第74話 中間報告書には、人の声が残ります
試行講習の翌日、王妃基金の部屋には、いつもより多くの紙が積まれていた。
講習参加者からの感想。
質問一覧。
資料の修正希望。
王太子府からの追加参加要請。
若い令嬢たちからの次回講習希望。
そして、寄付者代表からの正式講習化に関する意見書。
セレスティアは、それらを一つずつ確認しながら、思わず呟いた。
「……講習は、終わってからが本番なのですね」
向かいの席で記録を整理していたミリアが、深く頷いた。
「はい。質問一覧だけで、かなりあります」
「かなり、という言葉が便利すぎます」
「でも、かなりあります」
ミリアは真顔だった。
机の上の質問一覧は、確かにかなりあった。
『余った茶会菓子を支援に回す場合の手続き』
『匿名寄付の内部記録方法』
『確認保留を申し出た職員が不利益を受けないための保護』
『共同寄付で代表者が途中交代する場合』
『支援先が報告を拒んだ場合』
『寄付者が支援先訪問を希望した場合』
『若い令嬢が家に内緒で寄付したいと言った場合』
最後の項目で、セレスティアは手を止めた。
「これは、かなり危険ですね」
「はい。講習後に個別で相談があったそうです」
「家に内緒の寄付は受けられません」
「未成年者や家の管理下にある令嬢の場合、保護者または財務責任者の確認が必要、と入れますか」
「入れましょう」
セレスティアは、赤字で書き込んだ。
『家に内緒の寄付は受け付けない。寄付者本人の意思を尊重しつつ、家の財務管理・本人保護の観点から確認を必須とする』
書いてから、少し考え直す。
「外部向けには柔らかくしましょう」
ミリアがすぐに別紙へ書く。
『若い方が寄付を希望する場合は、ご家族や保護者と相談してから申し込みましょう』
「そちらの方がよいですね」
「はい。最初の文だと、少し怖いです」
「内部向けと外部向け」
「また分けました」
二人は、ほとんど同時に言って、少し笑った。
そこへ、ローレン副監が入ってきた。
「おはようございます。正式講習化について、会計室側の意見を持ってきました」
「ありがとうございます」
「結論から申し上げますと、正式化に賛成です。ただし、初回から人数を増やしすぎるのは反対です」
セレスティアは頷いた。
「質問が多くなりすぎますね」
「はい。昨日の規模でも、質問対応で予定を超えました。正式講習では、王宮内部向けと外部向けを完全に分け、さらに外部向けは若い令嬢・寄付者・共同寄付希望者で回を分けた方がよいでしょう」
ミリアがすぐに記録する。
「講習も分けるのですね」
「混ぜると危険です」
ローレン副監が当然のように言った。
セレスティアとミリアは顔を見合わせた。
「合言葉が広がっています」
「よいことです」
ローレン副監は少し笑った。
「実務上も、本当に危険ですので」
その通りだった。
王太子府職員に必要なのは、確認保留と会計区分。
若い令嬢に必要なのは、寄付の届き方と共同寄付の約束。
大口寄付者に必要なのは、概要報告書と公表範囲。
支援先に必要なのは、報告書の簡素化と困りごとの伝え方。
同じ講習に見えて、必要な言葉が違う。
セレスティアは、新しい紙に見出しを書いた。
『王妃基金実務講習 正式化案』
一、王宮内部向け講習。
二、若い寄付者向け講習。
三、共同寄付希望者向け説明会。
四、大口寄付者向け概要報告書説明会。
五、支援先向け報告書簡素化説明。
並べてみると、多い。
だが、必要だ。
「これを全部、私が担当すると」
言いかけた瞬間、ミリアとローレン副監が同時に顔を上げた。
「しません」
「しないでください」
見事に重なった。
セレスティアは、少しだけ口を閉じた。
「……言い切る前に止められました」
ミリアが真剣な顔で言う。
「言い切らせると、既成事実になりそうでしたので」
「私、そこまで信用がありませんか」
「あります。だから止めます」
よく分からない理屈だったが、反論しづらかった。
ローレン副監が、笑いながら言った。
「会計区分は会計室が担当します。確認保留は法務局。共同寄付はエミリア様と王妃基金窓口。記録と報告書の読み方はミリア殿。監査補佐官は全体方針と最終確認に絞ってください」
セレスティアは、少し考えてから頷いた。
「分かりました」
ミリアが驚いたように瞬く。
「本当に素直です」
「成長していますので」
「かなり」
三人の間に、小さな笑いが落ちた。
昼前、リリアナが王太子府からの正式要望書を持ってきた。
彼女はいつもより少し得意げだった。
「お姉様、王太子府でも講習を正式に受けたいそうです」
「それは、要望書を見れば分かります」
「私が勧めました」
「やはり」
リリアナは胸を張った。
「昨日の確認保留の説明は、王太子府の若手職員に必要だと思いました。特に、急ぎだからと言われて確認しないまま通すのは危険です」
「その通りです」
「それから、返還金に感謝状を出さないというところも大事です」
