第八話 海
どこまでも青い水面が続いている。果てしなく波は打ち寄せ、尽きることは無い。
「これが、海……」
港町へと無事にたどり着いた俺たちだが、イリーナのたっての希望もあり町に入る前に海岸へと足を延ばした。
水場は今まで小川と池くらいしか見たことも無いと言うから、この景色は格別だろう。かく言う俺も初めて海を見たときは大口が開けっ放しになって団長に笑われたものだが。
「指を入れてちょっと舐めてみな」
俺がそういうとイリーナはおそるおそる波打ち際に近づき、その指を海につける。
そして眺めたり臭いを嗅いだりした後に、まるで苦い薬でも飲むように目をつぶって指を舐める。
「わわわ、しょっぱいです!」
「はははっ」
目を見開いて予想通りの反応を示す彼女に思わず笑いがこぼれる。
いつもは少し大人びて見えるが、こうしていると歳相応と言ったところだ。
「本当に凄いですね、空の先まで海になっています」
「俺も行った事は無いが、このまま船に乗って一ヶ月近くも進むと別の人が住む場所があるらしい」
「世の中って広いんですね……」
「そうだなぁ」
俺もイリーナも農村にずっといたら世界の広さなんて知らなかっただろう。無論そのまま村に居ることが出来ればその方が幸せであったのかも知れないが。
「それじゃそろそろ一旦宿を探そう、折角町に着たのに野宿は勘弁して欲しいからな」
「あ、あい。わがまま言って済みませんでした」
「いや、こんなのはわがままの内には入らないよ」
かぶりを振ると俺たちは海岸を後にした。イリーナはまだ海に未練があるようだったが。
夕方を前にした港町は様々な人でごった返していた。
使いに走り回る商家の丁稚、荷馬車を引く行商人、赤銅色の肌を誇らしげに晒して歩く船乗り、近隣の農民、夕食の買い物の奥方、傭兵や警吏の姿もある、そしてグースリ――弦楽器の一種で箱型の胴を膝の上に乗せ、両手を使って演奏するもの、を弾く吟遊詩人、などなど。
町の大きさではペルミに及ばないが、人の密度と熱気では断然ここの方が上だろう。
「いろいろな人がいますね」
「ペルミみたいに入るのに金がかからないから周辺の村とかからもかなり人が来ているみたいだしな、それに何より港だけあって船乗りが多い」
「あの日焼けした人達でしょうか?」
イリーナの視線の先を追うと、既に出来上がった船乗りの一団が居た。日に焼けつくした見た目といい、陸に上がると昼夜問わず飲むという行動といいまさしく船乗りという連中だ。
「そうだ、大体はあんな感じだな。船長や士官と呼ばれる上の連中は面子があるからあんな風に飲んだくれたりはしないが」
「船かぁ」
「このくらいの港だとかなり大きな船も泊まってるかもな」
「どのくらいでしょうか?」
「そうだな、大きいのだと農村にある家が10軒や20軒が丸ごと入るようなのもあるな」
「それは……すごいです」
頭の中で想像しているのだろう、俺の言葉を聴くとすこし夢見るような表情になる。
「っと、それじゃあそこの宿にしてみるか。名前が大三角帆亭とは船乗りも定宿にしてるかもしれんし」
いかにも港町といった感じの名前の宿を指差す。店の前では吟遊詩人がグースリを弾いて路銀を稼いでいる。
「はい、――あっ」
そのとき強い海風が吹きつけ、ローブを下ろしていたイリーナのスカーフを飛ばしたが、俺は素早く捕らえると彼女の頭に巻きなおす。
「大丈夫か?」
「は、はい。ありがとうございます」
「それじゃ改めて宿に行こう」
「わかりました」
今度はしっかりとローブを下ろしたイリーナが俺に続く。
その姿をじっと見つめる目があった事には気が付かずに。
「それじゃ俺は日が落ちる前に保存食でも買ってくるが、イリーナはどうする?」
「私は港で船を見てみたいのですが良いでしょうか?」
大三角帆亭の二階にとった部屋の窓からちらりと傾きかけた太陽の様子を見る。
