第36話 私は、王宮会議で改革案を説明しました
王宮会議の間は、いつ来ても息苦しい。
高い天井。
古い王家の紋章。
壁に掛けられた歴代国王の肖像画。
磨き上げられた長机。
人の声はよく響くのに、本音だけは吸い込まれて消えるような場所だった。
セレスティアは、扉の前で一度だけ息を整えた。
今日、この部屋で王妃基金改革案第二稿について説明する。
出席者は多い。
王弟宰相カイン。
王宮会計室のローレン副監。
法務官オルド。
儀礼局長。
数名の保守派貴族。
王太子府代表としてジュリアスと侍従長。
王妃基金に関わってきた貴族夫人代表としてローゼン侯爵夫人。
そして、活動一時停止中の王太子妃候補、リリアナ・エルフォード。
リリアナは正式な決定権者ではない。
けれど、当事者として意見を聞く必要があるとカインが押し通した。
それに反発した者もいた。
未熟だから一時停止している者を会議に出すのか、と。
だが、カインは一言で終わらせた。
「未熟な者がなぜ未熟なまま置かれたのかを確認する会議だ」
誰も、それ以上は言えなかった。
セレスティアは、手元の改革案第二稿を確認した。
表紙には、作成者名がある。
セレスティア・エルフォード。
その下に、法務局、王宮会計室確認中の印。
まだ決定稿ではない。
だが、もうただの私案でもない。
扉が開く。
会議の間へ入ると、視線が一斉に集まった。
好奇。
警戒。
同情。
反発。
期待。
そのどれもが、肌に触れるようだった。
以前なら、こんな場で前に立つだけで息が詰まっただろう。
王太子妃候補として失敗しないように。
父に恥をかかせないように。
ジュリアスの立場を損なわないように。
そんなことばかり考えていた。
今日は違う。
緊張はしている。
だが、自分が何のためにここにいるのかは分かっていた。
王妃基金を、本来の場所へ戻すため。
自分の名前を、制度の中で二度と雑に使わせないため。
そして、次にこの場所へ立つ誰かが、分からないまま頷かなくて済むようにするため。
カインが上座から言った。
「始める」
その一言で、ざわめきが消えた。
法務官オルドが簡単に経緯を説明する。
王妃基金関連文書の不正使用疑い。
署名欄切り貼り。
略式確認印。
慈善茶会の目的変質。
王太子府引き継ぎ不備。
すべてを細かくは語らない。
しかし、必要な骨は外さない。
説明が終わると、カインがセレスティアを見る。
「セレスティア・エルフォード。改革案第二稿の説明を」
「はい」
セレスティアは立ち上がった。
長机の先にいる人々の顔が見える。
ジュリアスは静かに座っていた。以前より少し疲れている。だが、こちらから目を逸らしてはいない。
リリアナは緊張で顔を白くしていた。手元に王妃基金規程の写しを置き、膝の上で指を握っている。
ローゼン侯爵夫人は、まっすぐこちらを見ている。目で「やりなさい」と言っていた。
セレスティアは資料を開いた。
「王妃基金関連行事および慈善茶会運営改革案第二稿について、ご説明いたします」
声は、思ったより落ち着いていた。
「本改革案の目的は、王妃基金を社交的名誉や王太子府の体面を飾るためではなく、支援対象へ必要な支援を届ける制度として再整備することです」
儀礼局長の眉が、少し動いた。
セレスティアは続ける。
「亡き王妃陛下の覚書には、慈善茶会は貴族の善意を見せる場ではなく、普段届かぬ声へ耳を向けるための場である、と記されています。本案は、その理念を運営手順に戻すものです」
最初の頁をめくる。
「第一に、すべての王妃基金関連行事において、案内状および冒頭挨拶に支援目的、支援対象、該当支出の基金上の位置づけを明記します」
保守派の伯爵が、早速口を挟んだ。
「茶会の案内状が、会計報告のようになっては品位を損なうのではありませんか」
セレスティアは、そちらを向く。
「会計報告を案内状に載せるという意味ではありません。たとえば、北方産品を用いる茶会なら、それが珍しい菓子であることだけでなく、越冬支援と現地産業支援の一環であることを一文で示す、ということです」
「一文で足りると?」
「足りる場合もあります。足りない場合は別紙を付けます」
伯爵は少し不満そうだったが、黙った。
