第89話 ヴィオラ・ハーランドは、善い人でいたかった
ヴィオラ・ハーランドは、約束の時刻より少し早く王妃基金の小応接室へ現れた。
淡い藤色のドレスに、白い手袋。
胸元には小さな真珠の飾り。
髪は柔らかく結い上げられ、顔立ちは儚げで、いかにも社交紙が好みそうな令嬢だった。
だが、入室した瞬間、セレスティアが最初に見たのは美しさではなかった。
彼女の指先が、手袋越しにも分かるほど強く握られていたこと。
緊張している。
それも、責められることを恐れている緊張ではない。
自分の善意が疑われることを、ひどく怖がっている人の緊張だった。
「ヴィオラ・ハーランドでございます」
彼女は深く礼をした。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます。王妃基金統括補佐、セレスティア・エルフォードです」
セレスティアは立ち上がり、礼を返した。
室内にはミリアとオルド法務官が同席している。
机の端には、目立たないように畳まれた予備のハンカチが二枚。
ミリアの配慮だった。
セレスティアはそれを見ないふりをした。
ヴィオラは席に着くと、すぐに口を開いた。
「あの、まず申し上げたいのです。私は本当に、救護院を助けたかっただけなのです」
予想より早かった。
用意していた挨拶より先に、彼女の言葉がこぼれた。
セレスティアは、遮らずに頷く。
「はい。支援の意思については、王妃基金も確認しております」
「では、なぜ……なぜ、こんなに大事になってしまったのでしょう」
ヴィオラの声が震えた。
「燃料が足りないと聞きました。寝具も洗えないと。寒い夜に、幼い子どもや病の方が震えていると聞いて……私、黙っていられなくて」
「支援内容自体は、救護院に必要なものでした」
「でしたら」
「問題は、支援内容ではありません」
セレスティアは静かに言った。
「公表条件です」
ヴィオラの睫毛が揺れた。
「……私は、ただ、多くの方に知っていただきたかったのです」
「救護院の現状を、ですか」
「はい。だって、知らなければ助けられません。私も、代理人から聞くまで知りませんでした。王都の中に、そんな場所があるなんて」
彼女は胸元の真珠にそっと触れた。
「知った時、とても恥ずかしくなりました。私は温かい部屋で、香りのよいお茶を飲んで、刺繍の出来を気にしていたのに。同じ王都で、夜に燃料が足りない方々がいるなんて」
その言葉に嘘はなかった。
少なくとも、セレスティアにはそう見えた。
ヴィオラは、本当に胸を痛めたのだ。
そして、助けたいと思った。
そこまでは、間違っていない。
「ヴィオラ様」
「はい」
「救護院を助けたいと思われたこと自体を、王妃基金は否定していません」
ヴィオラの目に、少しだけ安堵が浮かぶ。
「では……」
「ですが、救護院にいる方々の事情を社交紙に載せることは、別の問題です」
安堵が、また消えた。
「名前は出さないつもりでした。顔も。仮名にして、場所も少しぼかして……」
「それでも、特定される可能性があります」
「でも、読者には分かりませんわ」
「読者全員には分からないかもしれません」
セレスティアは、言葉を選んだ。
「ですが、本人を知る誰かが読めば、年齢、家族構成、過去の事情、救護院へ来た時期などから気づくことがあります」
ヴィオラは、すぐには答えなかった。
その沈黙は、反論を探す沈黙ではない。
初めて、その可能性を考えた人の沈黙だった。
「……そんな」
彼女は小さく言った。
「私は、そこまで考えていませんでした」
「だからこそ、確認手順が必要なのです」
「でも、事情が分からなければ、人は心を動かされません。私だって、ただ『燃料費が不足しています』と聞いただけなら、ここまで強く動けなかったかもしれません」
「それは分かります」
「分かってくださるのですか」
「はい」
セレスティアは頷いた。
「支援の必要性を伝える言葉は必要です。数字だけでは伝わりにくいこともあります」
ヴィオラの表情が、わずかに明るくなる。
だが、セレスティアはそこで止まらなかった。
「けれど、心を動かすために、誰かの隠したい過去を使ってよい理由にはなりません」
ヴィオラは、唇を噛んだ。
部屋の空気が、静かに重くなる。
ミリアの筆だけが、小さく紙を擦っている。
「私、悪いことをしたかったわけではありません」
ヴィオラは、俯いたまま言った。
「分かっています」
「本当に、助けたかったのです」
「はい」
「それに……」
彼女はそこで言葉を切った。
セレスティアは待った。