「日が沈み始めるまでには戻ってくるんだぞ」
「はい!」
少し心配ではあるが、まさか箱に入れてしまっておく訳にも行かないだろう。
「それじゃ遅くなるなよ」
「大丈夫わかってます」
宿の前で俺は商店へ、イリーナは港へと別れる。少しして振り返ってみるが、心配しすぎな自分に苦笑すると改めて店へと向かう。
それを待ち構えていたかのように物陰から男が滲むように姿を現し、イリーナの後を追い始めた。
すると、それまで道の端で座り込んでグースリを弾いていた小柄な吟遊詩人が演奏を止める。そしてイリーナの後を追う男の姿をしばらく見つめた後に腰を上げた。
「今戻ったぞ」
そう言いながら部屋の扉を開けるがイリーナはまだのようだ。まぁあれほど船に興味津々だったのだから仕方ないだろう。
自分が海を見たのは傭兵団に入って1年ほどした時だっただろうか、今日のイリーナなんかよりよっぽどはしゃいでいたのを思いだす。
そんな風にしばらくの間、昔を懐かしんだり、買ってきたものを背嚢に詰めたりしていたが彼女が帰ってくる様子はない。心配しすぎだとは思うが、少し様子を見に行こうかと腰に剣を吊るして宿を出ると港へと向けて歩き出す。
「ちょっとお兄さん」
宿を出て少ししたところで背後から声をかけられる。振り返ると顔を布で覆い、目だけをだしたイリーナと同じくらいの、まだ子供といっていい背恰好の、声からして恐らく女性が立っていた。
風体からはそうは思えないがグースリを抱えているのを見ると吟遊詩人だろうか、もしかしたら宿の前で弾いていた奴かもしれない。
「なんか用かい?」
まさか吟遊詩人がこんなところで客引きも無いだろう。夜の副業のお誘いにしてももうちょい場所を選びそうなものだ。
「お連れさんの事なんだけど」
その言葉を聞いた時に思わず腰のものに手が伸びかける。
「おっと、まってよ。僕は連れのお姉さんの事を教えようと思っただけだよ」
「それなら早くいいな」
「怖いねぇ、でもまぁ早くしないと危ないのは確かだし。ちょっと耳を貸してよ」
不信感がぬぐい切れないが、それでもイリーナの安全に関わることなら仕方ない。俺は腰をかがめると耳を奴の口元に向ける。
「海賊っぽいのに彼女が攫われるのを見たよ」
ざわりと毛が逆立つのが自分でもわかった。直ぐにでも無意味に走り出したくなる気持ちを抑え、ひとつ息を吐く。
「どこに連れて行かれたか知っているか?」
「うん、なんとなく妙な男が彼女の後をつけてたのに気が付いてね。ごめんね、これは危ないかなと思った時には相手がもう一杯居てもう手が出せなかった」
相手はすまなそうに言うが、こいつが後を追ってくれなければどうなっていたか判らない。
「すまない、疑って悪かった。イリーナ――、攫われた少女がどこに連れて行かれた教えてくれないか?」
まさか俺相手に嘘をついておびき出す理由なんて思いつかない、ここは信用する他に無いだろう。
「いいよ、案内する」
「そうか、すまんが頼む」
親切な相手に案内まで頼むのは気が引けたが、ここはイリーナの安全と天秤にかけて目を瞑ることにした。
「まかせて、こっちだよ」
俺は楽器を抱えたまま意外なほど軽やかに走り出す詩人の後を追った。
「魔族の嬢ちゃん、ちょっとまちな」
港の方へ歩いている途中で、少し細く人通りの無い道に入ったときに後ろから声がかけられました。
「え?」
言葉の内容に慌て後ろを向くと、あまり人相の良くない男の人が立っていました。肌のやけ具合からすると船乗りさんなのかも知れないとその時は思いました。
と、その直後に口を手で押さえられて、ナイフを見せ付けられました。
「んー」
「おとなしくしてな、騒いだり逃げようとしたらこいつでブスリだぜ」
なんとか叫ぼうとしたり逃げようとしましたが、目に刺さるんじゃないかと思う距離でナイフを見せられたら膝から力が抜けてしまいました。