セレスティアは二つ目の項目へ進む。
「第二に、地方産品を用いる場合、購入先、購入価格、支援意義を記録します。支援を名目にした高値購入、または贈答品費の混入を防ぐためです」
ローレン副監が補足する。
「これは会計室としても必要と見ています。今回の監査では、地方産品支援と王太子府社交費の境界が曖昧になった例が複数確認されています」
その言葉で、何人かがジュリアスの方を見た。
ジュリアスは表情を変えなかった。
だが、その手が机の上でわずかに動いたのを、セレスティアは見た。
次の項目。
「第三に、慈善茶会費、王太子府社交費、広報費、外交儀礼費を明確に区分します。複数目的を持つ行事については、支出比率、承認者、目的確認者を記録し、承認と目的確認を一人に集中させないものとします」
ここで儀礼局長が口を開いた。
「理屈は分かります。しかし、王宮行事には即応が求められる場面もあります。逐一そのような確認をしていては、現場が硬直する」
「硬直を避けるために、標準手順を作ります」
セレスティアは、用意していた別紙を示した。
「確認済みの支出類型については簡易手順を認めます。ただし、目的外支出、個人衣装、贈答品、社交費との境界にあるものは、必ず確認対象とします。現場を止めないためには、何を止めるべきかを事前に決める必要があります」
ローゼン侯爵夫人が、静かに頷いた。
儀礼局長は、不満げではあったが、即座には反論しなかった。
そして、問題の項目に入る。
「第五に、王太子妃候補、妃候補代理、慈善茶会担当者への教育制度を設けます。内容は、王妃基金規程、会計区分、支援先聞き取り、地方産品支援、職責範囲、そして確認保留権です」
会議の間が、少しざわついた。
拒否権から名称を改めたとはいえ、確認保留権という言葉もまだ新しい。
保守派の老侯爵が、低い声で言った。
「確認保留権。いかにも新奇な言葉だ。候補者が判断を保留するたびに、王宮の決定が遅れるのではないか」
セレスティアは、資料を閉じずに答えた。
「確認できないまま進めた結果、今回の問題が起きました」
静かな声だった。
会議の間が、さらに静かになる。
「署名欄の切り貼り、略式確認印、本人未確認の引き継ぎ資料、王妃基金と王太子府社交費の混同。これらは、誰かがどこかで『確認できません』と言える手順を持っていれば、早期に止まった可能性があります」
老侯爵は眉をひそめる。
「だが、王家に仕える者は、まず従うことを学ぶべきではないか」
その言葉に、リリアナの肩が小さく跳ねた。
セレスティアは、一瞬だけ妹を見た。
それから、老侯爵へ視線を戻す。
「従うことは、必要な場面があります」
あえて否定しなかった。
「ですが、確認なき従順は、制度上の危険です。王家の名で誤った支出を行い、本人の意思に反した署名や確認を通すことは、王家への忠誠ではありません」
会議の間に、ペンの音が響いた。
誰かが記録している。
セレスティアは続ける。
「確認保留権は、反抗の権利ではありません。責任から逃げるためのものでもありません。確認不能な状態で責任を負わされることを防ぎ、正しい確認先へ照会するための手続きです」
そこで、ローゼン侯爵夫人が口を開いた。
「私からもよろしいかしら」
カインが頷く。
「発言を許可する」
夫人は、ゆっくり全体を見回した。
「私は、亡き王妃陛下の茶会を何度も見ております。王妃陛下は、従順な人形をお望みではありませんでした。むしろ、分からないことを分からないと申せる者を重んじておられた」
老侯爵が少し顔をしかめる。
ローゼン侯爵夫人は気にしない。
「確認保留権という言葉に驚かれる方々は、確認できないまま頷いた者が、後でどれほど重い責任を負わされるかをお考えになるべきです」
その一言は、会議の空気を変えた。
ローゼン侯爵夫人の発言は重い。
彼女は単なる改革派ではない。古い社交界を知る人物であり、亡き王妃の友人でもある。
その彼女が、確認保留権を支持した。
保守派の反論は、少し鈍った。
そのとき、リリアナが小さく手を上げた。
会議の間がざわつく。
リリアナは顔を白くしながらも、手を下ろさなかった。
カインが言う。
「リリアナ・エルフォード。発言を許可する」