しばらくして、ヴィオラはぽつりと言う。
「私も、役に立ちたかったのです」
その声は、先ほどまでよりずっと小さかった。
「ハーランド家は、昔ほど社交界で重んじられておりません。父も母も、それを口には出しません。でも、分かります。茶会での席順、招待状の数、誰がこちらを見るか。全部、少しずつ変わっていくのです」
セレスティアは、静かに聞いていた。
「私には、政治の力も、財務の才もありません。けれど、慈善ならできると思いました。困っている方を助けて、誰かが喜んでくれて、それを見た方々が『ヴィオラ様はお優しい』と言ってくださるなら……私にも、家のためにできることがあると思ったのです」
ようやく、本音が出た。
善意。
家の名誉。
自分の役割。
称賛への渇き。
それらが、彼女の中で絡まっている。
セレスティアは、責めなかった。
責めるには、その気持ちはあまりにも人間らしかった。
「善い人だと思われたい気持ちは、悪ではありません」
セレスティアが言うと、ヴィオラは驚いたように顔を上げた。
「悪では、ないのですか」
「はい。誰かに認められたい。自分が役に立ったと知りたい。そう思うこと自体は、誰にでもあります」
ヴィオラの目が潤み始めた。
セレスティアは、そっと続ける。
「問題は、そのために誰の何を差し出すかです」
ヴィオラの表情が固まった。
「誰の……」
「あなたが読者に届けたい感動は、誰の痛みで作られるのですか?」
言葉は、静かに落ちた。
だが、重かった。
ヴィオラは、息を止めたように動かなくなった。
美しい顔から血の気が引いていく。
「私は……」
声がかすれる。
「私は、そんなつもりでは」
「分かっています」
「違うのです。私、救護院の方々を見世物にしたかったわけではありません」
「はい」
「ただ、皆様に知っていただければ、もっと支援が集まると」
「その考えも、完全には間違っていません」
セレスティアは、はっきり言った。
「支援の必要性を伝えることは大切です。ですが、支援対象者の個人的な痛みを、読者の涙や支援者の称賛のために使ってはいけません」
ヴィオラの瞳から、涙がこぼれた。
ミリアが、目立たないようにハンカチを差し出す。
ヴィオラは、それを受け取り、震える声で言った。
「ありがとうございます」
セレスティアは、その涙を見ていた。
美しい涙だった。
社交紙なら、きっとこう書くだろう。
『己の過ちに気づいた白百合の令嬢は、真珠のような涙をこぼした』
だが、ここでは書かない。
この涙を、彼女を飾る材料にはしない。
涙は、今ここにあるものとして受け止めるだけだ。
オルド法務官が、穏やかに口を開いた。
「ヴィオラ様。確認させてください。王都南部救護院への支援について、救護院名および支援対象者の事情を社交紙へ掲載する条件は、ヴィオラ様ご本人の希望ですか。それとも代理人、あるいは社交紙側の提案ですか」
ヴィオラは涙を拭きながら、少し混乱したように答えた。
「最初に提案したのは……たぶん、ブラン様です」
「ライオネル・ブラン氏ですか」
「はい。以前、私の慈善茶会を記事にしてくださった記者です。彼が、救護院の現状を伝えれば支援の輪が広がると。私も、それがよいと思いました」
「ハーランド伯爵家としての判断は?」
「父は、慈善としてよいことなら、と。母は、社交紙に載るなら丁寧に進めるように、と」
やはり、複数の利害が絡んでいる。
ヴィオラだけではない。
だが、彼女はその中心に置かれている。
「代理人のダリオ・メイス氏は?」
「手続きを任せました。寄付金の出し方や、名を伏せる方法を」
「名を伏せる理由は?」
ヴィオラは、少し恥じるように目を伏せた。
「最初から名を出すと、売名だと言われるかもしれないと……。だから、最初は匿名の篤志家として。もし評判がよければ、後からそれとなく分かる形にできるのでは、と」
ミリアの筆が止まりそうになった。
セレスティアは、胸の奥で静かに息を吐いた。
やはり。
匿名は、完全な匿名ではない。
演出としての匿名。
美談の余韻として、後から名が浮かぶ仕組み。
それは、善意というより舞台だった。
「ヴィオラ様」
「はい」
「それは、王妃基金で受け付ける匿名寄付とは異なります」
「……はい」
「匿名寄付とは、外部へ名を公表しない寄付です。ただし、基金内部では寄付者確認と資金出所記録が必要です。後から評判に応じて名を匂わせることは、匿名とは別の扱いになります」
ヴィオラは、青ざめた顔で頷いた。
「私、何も分かっていませんでした」
「だから今日、確認しています」
「怒っておられないのですか」
