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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第76話 第一稿は、誰かの胸を刺す

 王妃基金改革中間報告書の第一稿が完成したのは、雨の降る朝だった。


 激しい雨ではない。


 窓硝子を細かく叩く、静かな雨。


 王宮の石畳は薄く濡れ、庭の木々は重たげに葉を揺らしていた。


 セレスティアは、机の上に置いた報告書の束を見つめていた。


 表紙には、簡潔な題がある。


『王妃基金改革中間報告書』


 その下に、小さく。


『返還金再配分から実務講習正式化まで』


 厚すぎない。


 薄すぎもしない。


 成果と課題、人の声、次の方針をまとめた第一稿。


 完成したはずなのに、胸は晴れなかった。


 むしろ、書き上げた今の方が怖い。


 報告書は、出した瞬間から自分の手を離れる。


 読む人によって、刺さる場所が違う。


 ある人には成果に見える。

 ある人には批判に見える。

 ある人には希望に見える。

 ある人には、過去の自分を責める紙に見えるかもしれない。


 ミリアが、最後の綴じ紐を整えながら言った。


「第一稿、整いました」


「ありがとう」


「……緊張されていますか」


「はい」


 セレスティアは素直に答えた。


「かなり」


「今日は、かなりを自分で使われましたね」


「便利なので」


 ミリアは小さく笑った。


 その笑いも、すぐに静かな表情へ戻る。


「回覧先は、宰相閣下、王宮会計室、法務局、助言会構成員、王太子府、エルフォード公爵家でよろしいですか」


「はい。まずは第一稿として」


「王宮外へ広く出すのは、修正後ですね」


「その予定です」


 セレスティアは報告書の一冊を手に取った。


 紙の重さが、思ったより手に沈む。


 そこには、数字だけでなく声が入っている。


『帳簿は冷たいかもしれません。でも、灯油が届けば部屋は温かくなります』


『感謝文を書く欄が広く、困りごとを書く欄が小さい』


『手続きは、心を残す器にもなり得る』


『分からないことは、次に直すべき場所を教えてくれる声』


 どれも、誰かの言葉だ。


 報告書に載せるために飾った言葉ではない。


 実際に迷い、困り、考えた中から出た言葉だ。


 だからこそ、重い。


「ミリア」


「はい」


「この報告書、少し痛いですね」


 ミリアは、すぐには答えなかった。


 それから、静かに頷いた。


「はい。痛いです。でも、必要な痛さだと思います」


「必要な痛さ」


「はい。どこが痛むのか分からなければ、直せませんから」


 セレスティアは、その言葉を胸にしまった。


 どこが痛むのか分からなければ、直せない。


 中間報告書とは、そういう紙なのかもしれない。


 成果を祝うためだけではない。


 まだ痛む場所を、隠さず示すための紙。


 セレスティアは、静かに頷いた。


「回覧に出しましょう」


「はい」


 最初に第一稿を読んだのは、カインだった。


 彼は宰相執務室で、報告書を一頁ずつ黙ってめくっていた。


 セレスティアは向かいに座り、手元の筆を握りしめている。


 読む音だけが響く。


 紙がめくられるたびに、胸の奥が小さく鳴る。


 カインは序文を読み、成果一覧を読み、課題の章で一度止まった。


『課題は失敗の列挙ではなく、次に直す場所を示すものである』


 彼は、その一文に視線を落としたまま、少しだけ黙った。


 セレスティアは、耐えきれず口を開く。


「そこは、削った方がよいでしょうか」


「なぜ」


「心得のようで、報告書としては少し……」


「残せ」


 即答だった。


 セレスティアは瞬いた。


「よろしいのですか」


「ああ。中間報告書には必要だ」


 カインは次の頁をめくる。


「報告書を読む者は、課題を責任追及の材料にしたがる。最初に、これは次に直す場所だと示しておく意味がある」


「なるほど」


「ただし、表現は少し整えろ」


「はい」


 やはり、整える必要はあるらしい。


 カインはさらに読み進めた。


 寄付者の不安についての項目で、彼は頷く。


「バルツァー夫人の意見を入れたな」


「はい。寄付者側の不安を無視すると、制度が一方通行になります」


「いい」


 グランヴィル侯爵夫人の項目では、少し目が細くなった。


『亡き王妃陛下を直接知る支援者の記憶を、理念文だけでなく具体的な言葉や現場での行動として記録し、次世代へ継承する必要がある』


「これは重いな」


「はい」


「だが、必要だ」


「グランヴィル侯爵夫人からのご指摘です」


「だろうな」


 カインは最後まで読み終え、表紙へ戻した。


 しばらく何も言わない。


 セレスティアは、その沈黙が怖かった。


 褒められるのも怖い。

 直されるのも怖い。

 黙られるのが、一番怖い。