「よし、そうやっていい子にしてりゃ痛い目に会わないですむぜ、おい」
男の人が声をかけるとどこに居たのか、周りから同じような格好の別の男の人が3人現れて私を囲むようにしました。
そしてあっという間に私に猿轡をして後ろ手に縛ると。
「そら、前の奴について歩いていきな」
もう一度ナイフで脅すようにして言いました。
「ここでおとなしくしてろ」
どこかの倉庫のような場所に入るとそう言われて、更に足も縛られて地面に転がされました。周りを見ると私のように縛られた女の人が他に3人居ました。
「まぁこんなもんか」
「そうだな、あんまり欲張りすぎてもいけねぇ」
「ちがいない」
「最後に魔族の女が見つかったのは拾い物だったしな、こんなのをわざわざ高く買うって奴がいるんだから世の中わからんものだ」
私を連れてきた4人の他に倉庫にいた1人を合わせて、5人の男の人たちはそんな事を言いながら笑いあっていました。
そのときになって麻痺していた頭がやっと動き出しました。そうです、私は攫われてしまったのです。今になって手足が震えてきました。
怖い、ブラトさん助けて……
「ここだよ」
吟遊詩人に連れられて到着したのは港の外れにある人気の無い倉庫だった。
「ありがとう、助かったよ。お前さんはもう帰ってくれ。あ、できれば警邏隊に連絡してくれるとありがたいが」
俺ははやる気持ちを抑えて礼を言う、そしてもしもの事を考えて警邏隊に連絡してくれるようにお願いする。出来れば警邏隊なんぞのかかわりたくは無いが最悪の場合は仕方ない。しかし吟遊詩人は
「お姉さんを助けるんでしょ?僕も手を貸すよ」
そんな事を言い出した。何を言い出すのかと思ったときに、倉庫の中から男の声が聞こえてきた。
「それじゃ日が落ちたらさっさと女どもを船に積んでここからおさらばだ」
とっさに空を見ると、既に日が落ちかけている。今から警邏隊を呼んで来るのを待っていたら手遅れになる可能性が高い。
「クソッ」
飛び出そうとした俺を吟遊詩人が腕をつかんで止める。
「1人じゃ無理だよ、さっき見たときは中に5人も居たし」
「しかし今から警邏隊を呼んでも……」
「だから僕も手を貸すっていったじゃない。あ、まだこの格好だったか、ちょっと待って」
そう言って頭と顔に巻いた布を取り払うと、中からは白皙、緑眼、銀髪、そして笹穂状の耳が現れた。そう彼女はエルフだったのだ。
笹穂状の耳が特徴のエルフは長命で魔力に優れる種族で、人間からは森の賢者と呼ばれて畏怖の対象となっている。同じく魔力に優れる魔族が排斥されているのとは対照的だ。
「おまえは……」
「うん、僕はエルフなんだ。人間の町で目立ちたくないからこんなのを巻いてたのを忘れてたよ」
「すまんな、勝手に子供だと思ってた」
「それは仕方ないよ、でもこれなら信頼してくれるでしょ?」
「ああ、エルフは魔法が得手と聞く、その力を是非貸してほしい」
俺は頭を下げて助力を請う。
「それじゃ作戦はこうだな、まずエリシュカ――エルフの名前だ、が沈黙の魔法を倉庫全体にかける、そして俺が突入して海賊を倒す」
作戦といえるほど複雑なものではないが、決まった手順を確認する。
攻撃魔法はイリーナ達に被害が及ぶかも知れず、眠りの魔法は基本的に1人に対してかけるものという事で、他にいくつか使える魔法を聞いた上で建物全体を覆うことが出来る沈黙の魔法を使ってもらうことになった。
5感のうちのひとつでも突然失えば人間はまともに動けなくなる。こちらも聴覚を失うという条件は相手と同じだが、事前に心構えが出来ていれば相当に違う。
海賊どもが混乱から立ち直るまでが勝負だ。
「それじゃ早速魔法をかけるよ、そうしたらもう僕の声も届かないからね」
「わかってる、頼む」
エリシュカは頷くと、おそらくはエルフ語で魔法の詠唱を始める。聞いたことも無い言葉だが美しい響きだ。
