第1章 お下劣番組『午後はおもいっきり、生ラジオ!』
「佐野さん、中島みゆき、これでいいですか?」
「どれ?」
ADの加藤真一(25歳)がCDを詰め込んだ紙袋を持ってきた。
ディレクターの佐野和也(29歳)が紙袋からCDを一枚一枚取り出しチェックする。
わかれうた、ひとり上手、悪女・・・。
「ちっ。もう、『時代』がないじゃんかよ!」
「あ、いけね。忘れてた」
加藤が顔をあげた。
「なにやってんだよ!」
佐野の語気はいつになく荒い。
もうすぐラジオの生放送が始まる。
ここは、東京の民放放送局。
テレビとラジオの両方を持つキー局の一角にある、第一スタジオ――そのサブ・コントロール・ルーム、通称サブコンだ。
平日午後1時から4時までの三時間。
月曜から金曜まで毎日続く帯番組が、まもなく始まる。今日は水曜日だ。
この番組では、三時頃から電リクのコーナーがある。
リスナーからのリクエストに、その場で応える生放送だ。
本日は、中島みゆき特集。
だが――
「すいません。急いで資料室行ってきます」
「もう時間ねーから、俺の机の上にあるヤツ持ってこい!」
資料室は遠い。1時開始まで、もう時間がない。
加藤は「はい」とだけ言って、走り出した。
重い防音扉が、静かに閉まる。
サブコンには、もう一人のAD竹重道子(23歳)がいる。
電話の受話器を肩に挟んで、進行表をチェックしている。
相手が電話に出るのを待っている。
「で、ゲストは?」
佐野が椅子に座ったまま、ぶっきらぼうに聞いてきた。
「渋滞にはまってるそうです」
「間に合うのか?」
「近くまで来てるみたいですけど・・・」
「余裕持って来いっていうんだよ」
吐き捨てるような、佐野の物言い。
竹重は何も言わなかった。
この番組では、毎日2時頃からゲストコーナーがある。
本日のゲストは入り時間に遅刻しているようだった。
(2時には間に合うでしょ・・・)
と竹重は思った。
電話の相手が出た。
竹重は受話器に向かって、
「はい、一回目は開始直後です。宜しくお願いします」
受話器を置き、竹重は一応フォローを入れた。
「新人マネージャーさんが道に迷ったらしいですよ」
「新人?」
「みたいですけど」
「だから、駄目なんだよ!」
佐野はさらに不機嫌になった。
(あ~あ。しーらないっと)
そう思った竹重は、そのあとは独り言の様に、ぶつぶつと呟いた。
「大丈夫だと思いますよ。高崎さんが対応してましたから・・・」
CDを取りにいった加藤が頭を掻きながら戻ってきた。
「佐野さん、机の上にないんですけど・・・」
「はあ?昨日一緒に見ただろ! よく探したのか?」
「ええ、でも・・・」
「もういいよ・・・ったく、使えねーな」
佐野は立ち上がって足早に出て行った。
竹重は、その後姿を睨みつけながら、
「出た、使えねーな。私、あの言葉嫌い。イーだ」
思いっ切りしかめっ面をした。
加藤も大きくため息を漏らす。
「ふう~・・・ますます荒れてきたな」
「どうかしたんですか? 彼」
竹重の冷めた口調にも関わらず、加藤が嬉しそうに返してきた。
「それが、今朝から佐野さん、彼女さんと揉めて揉めて・・・」
加藤の話によると、
佐野のデスクには朝から頻繁に電話が掛かってきており、その度に佐野がご機嫌ナナメになっていったらしい。
その電話の相手が佐野の彼女であることが判明すると、加藤は何故か嬉しくなり、誰かに話したくってしょうがなかったようだ。
「ここだけの話だけど・・・」
加藤のお得意『ここだけの話』が炸裂しようとしたとき、
佐野がCDを手にして戻ってきた。
「加藤、ほらっ!」
佐野がCDを投げ渡す。
加藤受け取って
「あら、ありました・・・」
バツが悪そうな加藤だが、これはちょっと責めるのも可哀そうである。
そもそもディレクターの机の上などというものはゴミ屋敷みたいなもので、新聞・雑誌・本・CDが山の様に重なり合っている。本人には一応の整理がついているようだが、他人から見ると、なんのこっちゃわからん状態になっている。佐野の机もやはりそうであった。
ディレクター席にドスンと腰掛けながら、佐野はまた吐き捨てるように言った。
「使えねえ、ったく・・・」
竹重がピクッと反応した。この言葉が本当に嫌いだった。
サブコン内の固定電話が鳴り竹重が出た。
すると、なんと佐野の彼女であった。
この時代、まだ携帯電話がそれほど普及しておらず、ほとんどの人が持っていなかった。勿論、佐野も持っていない。
彼女が佐野に連絡を取るときはデスクに電話するのが通例である。
放送前のサブコンに掛けてくるなんてことはありえない。
だが、この日はそうではなかった。
竹重はよほどの緊急事態か。と少々戸惑いながら佐野に取り次いだ。
すると、竹重以上に戸惑った佐野は受話器を引き千切るかのように奪い取った。
「おいおい何考えてんだよ。こっちに電話してくるなよ。放送前だぞ!」
叱り付けたつもりの佐野であったが、すぐに反撃を食らってしまったようである。
いきなり声のトーンがガクッと落ちた。
「いやいや・・・だから、約束したのは覚えてるって・・・いや、それもそうだけど・・・もしかしたらの話だよ・・・」
AD加藤とAD竹重は唖然としてしまった。
何故なら、生放送直前に、スタジオのサブコンで、