 やがて、カインが言った。


「第一稿としては、よくできている」


 胸の奥が、少しだけ緩んだ。


「ありがとうございます」


「ただし、三点直せ」


「はい」


 やはり来た。


 セレスティアは筆を構える。


「一つ目。成果の章に、王太子府側の変化をもう少し明確に入れろ」


「王太子府側の変化、ですか」


「ああ。返還金処理だけではなく、王太子府が講習を正式に受ける側になったこと。確認保留、会計区分、王妃基金費と社交費の分離を学び直す流れができたこと。それは成果だ」


 セレスティアは少し迷った。


「王太子府の過去の不備を強調しすぎませんか」


「不備ではなく、再教育の仕組みとして書け」


「分かりました」


「二つ目。エルフォード家の扱いは慎重に」


 その言葉で、セレスティアの手が止まった。


「報告書に家のことは、ほとんど入れていません」


「ほとんど、だな」


 カインは一頁を開いた。


 そこには、こう書いてある。


『個人の職務と家の都合を分ける境界線が、王妃基金改革の運用にも必要であることが確認された』


「これは残してよい。ただ、具体的な家名は出すな」


「はい」


「君の個人的な痛みを、制度の説明に使いすぎるな」


 セレスティアは、胸を突かれたように黙った。


 カインの声は厳しくない。


 だからこそ、深く届く。


「……分かりました」


「三つ目」


「はい」


「最後の次の方針が、少し多い」


 予想していた。


 セレスティアは、視線を落とす。


「やはり」


「全部やろうとするな」


「書いているうちに、必要なことが増えてしまって」


「必要なことが多いのと、次期方針に全部入れるのは違う」


「はい」


 カインは、報告書を閉じた。


「次の方針は三つに絞れ。実務講習の正式運用。支援先報告書の簡素化。王妃理念継承記録の整備」


 セレスティアは、ゆっくり頷いた。


「共同寄付制度の整備は?」


「実務講習の中に含めろ。助言会運用は全体の下支えとして書けばいい」


「はい」


「君は、報告書で次の仕事を増やしすぎる癖がある」


「……自覚はあります」


「なら直せ」


「はい」


 カインは、報告書の表紙を軽く叩いた。


「だが、第一稿はよい。人の声が残っている」


 セレスティアは、少しだけ目を伏せた。


「そこを一番大切にしました」


「ああ。分かる」


 その短い言葉で、報われた気がした。


 助言会の構成員たちにも、第一稿は回された。


 最初に返事を寄せたのは、バルツァー夫人だった。


『寄付者側の不安を課題として記した点は評価します』


 冒頭から、いかにも彼女らしい。


『ただし、匿名寄付の内部記録については、もう少し明確に書くべきです。匿名とは「外へ名を出さない」ことであり、基金内部に出所を秘すことではありません。この点を曖昧にすると、不正資金の混入を許します』


 セレスティアは頷いた。


 ここは確かに補強が必要だ。


『また、大口寄付者向け説明会については、寄付者を説得する場ではなく、寄付者が制度を理解し質問できる場と表現してください。説得される、という言葉は寄付者の反発を招きます』


 厳しい。


 だが、的確だ。


 最後に、短い追伸があった。


『私の赤字が役に立ったことは、報告書から十分伝わりました。少しだけ満足しました』


 セレスティアは、思わず笑ってしまった。


 少しだけ。


 きっと、かなり満足している。


 次に届いたのは、グランヴィル侯爵夫人からの返事だった。


 こちらは短く、重かった。


『王妃陛下の記憶を記録へ移す必要性について、報告書に記したことを確認しました』


『ただし、王妃陛下の言葉を引用する際は、装飾しすぎないこと。美しい言葉に整えすぎると、かえって本当の温度が失われます』


『花瓶の水の話は、あのまま残してください』


 セレスティアは、その一文を見て静かに頷いた。


 あのまま残す。


 整えすぎない。


 それも、記録の難しさだった。


 綺麗にしすぎると、本当の声から遠ざかる。


 ミリアが横で言った。


「グランヴィル侯爵夫人らしいご指摘ですね」


「はい」


「記録官としても、刺さります」


「どういう意味で?」


「私は、つい整えたくなります。でも、整えすぎると声が変わることがあります」


 セレスティアは、少し考えた。


「では、報告書の引用方針に入れましょう」


「引用方針ですか」


「はい。発言の意味を損なわない範囲で整える。ただし、語り手の温度を消さない」


 ミリアがすぐに記録した。


「よいと思います」


 王太子府からの反応は、二つに分かれた。


 正式なものは、ジュリアス名義だった。


『中間報告書第一稿を受領した』


『王太子府に関する記述について、過去の運用不備を重く受け止める。今後、王妃基金費と王太子府社交費の区分、確認保留、寄付者対応について、王妃基金実務講習を正式に受講する』


