第88話 匿名支援者の名が浮かぶ
匿名支援者への再照会文を出してから二日。
王妃基金の部屋には、静かな緊張が続いていた。
社交紙《王都慈善通信》からは、まだ正式な回答がない。
匿名支援者からも、表向きは沈黙。
だが、王宮南門付近や社交茶会では、相変わらず小さな噂が流れている。
王妃基金は善意に厳しすぎる。
支援をしたい者を疑っている。
救護院を助けるより、規程を守る方が大事らしい。
どれも、はっきりした批判ではない。
だからこそ、厄介だった。
人は、怒鳴る声より、ため息まじりの噂を信じることがある。
セレスティアは机の上に置かれた噂記録を見つめ、ゆっくり息を吐いた。
「広がり方が、やはり不自然ですね」
ミリアが隣で頷く。
「はい。同じ言い回しが複数の場所で出ています」
「どの言葉ですか」
「『冷たい規程』と『温かい善意』です」
ミリアが記録紙を指した。
南門。
王宮内の下働き。
御用商人の控え所。
若い令嬢たちの茶会。
そして、王都西区の小さな書店。
場所は違う。
しかし、似た言葉が繰り返されている。
『冷たい規程』
『温かい善意』
社交紙の記事にもあった構図だ。
セレスティアは、指先で紙の端を押さえた。
「自然発生の噂というより、誰かが言葉を置いて回っていますね」
「私もそう思います」
ミリアは、少しだけ顔を曇らせた。
「噂にも、言葉の型があるのですね」
「ええ。型がある噂は、広がりやすいです」
「分かりやすいから」
「はい」
冷たい規程。
温かい善意。
たった二つの言葉で、王妃基金は悪役になる。
王妃基金が救護院へ燃料を手配したことは、その型には入らない。
支援対象者の情報公表を止めようとしていることも、入らない。
型に入らない事実は、噂の中で簡単に落ちる。
そこへ、ローレン副監が入ってきた。
手には、会計室の封筒がある。
「セレスティア様。匿名支援者の資金照会について、途中結果が出ました」
部屋の空気が変わる。
セレスティアは顔を上げた。
「お願いします」
ローレン副監は席に着き、書類を広げた。
「匿名支援者側が提示した支援金は、代理人名義の預託金として確認されています。資金そのものに、今のところ明確な不正の痕跡はありません」
「資金は清い、と」
「少なくとも表向きは」
ローレン副監は、次の紙を出した。
「ですが、預託金の元をたどると、ハーランド伯爵家の管理口座に行き着きます」
ミリアの筆が止まった。
セレスティアも、思わず少しだけ眉を動かした。
「ハーランド伯爵家……」
聞き覚えはある。
大貴族ではない。
だが、古い家名だった。
かつて王妃主催の慈善茶会にも名を連ねたことがあり、社交界では「由緒はあるが、近年やや影が薄い家」と見られている。
ローレン副監が説明を続けた。
「伯爵家の財務状況は、危機的ではありません。ただ、以前ほど余裕はありません。大きな寄付を連続で行えるほどではないはずです」
「今回の支援額は?」
「家の規模からすると、かなり目立ちます」
かなり。
またその言葉だ。
しかし今回は、笑えなかった。
「名を伏せるには大きすぎる寄付、ということですね」
「はい。完全な匿名を望むなら、少し不自然です」
ミリアが静かに言った。
「社交紙に載せたいのに、基金内部には名を出したくない」
「ええ」
セレスティアは頷いた。
「外には美談として広げたい。でも、正式記録には残したくない。もしくは、最初から名を出すタイミングを自分たちで選びたい」
オルド法務官も合流していた。
彼は、書類を一枚差し出す。
「代理人についても確認しました。名はダリオ・メイス。ハーランド伯爵家と古くから取引のある法律代行人です。社交紙《王都慈善通信》とも接触歴があります」
「接触歴?」
