が走り、血が混ざり込む。

 「痛いよ、玲奈さん。ね? これで終われる?」


 涙と血と薬液が混ざり、冷たい床へ滴った。

 玲奈の肩が震え、注射器が指から滑り落ちる。音がやけに遠く、四分タイマーのブザーに掻き消された。


《04:30》


 全館停電が実行され、闇が一拍の静寂をもたらす。次の心電波形が現れる前に、朝の光が高窓から差し込み始めていた。

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