#01 セーブザキャット
ザー……
雨の夜、自動車が行き交う幹線道路。
濡れたアスファルトの道を、疾走する一台の自転車。派手なオレンジ色の蛍光色の雨具をまとった男が、背中を丸め懸命にペダルをこいでいる。
後ろの荷台には、見慣れた緑色のボックス。その側面に大きく白抜きの「U」のロゴ、料理デリバリーの配達用バッグだ。
雨脚は強く、ときおり追い越していく車が水たまりを踏み、派手なしぶきを跳ね上げる。そのたびに冷たい水が脚にかかるが、男は気にも留めず、前だけを見て走り続けていた。
気の抜けない、滑る道。
(慎重に、でもなるべく早く! それがデリバリー配達員の心得ってもんだよな)
自転車の男──イサワ・アキラは、心の中で呟き、ペダルをこぎ続ける。
26歳で会社を辞め、デリバリーの仕事を始めて数か月。その過酷さに、そして孤独にも、もうすっかり慣れた。
その代わりに得たもの、なんとか生活できるほどの給料、そして……「しがらみ」からの解放。プロジェクトの進捗管理、日報、空気を読む人間関係、今はもう考える必要はない。
注文された商品を受け取り、自転車をこぎ、届ける。ただそれだけ。気遣いも交渉も必要ない。
(……俺には、この生き方が向いてるんだ)
そう自分に言い聞かせるように、アキラはペダルを強く踏み込んだ。
その時だった。
──!
視界の端、歩道のほうから、白いものが飛び出してきた。反射的に視線を向ける。
(白猫!)
一匹の白い猫が車道を横切ろうと飛び出してきたのだ。
「やばっ!」
声が漏れた瞬間には、もう遅い。ブレーキをかけても間に合わない距離だった。アキラは、とっさにハンドルを切った。無茶な操作、頭のどこかでそう思った。それでも、体が勝手に動いていた。
(躱した!)
確かに猫は躱した、かろうじて。だが、次の瞬間。タイヤが滑り、自転車はバランスを失う。
ガシャーン
体ごと路面に叩きつけられる。そのまま、濡れたアスファルトの上をなすすべもなく自転車と一緒に滑っていく。
と、目の端が、自分と並行するように地面を滑るスマホを捉えた。画面に表示されたマップ、そこにピン止めされた届け先のマーク。
(あそこに、俺は届けなきゃいけないんだ!)
転倒して体を動かせない状況でもそんなことが頭をよぎる……だが次の瞬間。
(眩しい!)
滑り続ける体は、いつのまにか反対車線へ。視界の先に飛び込んできた白い光、大型トラックのヘッドライト。どんどん近づく白光、やがて視界いっぱいに広がり、そのすぐ後……
全身に衝撃。
一瞬にして世界は暗転。真っ黒になり、視界も、音も、すべてが遠のいていく。
アキラの意識はそこで途切れた。
* * *
「んっ……?」
意識が、ゆっくりと浮上してきた。
アキラは目を開け、ゆっくり上体を起こした。次の瞬間、あわてて自分の体を確認する。
(……あれ?)
痛みがない。頭も、腕も、脚も、どこにも異常が感じられなかった。確かさっき、雨の車道に投げ出され、トラックに轢かれたはず……
「……?」
立ち上がり、周囲を見回す。見覚えのない場所だった。四方を覆うのは、濃い緑。草木が密集し、視界の先まで伸びている。鳥の鳴き声が頭上から響き、湿った空気が肌にまとわりついた。
「ジャングル?」
そんな言葉が、真っ先に浮かんだ。
キョロキョロ見渡すも、乗っていた自転車は、どこにもない。道路も、街灯も、車の音もない。派手な雨具に身を包んだアキラが、広い緑の中にぽつんと一人、立ち尽くしていた。
さらに周囲をよく見ると、違和感が浮かび上がってくる。草が、でかい。木も、やたらと太い。
そして、暑い。湿気が肌にまとわりつき、息をするだけで肺の奥まで蒸れるような感覚。額を伝う汗を、手の甲で拭った。
「……ここは、どこだ?」
口に出してみても、答えは返ってこない。俺は、どうなった。
(死んだのか…?)
目の前に広がる異様な景色、ここは天国? または地獄。それとも……別の可能性が、頭をよぎる。
(……異世界転生?)