「よく覚えていますね」
「付箋を貼りました」
リリアナは、自分の資料を見せた。
付箋だらけだった。
それでも、以前のようにただ貼っているだけではない。色ごとに意味が分けられている。
赤は重要。
青は分からない。
黄色は言い換え希望。
緑は他の人にも説明できそうな箇所。
セレスティアは、それを見て素直に感心した。
「とても整理されています」
「ミリア様に教えていただきました」
ミリアが少し照れた顔をする。
「付箋分類は便利ですので」
「ええ。かなり便利です」
リリアナは、そこで少し真面目な顔になった。
「お姉様」
「はい」
「講習を受けて思ったのですが、分からない人は、分からないことに気づいていないこともあります」
セレスティアは手を止めた。
「分からないことに、気づいていない」
「はい。私も昔、分かっていないのに、分かっているつもりでした。王妃基金も、慈善茶会も、支援先も。言葉だけ知っていたから、分かったつもりでした」
リリアナの声は静かだった。
「でも、講習で質問されると、自分が何を知らないのか少し見えます」
セレスティアは、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
これは重要だ。
講習の目的は、知識を与えるだけではない。
自分が何を知らないかに気づかせることでもある。
「リリアナ、それも講習の基本方針に入れます」
「またですか」
「はい」
セレスティアは書いた。
『講習は、知識を教えるだけでなく、自分が何を知らないかに気づく場でもある』
リリアナは、それを見て少し照れたように笑った。
「私の分からなさが、役に立っています」
「とても」
「では、これからも分からないところを見つけます」
「頼もしいです」
すると、リリアナは少しだけ首を傾げた。
「お姉様」
「はい」
「頼もしいと言われると、少し怖いですね」
「そうですか」
「期待されている気がして」
セレスティアは、息を止めた。
頼もしい。
よく使っていた言葉だ。
けれど、受け取る側には期待の重さになることもある。
「……ありがとう、教えてくれて」
「え?」
「褒め言葉も、時には重くなるのですね」
リリアナは少し慌てた。
「嫌だったわけではありません。ただ、少し背筋が伸びたというか」
「それも大切です。では、こう言い換えます」
セレスティアは、妹を見て微笑んだ。
「あなたの分からないところを見つける力に、助けられています」
リリアナは、ぽっと頬を赤くした。
「それなら、嬉しいです」
ミリアが横でしっかり記録していた。
「褒め言葉の言い換えも、講習に必要かもしれません」
「そこまで?」
「人を育てる講習ですから」
セレスティアは、何も言えなかった。
本当に、講習は難しい。
午後、カインの執務室で正式講習化の方針確認が行われた。
カインは、資料の束を一通り読み、短く言った。
「正式化する」
相変わらず決断が早い。
セレスティアは、姿勢を正した。
「対象を分けて段階実施します。王宮内部向けを先に、その後、若い寄付者向け、共同寄付希望者向け、大口寄付者向け、支援先向けの順で」
「いい」
「講師は分担します。私が全体を担当し、各項目は会計室、法務局、記録室、若い寄付者代表に」
「いい」
カインは次の紙を取った。
「質問一覧は、中間報告書に入れる」
「中間報告書?」
セレスティアは、少し驚いた。
カインは当然のように言う。
「王妃基金改革中間報告書だ。そろそろ必要だろう」
中間報告書。
その言葉に、胸が少し重くなる。
成果をまとめる。
改革の流れを記録する。
返還金から始まり、助言会と講習まで至った道筋を、王宮と関係者へ示す。
必要だ。
とても必要だ。
けれど、難しい。
「何を書けばよいでしょうか」
思わずそう尋ねると、カインは少しだけ目を細めた。
「それを考えるのが君の仕事だ」
「ですよね」
「ただし、自慢の報告書にするな」
「するつもりはありません」
「反省だけの報告書にもするな」
セレスティアは、そこで黙った。
そちらの方が危なかった。
自分の性格を、カインはよく分かっている。
「成果、課題、次の方針。この三つで書け」
「成果、課題、次の方針」
「ああ。成果を隠すな。課題をごまかすな。次の方針を曖昧にするな」
ミリアが横で記録する。
セレスティアは、静かに頷いた。
「分かりました」
カインは、さらに言った。
「中間報告書には、人の声を入れろ」
「人の声、ですか」
「数字と制度だけでは足りない。講習で出た質問、助言会で出た言葉、支援先の困りごと、若い令嬢の気づき。王妃基金が何を変えたのかは、そこに出る」
セレスティアは、胸を突かれた。
人の声。
確かに、第二段階の改革で一番変わったのは、そこかもしれない。
支援先が「困りごとを書く欄が小さい」と言えるようになった。
若い令嬢が「輸送費を支えたい」と言えるようになった。