そして詠唱が終ったその瞬間に、世界から音が消えた。
倉庫の扉を開けて滑り込む、手には既に抜き放った剣がある。
目を先に向けると5人の海賊に、4人の縛られた女性が居る。海賊達は突然声が出せなくなったと思って混乱しているようだ。複数の敵に捕らわれのイリーナという状況をみて、彼女との出会いを思い出す。
まず、扉の傍に居た海賊を難なく切り倒す。敵襲であることを理解した残り4人が一斉に武器を抜く。ナイフが2人にカットラスが2人、脅威度の高いカットラス持ちに狙いをつける。
音の無い世界はどこかふわふわしているようで微妙なバランスが取りにくい、しかし覚悟していた分だけ敵よりは優位なはずだ。
声の無い雄叫びを上げながら駆け抜けざまに掬い上げるようにして2人目を逆袈裟に切り上げる。血しぶきを上げて倒れる海賊を無視して次の敵に目標を定める。
3人目はなんとか反撃してきたが、まだ他の海賊と連携を取るところまでは至っていない。切りかかってきたカットラスを剣で打ち払い、更に手首を返して腕を切り飛ばす。武器を握ったままの腕が飛んでいく。そして呆然とする相手の首筋に止めを刺す。
残りはナイフ持ちが2人、そのうち1人がナイフを突き出すようにして突っ込んでくる。
その単純な攻撃をかわしざまに背中に一撃を入れる。
残り1人、しかしどこにも居ない、今の攻防の隙に見失ってしまった!
ふと背後に気配を感じる、振り向くと逆手にナイフを構えた最後の海賊が飛び掛ってきていた。
慌てて剣で防ごうとするが間に合いそうに無い、一撃をもらう覚悟をして体を硬くする。が、しかし海賊はその手を振り下ろすことなく地面に落ちる。その背中からは2本の投げナイフの柄が生えていた。
扉のほうを見ると、得意げな様子のエリシュカが笑っている。
そして彼女が複雑な形に手を振ると音が戻ってきた。
「イリーナ無事か?」
「は、はい……」
猿轡を取り払い、体を拘束している縄を切り捨てる。見たところ乱暴された様子も無くほっとする。残りの女性はエリシュカが介抱してくれているようだ。
「本当に良かった」
俺は思わず彼女を抱きしめる。
「ありがとうございます。それとごめんなさい」
「何を謝る必要があるんだ」
「私が船を見たいなんて言ったから……、またブラトさんに迷惑をかけてしまいました」
俺は抱いていた体を離すと、少し強めに彼女の頭に拳を落とす。
「つまらんことを言うな。むしろちゃんと守れなかった俺が護衛失格だよ」
「そんなことありません!ブラトさんは助けに来てくれました!」
「それじゃあお互い様ってことでこれ以上の謝罪はなしだ、いいな?」
俺が強く言うと、イリーナは少し申し訳なさそうな顔をしたままではあるが頷く。
「こっちも全員無事だったよ、でも1人は昨日からつかまっててちょっと弱ってるみたいだけど」
エリシュカが様子を見ていた女性たちも無事だったようだ。
「それでこれからどうする?僕はこのことを警邏隊には伝えたほうがいいと思うけど」
「それはそうだが……」
それはその通りなのだが、イリーナの事を詮索されるのは避けたい。
「警邏隊は僕だけで行くよ、お兄さん達は居なかったことにするって事でどう?手柄を僕が独り占めさ」
俺の考えを察してくれたのだろう、イリーナが魔族であることを恐らく知っているエリシュカがおどけたように提案してくれる。
「すまん、何から何まで助かる。俺たちは大三角帆亭って宿に泊まってるから事が終ったら訪ねてきてくれ、必ずだぞ!」
「本当にありがとうございました」
「心配しないでもお兄さん達とはもっとお話してみたいから必ず行くよ」
そういって笑うエリシュカと別れ、俺たちは宿へと戻っていった。
大切なものを失わずに済んだ日の事。
思ったより短くなってしまった、描写をはしょりすぎかなぁ