「昨年、ハーランド伯爵令嬢ヴィオラ様の慈善茶会記事を取り次いだ記録があります」
ヴィオラ・ハーランド。
その名が、初めてはっきりと部屋に落ちた。
ミリアが記録する。
『匿名支援者背後候補:ハーランド伯爵家』
『関係人物:ヴィオラ・ハーランド令嬢』
『代理人:ダリオ・メイス』
『王都慈善通信との接触歴あり』
セレスティアは、その文字を見つめた。
「ヴィオラ様は、どのような方ですか」
ローレン副監とオルドが顔を見合わせる。
答えたのはオルドだった。
「悪評のある方ではありません。むしろ、慈善活動に熱心な令嬢として知られています」
「慈善活動に熱心」
「はい。孤児院への衣類寄付、施療院への香油寄付、冬季の手袋配布など」
「社交紙にも載っていますか」
「何度か」
セレスティアは、机の上の《王都慈善通信》の束を見た。
「ミリア。過去記事を探しましょう」
「はい」
ヴィオラ・ハーランドの記事は、すぐに見つかった。
《王都慈善通信》の半年ほど前の号。
『白百合の慈善令嬢、孤児たちへ春の衣を』
見出しだけで、セレスティアは少し疲れた。
記事には、ヴィオラの姿が美しく描かれていた。
白百合の刺繍が入った淡いドレス。
孤児たちへ衣を手渡す優しい微笑み。
涙ぐむ少女の手を握る場面。
「わたくしは、ただ少しでも皆様の寒さを和らげたいだけです」という言葉。
文章は、甘い。
だが、悪意は見えない。
むしろ、読めば読者は好感を持つだろう。
ヴィオラ・ハーランドは、優しく、涙もろく、慈善に心を砕く令嬢。
そういう人物として描かれている。
ミリアが別の記事を見つけた。
『香油一瓶の温もり――ヴィオラ・ハーランド嬢、施療院へ香りの慰めを』
セレスティアは、その題に目を止める。
「香油……」
「施療院の患者へ香油を贈ったそうです」
ミリアが読み上げる。
「病床で過ごす者たちに、せめて花の香りを、と」
「悪いことではありませんね」
「はい」
悪いことではない。
ただ、記事の末尾にはこうあった。
『涙をこらえる患者の手を、ヴィオラ嬢はそっと包み込んだ。その場にいた者は皆、慈善とは名誉ではなく、心であると知った』
セレスティアは、静かに紙を置いた。
美しい。
だが、やはり患者の涙が使われている。
ヴィオラを美しく見せるために。
本人が同意したのか。
特定されないのか。
その涙を記事にしてよいのか。
そこは分からない。
ミリアが小さく言った。
「悪い方には見えません」
「はい」
「でも、危ういです」
「ええ」
セレスティアは頷いた。
「善意と称賛が、近すぎる」
ローレン副監が腕を組む。
「ハーランド伯爵家にとっては、令嬢の慈善活動が家名を保つ手段にもなっているのでしょう」
「名誉回復ですか」
「はっきりそうとは言いませんが、近年、社交界での発言力が落ちています。慈善で存在感を示すのは、家としても都合がよい」
オルドが続ける。
「今回の支援も、ヴィオラ令嬢個人の善意と、家の名誉回復と、社交紙の記事作りが重なっている可能性があります」
複数の利害。
匿名支援者は一人ではないのかもしれない。
名は一つでも、そこには家、代理人、社交紙、読者、寄付者の承認欲求が絡んでいる。
セレスティアは、静かに息を吐いた。
「単純な不正ではありませんね」
「はい」
オルドが頷いた。
「資金も不正ではない。支援内容も実際に必要。問題は、公表条件と情報の扱いです」
「だから、難しい」
ミリアが記録しながら言った。
その通りだった。
悪い金なら断ればよい。
存在しない支援なら暴けばよい。
悪意ある攻撃なら防げばよい。
だが、今回の支援は実際に救護院を助ける力がある。
そして、関わっている令嬢は、おそらく本気で善いことをしているつもりなのだ。
午後、カインの執務室で報告が行われた。
