#01 ロッカーの白い花
全24話・毎日20:10更新(予定)
中核市民病院の朝は、救急車のサイレンではじまる。――はずだった。
「白石さん、早番交代でお願い!」
更衣室のドアを押し開けた瞬間、同僚ナースの声が飛んできた。外来担当の新人看護師、白石あかりはバインダーを抱えたまま慌てて敬礼する。
「りょ、了解です! えっと……名札が……」
胸ポケットをあさる指が空振りし、いつものように名札は床へカラン。周囲から忍び笑いが起きた。
拾い上げたとき、ロッカーの取手に何か白い紙が挟まっているのに気づく。メモ帳を半分に折った簡素な紙片。そこにはボールペンの線で、そっと一輪の花が描かれていた。茎も葉もなく、花弁だけをひらりと開いた“白い花”。
「……誰のイタズラ?」
裏も表も、文字は一切なし。送り主不明。だが紙からほのかに香るのは消毒用エタノール――病院の匂いだ。
遅刻しそうなあかりは、疑問を胸に押し込みロッカーを閉めた。自分の脇が甘いのは自覚している。メモを握りしめたままナースステーションへ駆けだした。
*
「森本トシエさん、血圧一二八の七六、脈拍八二。今日は調子良さそうですね」
外来ブース三番。あかりはにこりと笑い、点滴スタンドを確認した。ベッドの老婦人は元気が有り余っているらしく、シーツの上で足をぱたぱた揺らす。
「白石さん、お願いがあるの」
そう言うや、トシエは胸元から写真入りの名刺を取り出した。スーツ姿の青年が爽やかに笑う。
「ウチの孫! 医者よ! 結婚して!」
「け、結婚!? わ、私まだ研修一年目で!」
バインダーを落とす――二回目。周囲の患者がどっと笑った。あかりは真っ赤になりながら名刺を返す。
笑い声の後ろで、柔らかな足音がした。救命センター夜勤明けの看護師、黒瀬玲奈がカーテンの隙間から顔を覗かせる。制服の胸ポケットには懐中電灯が差し込まれ、いつものようにきっちりボタンが留められていた。
「森本さん、お加減はどうですか?」
玲奈の声は落ち着いている。それでいて温度がない。トシエは照れくさそうに笑い、「この子ったらモテモテでねえ」と孫自慢を続けた。玲奈の紫の瞳があかりと名刺を一度ずつなぞり、微かに細められる。
「白石さんには先約がありますので」
玲奈は冗談めいた口調で言った――のだが、その声の奥でひやりとした何かが光った気がした。あかりは笑って誤魔化すだけで精一杯だった。
*
昼休憩。更衣室に戻ったあかりは、白花のメモを取り出す。裏に走り書きが増えている。
《あなたの手は、まだ震えています》
いつ、誰が? 思わず辺りを見回した。
ドアの向こう、ガラス越しの廊下に白衣姿が立っている――黒瀬玲奈。人影に気づくと、玲奈は小さく会釈し、そのまま無表情で去っていった。
震えているのは手ではなく、胸の奥だ。
あかりは知らなかった。小さな花が、白衣の日々をどす黒く染め上げていく序章でしかないことを。