『王太子府が支援の名を借りて体面を優先しないよう、内部手順を改める』


 短いが、しっかりしていた。


 以前のジュリアスなら、もう少し飾った言葉を書いただろう。


 だが今は、責任のある言葉になっている。


 セレスティアは、少しだけ安堵した。


 そして、リリアナからの手紙は、いつも通り率直だった。


『お姉様へ』


『中間報告書を読みました。長かったです』


 セレスティアは、そこで笑ってしまった。


 第一声がそれか。


『でも、前より読みやすかったです。外部向けの「ここまでに変わったこと」「これから直していくこと」は、とても分かりやすいです』


『ただ、「制度の温度」という言葉が少し難しかったです。でも好きです』


『あと、王太子府のことは、もう少しはっきり書いてよいと思います。ぼかされると、私たちが何を直すべきか分かりにくくなります』


 セレスティアは、その一文で手を止めた。


 リリアナが、王太子府側の課題をぼかさないでほしいと言っている。


 自分の立場に関わるのに。


『厳しく書かれるのは怖いですが、怖いから読まないといけないのだと思います』


 セレスティアは、しばらくその文を見つめた。


 怖いから読まないといけない。


 本当に、リリアナは変わった。


 いや、変わり続けている。


 その変化を、報告書にも残したいと思った。


 ただし、入れすぎるな。


 カインの声が頭に浮かぶ。


 セレスティアは、短くメモをした。


『王太子府記述は、責任追及ではなく、修正すべき手順を明確にする方向で補強』


 エルフォード公爵家へも、第一稿の写しが送られた。


 これは少し迷った。


 王妃基金改革の関係者として、エルフォード家は直接の運営主体ではない。


 だが、セレスティアの身分、過去の婚約、家との境界線の問題を考えれば、まったく無関係とも言えなかった。


 家名は伏せた。


 個人の痛みを制度に使いすぎない。


 カインの指摘を受け、該当箇所はかなり抑えた。


 それでも、エルフォード家が読めば分かる。


 これは自分たちのことでもある、と。


 返事は、父グレアムから届いた。


 個人印の封筒だった。


 セレスティアは、少しだけ息を整えてから封を開けた。


『セレスティアへ』


『王妃基金改革中間報告書第一稿を読んだ』


『まず、ここまでの成果に敬意を表する』


 敬意。


 父から、その言葉が来るとは思わなかった。


 続きがある。


『同時に、読んでいて胸が痛む箇所があった』


『個人の職務と家の都合を分ける境界線についての記述だ』


 セレスティアは、便箋を持つ指に少し力を入れた。


『家名は伏せられている。だが、私には分かる。お前がどのような痛みから、その境界線を必要としたのか』


 胸の奥が、鈍く痛んだ。


『以前の私は、お前の職務と家の都合を分けていなかった。お前の有能さを、家にとって便利なものとして扱った』


 セレスティアは、目を閉じた。


 父が、また一つ言葉にした。


 遅い。


 それでも、言葉になった。


『報告書の中で、その痛みを制度として扱おうとしていることを、私は重く受け止める』


『ただし、私個人への遠慮で必要な記述を削ることはしないでほしい』


 セレスティアは、思わず息を止めた。


『これは、父としてではなく、かつて境界線を踏み越えた者として書く』


『必要なら、書きなさい』


 便箋の最後には、短く署名があった。


 グレアム・エルフォード。


 セレスティアは、しばらく動けなかった。


 ミリアが心配そうに声をかける。


「セレスティア様」


「……大丈夫です」


「本当に?」


「少し、大丈夫ではありません。でも、読めます」


 彼女は、もう一度手紙を見た。


 必要なら、書きなさい。


 父にそう言われる日が来るとは思わなかった。


 許したわけではない。


 痛みが消えたわけでもない。


 だが、これは大きな変化だった。


 自分の痛みを、家の恥として隠すのではなく、制度に必要な線引きとして扱うことを、父が認めた。


 セレスティアは、返事を書く前に、報告書の該当箇所を見直した。


 具体的な家名は出さない。


 個人の痛みを過度に使わない。


 だが、境界線の必要性は残す。


 その方針は変えない。


 夕方、修正会議が開かれた。


 カイン、ミリア、ローレン副監、オルドが参加した。


 各所からの意見を整理し、第一稿の修正方針を決める。


 セレスティアは、まず言った。