ハーランド伯爵家の名が出たことを伝えると、カインは少しだけ目を細めた。
「やはり貴族家か」
「ご存じでしたか」
「可能性の一つとしては」
「ヴィオラ・ハーランド令嬢は、慈善活動で知られている方のようです」
「知っている」
「お会いになったことが?」
「公的な場で数度。涙もろい令嬢だ」
涙もろい。
その言葉が妙に重く聞こえた。
カインは続ける。
「悪意は薄い。承認欲求は強い」
簡潔すぎる人物評だった。
セレスティアは少し苦笑する。
「もう少し柔らかく言うと?」
「善い人でありたい令嬢だ」
そちらの方が、かえって胸に残った。
善い人でありたい。
誰かを助けたい。
そして、助けた自分を見てほしい。
自分の善意が認められてほしい。
その気持ちは、完全には否定できない。
「彼女本人と話す必要がありますね」
セレスティアが言うと、カインは頷いた。
「避けられない」
「ただ、いきなり責める形にはしたくありません」
「責めれば泣く」
「……泣かれるのですか」
「おそらく」
ミリアが記録しながら、少し困った顔をした。
セレスティアも思わず額に手を当てたくなった。
「泣かれると、こちらが悪者に見えますね」
「そうだ」
「さらに社交紙が喜びます」
「そうだ」
「とても厄介です」
「だから、泣かせるな」
「簡単におっしゃいますね」
「泣いても、涙を記事にさせるな」
もっと難しい。
セレスティアは、小さく息を吐いた。
「面会は王妃基金ではなく、助言会準備面談として設定しましょう。寄付申し出の公表条件確認という形で」
「いい」
「同席者は、私、ミリア、オルド法務官。必要ならバルツァー夫人にも」
カインは少し考えた。
「バルツァー夫人は後半から入れろ。最初からいると、ヴィオラ嬢が社交界の審判席に立たされたように感じる」
「なるほど」
「まず君が聞け」
「はい」
「ただし、情に引っ張られすぎるな」
「分かっています」
「本当に?」
「……たぶん」
カインの目が細くなる。
セレスティアは言い直した。
「分かっています。ヴィオラ様の善意を否定せず、公表条件の危険を確認します」
「それでいい」
夕方、エミリア・クラウゼンが王妃基金の部屋を訪れた。
若い寄付者代表として、今回の件に強い関心を持っていた。
セレスティアは、まだ公表前であるため、必要な範囲だけを伝えた。
「匿名支援者の背後に、ある貴族家の関与が確認されました」
「貴族家……」
エミリアは表情をこわばらせる。
「若い令嬢の慈善活動とも関係がある可能性があります」
その瞬間、エミリアは何かを察したようだった。
「もしかして、ヴィオラ・ハーランド様ですか」
セレスティアは、少し驚いた。
「ご存じなのですね」
「はい。若い令嬢たちの間では有名です」
「どのように?」
エミリアは、少し迷いながら答えた。
「とてもお優しく、慈善に熱心な方です。茶会でも、孤児院や施療院のお話をよくされます。涙ぐみながら」
やはり。
「憧れている方も多いです。華やかで、善いことをしていて、社交紙にも載るので」
「あなたは、どう見ていますか」
エミリアは少し考えた。
「以前なら、すごい方だと思っていました」
「以前なら?」
「今は……少し怖いです」
「怖い?」
「はい。悪い方ではないと思います。でも、ヴィオラ様のお話を聞いていると、支援先の方より、ヴィオラ様の涙の方が印象に残ることがあります」
セレスティアは、胸の奥で静かに頷いた。
若い令嬢の目から見ても、そうなのだ。
「それを、今までうまく言えませんでした。だって、善いことをしている方ですから」
「はい」
「でも、今日なら少し分かります。支援先の方の痛みが、ヴィオラ様の優しさを見せるために使われているように感じる時があるのです」