「ありがとうございます」
声は震えていた。
けれど、聞き取れた。
リリアナは立ち上がり、手元の紙を見た。
「私は、王妃基金の実務を十分理解しないまま、王太子妃候補として慈善茶会に関わろうとしていました」
会議の間が、さらに静かになった。
自分の不足を公式の場で言う。
簡単なことではない。
セレスティアは、妹から目を逸らさなかった。
「王太子府から渡された資料は、私にとって分かりやすいものでした。花や菓子、挨拶の例がありました。でも、基金の規程や、支援対象の声をどう聞くかは、ほとんど分かりませんでした」
リリアナは、一度言葉を切った。
指が震えている。
それでも続けた。
「私は、そのとき『これでいいのですか』と聞きませんでした。聞くべきだとも思いませんでした。周囲も、私が分からないまま進むことを止めませんでした」
老侯爵は、何か言いたげだったが黙っている。
「だから、確認保留権は必要だと思います。候補者が偉そうに拒むためではありません。私のように、分からないまま頷いてしまう者が、立ち止まるためです」
リリアナの声が少しだけ強くなった。
「分からないと言える手順がなければ、未熟な者ほど周囲に流されます。私は、流されました」
その言葉は、会議の間に重く落ちた。
セレスティアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
リリアナは、逃げなかった。
自分の未熟さを、制度の必要性として語った。
それは、以前の妹からは想像もできなかった姿だった。
ジュリアスは、静かにリリアナを見ていた。
その顔には、痛みと驚きと、わずかな誇らしさが混じっていた。
リリアナは最後に頭を下げた。
「以上です」
座るとき、少し足元がふらついた。
すぐ近くの侍女が支えようとしたが、リリアナは小さく首を振り、自分で座った。
セレスティアは、その姿を見届けてから資料へ視線を戻した。
カインが、低く言う。
「王太子殿下。意見は」
ジュリアスは、少しだけ間を置いて立ち上がった。
「王太子府として、確認保留権の導入を支持します」
会議の間がざわついた。
王太子本人の支持。
それは大きい。
ジュリアスは続ける。
「今回の件で、王太子府は確認を軽んじました。私自身も、知らないまま進めることを許していました。確認保留権は、王太子府の権威を損なうものではなく、王太子府が誤った処理を行わないために必要な手続きです」
ぎこちない。
まだ硬い。
だが、自分の言葉だった。
セレスティアは、静かにそれを聞いた。
彼がここまで言う日が来るとは、少し前なら思わなかった。
だからといって、過去が消えるわけではない。
でも、彼もまた変わろうとしている。
遅すぎるとしても。
会議は、その後も続いた。
保守派はまだ抵抗した。
儀礼局は、確認保留時の式典進行について細かな懸念を出した。
会計室は、支出区分の実務負担について修正を求めた。
法務局は、署名と委任記録の形式をさらに厳密にするよう提案した。
ローゼン侯爵夫人は、茶会資料が堅苦しくなりすぎれば参加者が読まないと指摘した。
セレスティアは、すべてを記録した。
反論するところは反論し、受け入れるところは受け入れた。
改革案は、会議の中で削られ、補われ、少しずつ形を変えていった。
だが、核心は残った。
支援目的を明記すること。
会計区分を分けること。
略式確認印を禁じること。
候補者教育を設けること。
確認保留権を認めること。
その五つは、最後まで残った。
会議が終わる頃、窓の外は夕方になっていた。
セレスティアは、資料をまとめながら、肩に重い疲れを感じていた。
だが、不思議と心は折れていない。
むしろ、長い時間をかけて固まっていたものが少し動いた感覚があった。
ローゼン侯爵夫人が近づいてくる。
「よく説明なさいました」
「ありがとうございます」
「まだ揉まれますわよ」
「覚悟しています」
「よろしい」
夫人は満足そうに頷いた。
それから、少しだけ声を低くする。
「妹君も、よく言いましたね」
セレスティアは、リリアナの方を見る。
リリアナは会議室の隅で、王妃基金規程の写しを鞄にしまっていた。顔は疲れ切っているが、どこか少しだけ晴れたようにも見える。