「王太子府に関する記述を補強します。ただし、責任追及ではなく、修正すべき手順を明確にする方向で」


 オルドが頷く。


「よいと思います。具体的には、王妃基金費と社交費の分離、確認保留手順、寄付者対応記録ですね」


「はい」


 ローレン副監が続ける。


「寄付者の不安については、バルツァー夫人の意見通り、匿名寄付の内部記録を明確にしましょう」


「お願いします」


 ミリアは、グランヴィル侯爵夫人の引用方針を確認する。


「発言の意味を損なわない範囲で整える。ただし、語り手の温度を消さない」


 カインが短く頷いた。


「いい」


 最後に、境界線の項目。


 セレスティアは、少しだけ息を整えた。


「家名は出しません。ただし、個人の職務と家の都合を分ける必要性は残します」


 カインは彼女を見る。


「それでいい」


「父から、必要なら書きなさいと手紙が来ました」


 部屋が少し静かになった。


 ミリアが、目を伏せる。


 ローレン副監も、何も言わない。


 カインだけが、静かに言った。


「なら、必要な分だけ書け」


「はい」


「痛みを見せるためではなく、同じ構造を防ぐために」


「はい」


 その言葉で、セレスティアの中の迷いが少し落ち着いた。


 同じ構造を防ぐために。


 自分の個人的な痛みを、読者の感情を動かすために使うのではない。


 家と職務、私的関係と公的役割、寄付と縁談、善意と名誉。


 それらが混ざる危険を防ぐために書く。


 セレスティアは、修正文にこう記した。


『王妃基金に関わる者の職務は、家門、縁談、私的親交、社交上の利害と混同されてはならない。職務と私的関係の境界線を明確にすることは、担当者本人を守るだけでなく、基金の公平性を守るためにも必要である』


 書き終えると、胸が少し痛んだ。


 だが、必要な痛みだった。


 夜、セレスティアは覚書を書いた。


『中間報告書第一稿、回覧』


 次に。


『カイン閣下。成果、課題、次の方針はよい。ただし次の方針は三つに絞る』


 さらに。


『バルツァー夫人。匿名寄付は外へ名を出さないことであり、基金内部に出所を秘すことではない』


『グランヴィル侯爵夫人。王妃陛下の言葉は装飾しすぎない。花瓶の水の話は、あのまま残す』


『リリアナ。怖いから読まないといけない』


 少し手を止める。


『父。必要なら、書きなさい』


 その一文を見つめた。


 胸が痛む。


 でも、以前とは違う痛みだ。


 拒絶される痛みではない。


 遅れて届いた承認に、心が追いつかない痛み。


 最後に書く。


『報告書は、誰かの胸を刺す。刺さった場所を隠さず、次に直す場所へ変える』


 ペンを置く。


 扉の外から声がした。


「寝ろ」


「はい」


「今日は何枚だ」


「二枚です」


「減らせと言った」


「今日は……第一稿回覧だったので」


「また理由にならない理由を」


 セレスティアは少し笑った。


 疲れているのに、笑えた。


「すみません」


 扉の向こうで、少し沈黙があった。


 カインが静かに言う。


「父君の手紙を読んだ後なら、仕方ない」


 セレスティアは、少しだけ息を止めた。


「ご存じでしたか」


「君の顔に出ていた」


「そんなに?」


「かなり」


 またその言葉だ。


 でも、今日は少しありがたかった。


「……はい。少し揺れました」


「揺れていい」


「よいのですか」


「ああ。揺れない方がおかしい」


 セレスティアは、胸の奥が静かに緩むのを感じた。


「ありがとうございます」


「だが、明日は一枚に戻せ」


「はい」


「報告書は続く。君も続ける必要がある」


「はい」


「必要な痛みは書け。余計な痛みは背負うな」


 セレスティアは、ゆっくり頷いた。


「はい」


「寝ろ」


「はい」


 灯りを落とす。


 中間報告書の第一稿は、いくつもの場所へ届いた。


 そして、それぞれの胸を刺した。


 王太子府には、学び直す痛み。

 助言会には、声を残す責任。

 寄付者には、不安を認められる安堵。

 グランヴィル侯爵夫人には、記憶を記録へ渡す寂しさ。

 エルフォード家には、境界線を踏み越えた過去の痛み。


 その痛みを、隠さない。


 次に直す場所へ変える。


 セレスティアは、静かな雨音を聞きながら目を閉じた。

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