第1話 噂の一年生
大学に入って三度目の春は、あっという間に過ぎていった。ゴールデンウィークも終わり、学内にはどことなく気だるげな空気が漂っている。
「ふわああ……」
キャンパスの一角に設置してあるベンチに座り、大きく欠伸をした。今の時刻は十二時過ぎで、周りを見渡せば午前の講義を終えた学生たちが多く行き交っている。
「ねむ……」
右手で目のあたりをこすって、眠気覚ましに努める。昨日も遅くまでバイトに出ていたから眠くて仕方がない。今日も夜勤だし、仕事中に寝てしまいそうだ。……なんて、心配する前に昼飯にするか。
手元の袋からおにぎりを取り出し、アルミホイルを剥がす。しなしなの海苔に包まれたそれにかぶりつこうとした瞬間、穏やかな風が吹き抜け……思わず顔を上げる。
「えっ……」
――見間違いかと思った。可憐な雰囲気をまとった少女が、輝くような黒髪をたなびかせ、自分の目の前を横切っていたのだ。まるで季節外れの桜吹雪が舞っているみたいで、息を呑んでしまう。
淡い色のブラウスと黒いロングスカートが、細身のスタイルによく似合っている。まだあどけなさを残す顔立ちも、むしろ洒脱な風格を引き立たせているように見えた。
「ねえ、矢吹さ~ん!」
いかにも軽薄そうな男の声が、俺を現実世界へと引き戻した。そうだ、矢吹という名字だった気がする。皆の注目を集める美姫が一年生にいると、噂には聞いていたが……実際に姿を見るのは初めてだな。いいとこのご令嬢という話だけど、たしかにそんな雰囲気を感じる上品さだ。
「矢吹さんっ、お昼一緒にどうっ? どっか食べに行かないっ?」
「ええと……」
まだらな金髪の男に詰め寄られ、矢吹は困ったように苦笑いを浮かべている。綺麗なだけあって、やっぱり近寄ってくる男は多いんだろうな。
「お誘いは嬉しいんですけど……私、お友達と約束しているので」
「え~? いっつもそうじゃん! たまにはよくね?」
「また誘ってください。じゃあ、失礼します」
矢吹はにっこりと笑い、会釈してその場を立ち去ろうとする。しかし次の瞬間、男が強引に矢吹の右腕を掴んだ。
「きゃっ!」
「ねえっ、いいじゃんってば!」
「ちょっと、困りますっ……!」
「いい店知ってるからさ! ねっ、だからさあ!」
逃げようとする矢吹に対して、男は必死に追いすがっている。あまり見ていて気分の良い光景ではない。別に知り合いでも何でもないけど、流石に助け舟を――
「困りますって言ってるじゃないですかあっ!!」
「うええっ!?」
――次の瞬間、男が宙を舞っていた。何が起こったのか分からずにいたが、どうやら矢吹が大外刈りを決めたらしい。完璧な「一本」だな……。
「いてて……なっ、何すんだよ!?」
「こっちの台詞です。汚い手で気安く触らないでいただけますか?」
「きっ、きたなっ……!?」
情けなく地面に横たわる男に対して、矢吹は蔑むような目つきで見下していた。さっきとはまるで違う雰囲気に、背筋が凍るような思いがする。
「見た目だけ気にして中身がない男の人、嫌いなんです。金髪に染めたらお洒落だと勘違いしていませんか?」
「なっ、何だよ!?」
「じゃあ、失礼します」
矢吹は律儀にペコリと礼をして、学食のある建物の方へと歩き出した。俺はおにぎりを片手にしたまま、目の前で起こった出来事にただただあんぐりと口を開けるばかり。
「すごい一年生がいたもんだな……」
ああいう芯のある人間は嫌いじゃないけど、学年も違うしあまり関わる機会はないだろう。あんなに綺麗な子とお近づきになれるのはどんな男なのかな、なんて。
優雅に歩く矢吹の後ろ姿を見送りながら、少し表面の乾いたおにぎりを口にしたのだった。
***
午後の講義を終えた俺は、いったん家に帰って仮眠をとった。午後十一時のシフトに合わせて再び家を出て、バイト先へと向かう。
「お疲れ様でーす」
「あっ、成樹くんお疲れ様ー!」
エレベーターを降りると、フロントに立っていた同僚が挨拶をしてくれた。俺の職場は、雑居ビルの三階にあるごく普通のネットカフェ。当然ながら二十四時間営業なので、こうやって夜のシフトに入るのも珍しくない。
「なんか引継ぎある?」
「いやっ、特にない……かな。着替えてきてよ、早く代わって~!」
「はいはい、分かった分かった」
やいのやいのと文句を言う同僚の横をすり抜け、足早に裏の事務所へと向かう。今日のシフトは……朝八時までか。明日の講義中に起きているのが大変になるけど、夜勤だと時給が高くなるからな。
ワイシャツの上に、制服代わりのエプロンを身にまとう。「若宮」という自分の名字が書かれた名札を胸につけ、パソコンで打刻をしてから事務所を出た。
「あー、成樹くんおそーい! 残業代ちょーだい!」
「俺じゃなくて店長に言えって。じゃ、お疲れ様」
「じゃあっ、後はよろしくー!」
るんるんと嬉しそうな同僚の背中を見送りつつ、改めてフロントに立つ。他にも何人か勤務に入っているはずだが、姿が見えない。ブースのバッシング(要するに清掃)にでも行っているのだろう。
「さて……」
店内の管理端末を兼ねたレジスターの画面を見ると、既に多くのブースが埋まっているようだった。もう夜遅い時間だし、大半はこのまま朝まで泊まっていくお客だろう。
一時期、ネカフェ難民という言葉が話題を呼んだことがある。様々な事情から決まった住居を持つことが出来ず、ネットカフェに寝泊まりし続ける人たちのことを指す言葉だ。社会問題として大きく取り上げられたこともあったが……状況は今も変わっておらず、この店にも多くの「難民」が住んでいる。
「成樹くん、帰るねー!」
「またなー」
いつの間にか着替えを終えていた同僚が、こちらに手を振りながらエレベーターに乗っていった。それと入れ替わるようにして、スーツケースを引いた女性が店内に入ってくる。お客様だな。
「いらっしゃいませー」
女性は黒いコートを着てハンチング帽を目深に被っており、顔がよく見えない。ちょっとだけ身構えてしまうけど、強盗がこんな大荷物を引きずってくるわけもないか。
「お席、お決まりですか?」
「……」
声を掛けても、女性は不安そうにきょろきょろと周りを見回すだけ。あまりネットカフェを使い慣れていないのだろうか。
「当店のご利用は初めてでしょうか?」
「は、はい。えっと、その……しばらく、住みたいんですけど」
「しばらく、と申しますと」
この人もわけありの「ネカフェ難民」だろうか。声からして若そうだし、身なりも綺麗なのに……いや、見た目で判断してはいけないよな。それに、客の事情に深入りするのはご法度というもの。
「い……一か月」
「へっ?」
「いや……一年かも。それでも大丈夫ですか?」
「料金をお支払いいただければ問題ありません。会員登録の必要がありますので、まずお名前を――」
頂戴します、なんて言おうとした瞬間だった。帽子の下に見える素顔に、ハッとして驚いてしまう。愛嬌のある顔立ち、さらりと流れる黒髪、洗練された所作。そう、このお客はまさしく――
「矢吹彩夜、です……」
昼休みに見かけた、噂の一年生だったのだ。