リリアナが「分からない」と言えるようになった。
ミリアが「記録は次の支援を間違えないため」と言えるようになった。
グランヴィル侯爵夫人が「手続きは心を残す器にもなり得る」と言った。
それを残す。
報告書に。
「書きます」
セレスティアは答えた。
「王妃基金改革中間報告書に、人の声を入れます」
「よし」
カインは頷いた。
「ただし、書きすぎるな」
「……はい」
「全部入れようとするな」
先回りされた。
セレスティアは少しだけ視線を逸らす。
「検討します」
「入れすぎたら削る」
「はい」
夕方、セレスティアは中間報告書の白紙を前にした。
表題を書く。
『王妃基金改革中間報告書』
その下に、小さく。
『返還金再配分から実務講習正式化まで』
書いた瞬間、これまでのことが一気に胸に押し寄せてきた。
最初は、亡き王妃の帳簿だった。
そこに自分の名前があった。
誰にも見られていなかった仕事。
誰かに奪われかけた署名。
王太子府の混乱。
返還金。
茶会。
任命状。
寄付者との衝突。
若い令嬢たちの共同寄付。
グランヴィル侯爵夫人との公開意見交換会。
助言会。
講習。
ずいぶん遠くまで来た。
まだ途中だ。
でも、確かにここまで来た。
ミリアが、そっと新しい紙束を置いた。
「中間報告書用に、引用候補をまとめました」
「もう?」
「はい。人の声を入れると聞きましたので」
そこには、これまでの言葉が整理されていた。
『帳簿は冷たいかもしれません。でも、灯油が届けば部屋は温かくなります』
『記録は紙を増やすためではなく、次の支援を間違えないためのものです』
『感謝文を書く欄が広く、困りごとを書く欄が小さい』
『手続きは、心を残す器にもなり得る』
『分からないことは、次に直すべき場所を教えてくれる声』
『人気の支援と、必要な支援はいつも同じとは限りません』
セレスティアは、言葉を失った。
「ミリア」
「はい」
「これは、とても助かります」
「記録官ですので」
ミリアは少し得意げだった。
そして、それがとても頼もしかった。
「一緒に書きましょう」
セレスティアが言うと、ミリアは目を丸くした。
「中間報告書を、ですか」
「はい。私一人で書くものではないと思います」
ミリアは、少しだけ表情を引き締めた。
「分かりました。記録官として、補佐します」
「お願いします」
二人は、机に向かって並んだ。
セレスティアは、最初の一文を書いた。
『王妃基金改革は、返還金の再配分から始まった。しかし、この改革の本質は金の流れを正すことだけではない。支援先、寄付者、王宮職員、若い令嬢たちが、分からないことや困りごとを声に出せる仕組みを作ることにある』
書いて、少しだけ息を吐いた。
悪くない。
ミリアが横で静かに頷いた。
「よいと思います」
「硬すぎませんか」
「中間報告書ですので、これくらいは」
「では、進めます」
その日、セレスティアは遅くまで書きたくなった。
だが、ミリアが先に止めた。
「本日はここまでです」
「まだ序文だけです」
「だからこそです。最初から飛ばすと、明日倒れます」
「倒れません」
「宰相閣下を呼びます」
「……ここまでにします」
強い。
ミリアは本当に強くなった。
夜、覚書にはこう書いた。
『王妃基金実務講習、正式化決定』
次に。
『講習は、知識を教えるだけでなく、自分が何を知らないかに気づく場でもある』
さらに。
『中間報告書に着手。成果、課題、次の方針。人の声を入れる』
少し手を止める。
『王妃基金改革の本質は、金の流れを正すことだけではない。声に出せる仕組みを作ること』
最後に。
『ミリアと一緒に書く』
ペンを置く。
扉の外から、声がした。
「寝ろ」
「はい」
「中間報告書を書き始めたな」
「はい」
「書きすぎるな」
「今日は序文だけです」
「本当か」
「ミリアに止められました」
「よし」
なぜか、とても満足そうだった。
「宰相閣下」
「何だ」
「中間報告書に、人の声を入れるというのは、とてもよいと思いました」
「そうか」
「数字だけでは、変わったものが見えませんでした」
「人の声は、制度の温度だ」
セレスティアは、その言葉を聞いて黙った。
制度の温度。
また、報告書に入れたくなる言葉だ。
「それも書いてよいですか」
「書きすぎるなと言った」
「一文だけ」
「明日だ」
「……はい」
扉の向こうで、少しだけ笑う気配がした。
「寝ろ。温度を測る者が熱を出すな」
「うまいことをおっしゃったつもりですか」
「事実だ」
セレスティアは笑ってしまった。
「はい。寝ます」
灯りを落とす。
王妃基金実務講習は正式化へ進む。
そして、中間報告書が始まる。
成果を隠さず、課題をごまかさず、次の方針を曖昧にしない。
そこに、人の声を残す。
王妃基金が、冷たい紙ではなく、温度を持つ制度になるように。
セレスティアは、その一文を胸の中で温めながら目を閉じた。