「怒っていないわけではありません」
ヴィオラがびくりと肩を震わせた。
セレスティアは、静かに続けた。
「救護院の方々が不安を抱いたことには、怒っています。支援対象者の情報が条件として扱われたことにも」
「……はい」
「ですが、あなたを断罪するために呼んだのではありません」
「では、何のために」
「支援を、安全に届く形へ戻すためです」
その言葉に、ヴィオラはゆっくり顔を上げた。
「支援を……戻せるのですか」
「条件を変えれば可能です」
「条件」
「救護院名と支援対象者情報の社交紙掲載を条件から外してください。王妃基金内部記録に基づき、条件なしの寄付として受け付けます」
「でも、それでは誰にも知られません」
「寄付者向け概要報告書で、支援分野と支援後の変化はお伝えします。必要であれば、ハーランド家の名を公表する寄付として扱うことも可能です。ただし、支援対象者の事情を出すことはできません」
ヴィオラは、唇を震わせた。
「名を出してもよいのですか」
「公表範囲を確認した上でなら」
「でも、救護院の方々の事情は」
「出しません」
はっきり言った。
ヴィオラは、しばらく黙った。
「それでは、記事としては地味になります」
「はい」
「読者は泣かないかもしれません」
「はい」
「支援の輪が、思ったほど広がらないかもしれません」
「その可能性はあります」
セレスティアは、安易な慰めをしなかった。
ヴィオラは涙を拭い、か細い声で言った。
「それでも、その方が正しいのですね」
「少なくとも、支援対象者の情報を条件にするよりは」
ヴィオラは、小さく頷いた。
「……私、善い人でいたかったのです」
ぽつりと漏れた言葉だった。
「はい」
「善い人だと、思われたかった」
「はい」
「でも、善い人だと思われるために、誰かの痛みを使おうとしていたのですね」
セレスティアは、すぐには答えなかった。
ここで「そうです」と切り捨てるのは簡単だ。
だが、彼女には今、その言葉を自分で見つけた重さがある。
「その危険がありました」
セレスティアは言った。
「まだ、止められます」
ヴィオラの涙が、また一筋こぼれた。
今度は、さっきより静かな涙だった。
「止めたいです」
「では、王妃基金として手順を用意します」
「はい」
「まず、代理人へ公表条件撤回の意思を伝えてください」
「分かりました」
「次に、社交紙への情報提供を停止してください。すでに渡した情報があるなら、一覧を王妃基金へ提出してください」
「……はい」
「それから、条件なしの寄付として再申請するか、ハーランド家名義の公表寄付として再申請するかを選んでください」
「考える時間をいただけますか」
「もちろんです」
ヴィオラは、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その姿には、まだ揺れがあった。
完全に納得したわけではないだろう。
称賛されたい気持ちが、すぐ消えるはずもない。
けれど、少なくとも彼女は立ち止まった。
それだけで、今日の面談には意味があった。
面談が終わる頃、ヴィオラは扉の前で振り返った。
「あの……セレスティア様」
「はい」
「救護院の方々に、謝罪した方がよいのでしょうか」
ミリアの筆が、静かに止まった。
オルドも顔を上げる。
セレスティアは、すぐには答えなかった。
謝罪。
それもまた、難しい。
謝りたいという気持ちは大切だ。
だが、直接会いに行けば、また救護院へ負担をかけるかもしれない。
自分の罪悪感を、相手に受け止めさせることになるかもしれない。
「今すぐ直接訪問することは、避けてください」
セレスティアは言った。
ヴィオラは少し驚いた顔をした。
「謝罪も、ですか」
「はい。謝罪にも手順が必要です」
「手順……」
「救護院の方々が、あなたの謝罪を受ける準備があるとは限りません。まずは王妃基金を通して、公表条件を撤回する意思と、条件なしで支援したい意思を伝えることから始めてください」
ヴィオラは、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
「あなたが許される物語を急がないでください」
その言葉に、ヴィオラは小さく息を呑んだ。
セレスティアも、自分で言って胸が痛んだ。
だが、必要だった。
「謝罪は、あなたが安心するためだけにあるのではありません。相手の負担にならない形を選ぶ必要があります」
ヴィオラは、ハンカチを握りしめた。
「……はい」
彼女はもう一度深く礼をした。