「はい」
セレスティアは静かに答えた。
「よく言ったと思います」
その言葉を口にできたことに、胸が少し温かくなった。
リリアナが近づいてくる。
少し迷ったように立ち止まり、それから小さく礼をした。
「お姉様」
「リリアナ」
「あの……私の発言は、問題ありませんでしたか」
以前なら、褒めてほしいと言っただろう。
今日は、確認だった。
セレスティアは、少しだけ考えてから答えた。
「問題ありませんでした。あなた自身の経験から出た言葉でした」
リリアナの目が揺れる。
「ありがとうございます」
「ただし、次からは『私は流されました』の後に、どの場面で、何に流されたのかを少し具体的に言えると、制度提案としてさらに強くなります」
リリアナは一瞬きょとんとした。
それから、少しだけ笑った。
「はい。やっぱりお姉様は厳しいです」
「必要なことです」
「はい」
その返事は、以前より素直だった。
甘えていない。
受け止めようとしている。
セレスティアは、それ以上何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
それだけで、今は十分だった。
ジュリアスも近づいてきた。
リリアナが少し身を固くする。
セレスティアも、自然と背筋を伸ばした。
ジュリアスは、二人を見てからセレスティアに言った。
「今日の説明は、分かりやすかった」
「ありがとうございます」
「……以前、君が私に説明してくれていたことを、私はあまり聞いていなかったのだな」
その言葉は、不意に来た。
セレスティアの胸に、少しだけ痛みが走る。
だが、彼女は静かに答えた。
「聞いていただけていれば、防げたこともあったと思います」
ジュリアスは目を伏せた。
「そうだな」
言い訳しなかった。
それだけで、以前とは違う。
けれど、セレスティアはそれ以上踏み込まなかった。
今は、会議後の社交ではない。
改革案を前へ進めることが先だった。
その夜、宰相府の机で、セレスティアは改革案第三稿への修正点をまとめていた。
会議で出た意見。
儀礼局の懸念。
会計室の補足。
法務局の形式案。
ローゼン侯爵夫人の助言。
リリアナの当事者発言。
ジュリアスの王太子府としての支持。
紙は山のようにある。
だが、以前のようにその山に押し潰される感じはしなかった。
これは、誰かに押しつけられた仕事ではない。
自分が必要だと思って引き受けた仕事だ。
だから重くても、意味がある。
カインが扉のところから声をかける。
「今日はそこまでだ」
「あと一項目だけ」
「三項目になる」
「……一項目で止めます」
「信用しない」
セレスティアは苦笑した。
「信用がありませんね」
「実績がある」
「否定できません」
素直にペンを置いた。
カインが少しだけ満足そうに頷く。
「今日の説明はよかった」
「ありがとうございます」
「特に、確認なき従順は危険、というところだ」
「あれは、少し強すぎたかと思いました」
「強くていい」
カインは静かに言った。
「柔らかい言葉で隠されてきたものを変えるには、時々強い言葉がいる」
セレスティアは、その言葉を胸にしまった。
今日の覚書を書く。
『確認なき従順は、制度上の危険』
次に。
『リリアナは、公式の場で「私は流されました」と言った』
少し迷って、さらに一行。
『私は、それをよく言ったと思った』
ペンを置く。
引き出しを開け、紙を重ねる。
今日の紙は、少し温かい気がした。
扉の外から、カインがまた言う。
「寝ろ」
「はい」
「明日から第三稿だ」
「はい」
「揉まれるぞ」
「折れません」
「よし」
灯りを落とす。
王宮会議は終わった。
だが、改革はこれからだった。
反発も残っている。
調整も山ほどある。
父の問題も、王太子府の再監査も、完全には終わっていない。
それでも今日、セレスティアは公式の場で自分の案を説明した。
リリアナは、自分の未熟さを制度の言葉にした。
ジュリアスは、確認保留権を支持した。
小さくはない一歩だった。
セレスティアは、目を閉じる前に思った。
私の名前は、もう切り取られるだけの署名ではない。
制度を変える紙にも、置くことができる。