「冗談だろ」
声に出して否定する。そんな中二病な展開、あるわけない。
(俺にそんな趣味はないぞ……)
キィィィィッ
遠くから、甲高い鳴き声が聞こえた。鳥とも、獣とも判断がつかない、不快な響き。背筋が、ひやりとする。
(ここは、安全なんだろうか?)
急に不安を感じたアキラは周囲を警戒しながら、少しでも開けた、逃げやすそうな場所を求めて歩き出した。
しばらく進むと、太く伸びた蔓が視界に入る。地面から天へと伸びるそれは、まるで童話に出てくる“豆の木”のようだった。その蔓に、緑がかった虫が群がっている。それも大量に。
(……アブラムシ?)
見た目は、確かにそれに近い。だが、そのサイズが……。と、一匹が、ぽとりと目の前に落ちてくる。反射的に、手で受け止めてしまった。
「……でかっ!」
十センチほどはあるだろうか。手のひらを覆うほどの大きさだ。虫は足をばたつかせていたが、やがて静かになった。次の瞬間、ぞわりと嫌な感覚が走る。
(……この感じ……)
吸われている! 血なのか、体液なのかは分からない。だが、自分の体から何かが奪われている感覚だけは、はっきりと分かった。
「うわっ!」
反射的に手を振り、虫を地面に叩き落とす。地面に激突したそれは、ぐしゃり、と音をだし潰れると、ドロドロとした体液が、周囲に飛び散った。
「はあ……はあ……」
荒い息をつきながら、後ずさる。
(なんだ、この虫……気持ち悪すぎる)
がさっ。
背後からの突然の音に、体が反応する。草影から、何かが顔を出した。
(……カマキリ?)
姿を見せたのは二体のカマキリ。だが、すぐに違和感に気づく。
(でかい!)
小首をかしげこちらに視線を送るその顔は、アキラの頭を超えていた。威嚇するかのように構えた鎌状の前脚、その上から覗く頭についた大きな複眼、中の黒い点が不気味に揺れていた。
考えるよりも先に、体が動き、走り出す。すぐに背後で、がさがさと茂みをかき分ける音が追いかけてきた。
密集した茎の間を縫うように走り、倒れた大木の下をくぐり抜ける。それでも、足音は離れない。
やがて、視界の先に石造りの建物が見えた。崩れかけた遺跡のような、古い建造物。
(……あそこなら、隠れられるか)
建物目指して足を早める。背後から、シャーッと威嚇するような音が響いた。
入口付近が大きく崩れた建物へ、転がるように飛び込む。中は、石のブロックを積み上げたような複層構造。だが、内部もあちこち崩れている。
一階は吹き抜けで、身を隠せそうな場所は見当たらない。奥に階段があったが、上へと続く石段は途中で途切れ、崩落していた。
「まじかよ…」
建物の中央で、アキラは立ち止まる。
(……これじゃ、むしろ袋の鼠……)
その時、建物の外から大きな影が差した。背後に、はっきりとした気配を感じ、振り返る。崩れた入口を背に、仁王立ちするように立つ、巨大なカマキリ。鎌を構え、じっとこちらを見下ろしていた。さらにもう一匹もすぐ後ろに控えている。
「くっ」
喉の奥で、かすれた声が漏れる。
逃げ場はない。アキラは、足元に転がっていた石を拾い上げた。巨大カマキリが、一歩、前に踏み込む。石畳が、ぎしりと鳴った。アキラが、全力で石を投げつけるとカマキリの鎌に当たった。
カツン、という乾いた音。ただ、それだけだった。傷一つ、ついていない。それどころか、カマキリの複眼が、ぎらりと光る。空気が、明らかに変わった。
(……やばい。詰んだ)
大鎌を振り上げると、身を沈め、今にも飛び掛からんとする態勢……
「エクスプローション!」
突然、鋭い女の声が、頭上から響いた。アキラが視界の端で捉えたのは、崩れかけた上階の床に立つ二人の若い女性。何かの制服なのか、そろいの青い衣装。一人は栗色の長髪、もう一人は、青みがかったショートヘア。
声を発したのは、長髪の女性。鋭い視線をカマキリに向け剣を構えている。そして驚くことに、彼女の剣は、燃えていた。めらめらとした炎が刀身を包んでいるのだ。
「はあっ!」
気合を発した女性が、剣を振り下ろす。すると、まるで剣気が具現化したかのように、炎が斬撃となって空に放たれた。その炎塊が、一直線に飛来し、巨大カマキリに襲い掛かった。