「本日は、ありがとうございました」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
小応接室には、静かな疲労が残った。
ミリアが、そっと息を吐いた。
「泣かれましたね」
「はい」
「でも、崩れませんでした」
「誰がですか」
「セレスティア様が」
セレスティアは苦笑した。
「危なかったです」
「見えました」
「かなり?」
「かなり」
オルドが、珍しく少しだけ笑った。
「面談としては、よい初回だったと思います」
「初回」
セレスティアはその言葉を拾った。
「これで終わりではありませんね」
「終わりません。代理人、社交紙、伯爵家の判断が残っています」
「はい」
ミリアは記録の最後にこう書いた。
『ヴィオラ・ハーランド。善意あり。承認欲求あり。家名回復意識あり。公表条件の危険を十分理解していなかった。公表条件撤回を検討。謝罪にも手順が必要』
セレスティアは、その記録を見て頷いた。
「そのまま残してください」
「はい」
夕方、カインへ報告すると、彼は黙って最後まで聞いた。
「泣いたか」
「はい」
「予想通りだな」
「言い方が冷たいです」
「事実だ」
「ですが、話は聞いてくださいました」
「ヴィオラ嬢が?」
「はい。少なくとも、公表条件の危険は理解し始めたと思います」
「なら初回としては上出来だ」
セレスティアは少し肩の力を抜いた。
「ありがとうございます」
「だが、次は代理人が動く」
「はい」
「社交紙も黙らない」
「はい」
「ヴィオラ嬢本人が揺れれば、周囲は彼女を戻そうとする」
セレスティアは、目を伏せた。
それも予想していた。
ヴィオラ一人が考えを変えれば終わる話ではない。
ハーランド伯爵家。
代理人。
社交紙。
読者。
称賛を期待する社交界。
そこには、彼女を「白百合の慈善令嬢」の位置に戻そうとする力がある。
「彼女は、善い人でいたかったのだと思います」
セレスティアが言うと、カインは短く頷いた。
「それは、かなり強い欲だ」
「欲、ですか」
「善い人でいたい。善い人に見られたい。人はそのために、驚くほど無自覚に他人を使う」
厳しい言葉だった。
だが、否定できない。
「私にも、あるのでしょうか」
思わず尋ねると、カインは少しだけセレスティアを見た。
「ある」
即答だった。
「否定しないのですね」
「誰にでもある」
「カイン様にも?」
「ある」
意外だった。
セレスティアが少し目を丸くすると、カインは顔をしかめた。
「何だ」
「いえ。宰相閣下にもあるのかと」
「私は石像ではない」
「すみません」
少しだけ空気が和らいだ。
カインは続けた。
「大事なのは、あると知っておくことだ。ないと思う人間ほど危ない」
「ヴィオラ様は、自分にあると気づき始めた」
「ああ。だから、まだ間に合う」
セレスティアは、静かに頷いた。
まだ間に合う。
その言葉を信じたかった。
夜、覚書にはこう書いた。
『ヴィオラ・ハーランド令嬢、面談』
次に。
『本当に救護院を助けたかった。だが、家の名誉回復と、善い人だと思われたい気持ちもあった』
さらに。
『あなたが読者に届けたい感動は、誰の痛みで作られるのですか?』
少し手を止める。
『善い人だと思われたい気持ちは悪ではない。問題は、そのために誰の何を差し出すか』
『匿名は演出ではない。外部へ名を出さない寄付であり、基金内部では記録が必要』
さらに。
『謝罪にも手順が必要。あなたが許される物語を急がない』
最後に。
『自分にも善い人でいたい欲はある。ないと思う人間ほど危ない』
ペンを置く。
扉の外から、声がした。
「寝ろ」
「はい」
「今日は何枚だ」
「一枚です」
「よし」
「ヴィオラ様は、まだ間に合うでしょうか」
「間に合わせるしかない」
「厳しいですね」
「優しい言葉で間に合うなら苦労しない」
「それも事実です」
少し沈黙。
カインが言う。
「今日はよく聞いた」
「責めすぎなかったでしょうか」
「責めるべきところは責めた。逃げ道も残した。十分だ」
「ありがとうございます」
「だが、次が本番だ」
「代理人と社交紙ですね」
「ああ」
「分かっています」
「なら寝ろ」
「はい」
セレスティアは灯りを落とした。
ヴィオラ・ハーランドは、善い人でいたかった。
その気持ちは、責めるだけでは終わらない。
誰かを助けたい。
誰かに認められたい。
自分の善意を美しいものとして見てほしい。
その願いが、誰かの痛みを舞台にしてしまう前に、止めなければならない。
まだ間に合う。
そう信じて、セレスティアは目を閉じた。