エミリアは、言ってから不安そうに顔を上げた。
「ひどい言い方でしょうか」
「いいえ。大切な視点です」
セレスティアは、ミリアを見る。
ミリアはすでに記録していた。
『若い令嬢側の見え方:支援先の痛みより、支援者の涙が印象に残る危険』
エミリアは続けた。
「ヴィオラ様は、きっと本当に優しいのだと思います。でも、優しい方に見られたいお気持ちも、とても強いのかもしれません」
その言葉は鋭かった。
善い人でいたい。
善い人に見られたい。
その二つは似ている。
だが、同じではない。
「エミリア様」
「はい」
「若い令嬢向け講習で、この問題を扱う時、あなたの視点が必要になります」
「私の?」
「はい。ヴィオラ様を悪役として語るのではなく、善意と称賛が近づきすぎる危うさとして」
エミリアは、少しだけ息を呑んだ。
「難しいです」
「はい」
「でも、必要ですね」
「必要です」
エミリアは、怖がりながらも頷いた。
「分かりました。私も考えます」
その夜、ハーランド伯爵家へ面会依頼の書簡が作成された。
文面は慎重に整えた。
『王都南部救護院への支援申し出に関し、王妃基金として公表条件および寄付受付手順を確認したく、ヴィオラ・ハーランド令嬢または代理人との面談を願う』
責めない。
断罪しない。
しかし、逃げ道だけを与えるのでもない。
確認する。
線を引く。
そして、直接聞く。
ミリアが文面を読み、静かに言った。
「ヴィオラ様は、来られるでしょうか」
「来ていただく必要があります」
「泣かれるでしょうか」
「カイン様は、おそらくと」
「では、ハンカチを多めに用意しますか」
セレスティアは思わず笑ってしまった。
「それは、こちらが泣かせる前提に見えませんか」
「でも、実務上は必要かと」
「……用意しましょう。目立たないように」
ミリアは真面目に頷き、備品欄に書き込んだ。
『予備ハンカチ』
王妃基金の仕事は、時々妙なところまで細かい。
だが、こういう細部も大事なのだろう。
泣いた人を放置すれば、冷たいと言われる。
過度に慰めれば、話がずれる。
涙も、手続きが必要なのかもしれない。
覚書には、こう書いた。
『匿名支援者の背後に、ハーランド伯爵家の名が浮かぶ』
次に。
『ヴィオラ・ハーランド令嬢。慈善活動に熱心。悪意は薄い。善い人でありたい令嬢』
さらに。
『支援資金そのものは不正ではない。問題は、公表条件と情報の扱い』
『善意と称賛が近すぎる』
少し手を止める。
『エミリア様の視点。支援先の痛みより、支援者の涙が印象に残る危険』
最後に。
『ヴィオラ様と面談する必要あり。責めるのではなく、聞く。だが、線は引く』
ペンを置く。
扉の外から、声がした。
「寝ろ」
「はい」
「今日は何枚だ」
「一枚です」
「よし」
「ヴィオラ様への面会依頼を出しました」
「知っている」
「泣かれるでしょうか」
「泣くだろうな」
「断言されましたね」
「ほぼ」
「その場合、どうすれば」
「泣くことと、正しいことは別だ」
セレスティアは、その言葉をゆっくり受け止めた。
「涙を否定はしない。でも、涙で条件を変えない」
「そうだ」
「難しいですね」
「だから、ハンカチを用意しろ」
セレスティアは笑ってしまった。
「ミリアも同じことを言っていました」
「実務だ」
「涙にも実務があるのですね」
「ある」
妙に説得力があった。
セレスティアは、肩の力を少し抜いた。
「おやすみなさい、カイン様」
「ああ。おやすみ、セレスティア」
灯りを落とす。
匿名支援者の名は、少しずつ形を持ち始めた。
ヴィオラ・ハーランド。
善い人でいたかった令嬢。
その善意が、誰かの痛みを照らす灯りになるのか。
それとも、誰かの痛みを飾る舞台の灯りになるのか。
次に向き合うべき相手が、見えてきた。