ディレクターが痴話喧嘩を始めたのである。
二人共「ありえない」と思った。
そこに番組アシスタントの小俣潤子(31歳)が入ってきた。
いつものよく通る声で、小俣の挨拶が響く――おはよう御座いまーす。
すかさず小俣を制す加藤と竹重――「しー」
小俣、一瞬フリーズする。
「何かあったの?」
加藤と竹重が佐野を指さす。
佐野は明らかに三人を意識しつつ背中を向け電話をしている。
「もうすぐ放送始まるから、4時過ぎに掛け直してくれよ・・・ここでいいよ・・・だって逃げようがねえじゃん。・・・だから、取材に行かなきゃいけないかもしれないんだよ。そうなったら今週は無理だって・・・」
小俣は、加藤と竹重の袖を引っ張った。
「ちょっと来て」
有無を言わせず、二人を引きずる。
重い防音扉が開き、三人はスタジオへなだれ込んだ。
マイクとテーブルのある空間。ガラス越しに、サブコンが見える。
佐野の背中が、そこにあった。
佐野がどんどん肩をいからせ、受話器を握る手にも、力が入っていくのがわかる。
「だれ?だれ?」小俣が聞いた。
「彼女さんです」竹重がさらっと答えた。
「揉めてる、揉めてる」加藤は嬉しそうだった。
「なに、なに、どうしたの? どうしたの?」小俣も嬉しくなったみたいだ。
小俣の喰いつきがいいので、加藤はここぞとばかりに、伝家の宝刀を抜いた。
「しょうがないな~、ここだけの話ですよ」
「出た」
加藤のお得意『ここだけの話』に対する、竹重の突っ込み『出た』は、最早お約束の域に達していた。この『出た』を聞くと、加藤のギアは何故か一速上がる。
「それが、今朝から佐野さん、彼女さんと揉めて揉めて、この有様なんです」
「どうして?」
「今週の日曜、ご両親に挨拶に行くことになってたらしいんですよ」
「挨拶って?」
竹重が素っとん狂に聞いた。
「鈍いわね・・・僕にお嬢さんを下さいってやつよ」
小俣はカンが鋭い。
「あら」
竹重は手で口を押さえて、目を見開いた。しばらくフリーズする。
加藤がまたギアを上げた。
「ほんとはおめでたい話なんですよ。ところが佐野さん、今週の日曜、急に行けなくなった。なんて言い出したらしいんですよ。取材の予定が入ったとか何とか言っちゃって・・・」
まるで、近所のオバちゃんのようだ。
「なら、しょうがないんじゃない」と小俣。
「うそうそ・・・そんな予定ない。まずこの番組ではありません。他の佐野さんが担当している番組全てにあたりました。今週の日曜? どこも取材の予定なんか入ってませんよ」
「やだ。裏とったの? あんた」
小俣は若干引き気味になった。
「もちろん」
加藤は満面の笑みだ。
「何でそんな嬉しそうなの?」
「なんででしょう?」
「知らないわよ。私に聞かないでよ」
「僕の見立てでは、佐野さんビビッてる。土壇場で・・・彼女さんのお父さん、かなり怖いらしいんですよ」
これには小俣も激しく反応してしまった。
「何よ情けない!・・・大体まだ水曜よ。ビビるの早くない?」
「佐野さんらしいでしょ」
「で、彼女はいくつなの?」
「佐野さんのニコ上だから三十一」
「私と一緒じゃない。そりゃ怒るのも無理ないわよ」
小俣の眉間に皺が寄った。
竹重がフリーズを解いて口を開いた。
「彼女さん、電話口ですごい剣幕でしたよ」
――おはよう、ざーす。
アナウンサーの川久保賢二(38歳)がスタジオに入って来た。
加藤と竹重は、蜘蛛の子を散らすようにサブコンに戻った。
神聖なるスタジオの中で、噂話をしている自分達の愚かさに、ハッと気が付いた。
この番組のメインパーソナリティはアナウンサーの川久保。
アシスタントが小俣潤子。出演者はこの二人。
3時間の放送の間にはゲストが来たり、電リクがあったり、街角中継コーナーがあたっりするが、基本的にはこの二人の楽しいお喋りで番組は進行する。
スタジオの中には大きなテーブルがあり、それを挟んで二人は向かい合って座る。
放送直前のこの時間は、お互いに進行表の確認や今日読むハガキのチェックをするのが日課になっている。小俣がハガキに目を通しながら大きくため息を吐いた。
「はあ~・・・」
川久保は無視することも出来ず、
「ため息深いね」
「男の人ってなんであんな嘘ばっかりつくのかしら・・・」
「男の俺に言われてもなあ・・・」
「あったま来ちゃう、もう」
「例の不倫の彼氏?」
「奥さんと別れるって、いつから言ってると思います?」
「いつからだっけ?」
「3年前」
「誰だか知らないけどさ、やめた方がいいんじゃない。そろそろ・・・」
「はあ~・・・」
小俣のため息が一段と深くなった。
が、思い出したかのように
「そう言えば二時のゲスト、榊原理恵子さんですよね。面識あります?」
「あるよ」
「面白いですよね『毎日おかあちゃん』のアニメ・・・子育てって大変」
「なんか知らない間に大先生になっちゃったな・・・昔はさぁ、ラジオでくだらない下ネタばっか言ってたけどね・・・」
「そうなんですか?」
「下ネタには定評のある人だからね」
「わっ! 負けないようにしよ」
小俣が何故か気合を入れた。両の拳を握って、胸に引き付けた。
サブコンにプロデューサーの高崎洋一(41歳)が入って来た。
放送当日の番組事体を仕切るのはディレクターの役目だ。
一方、プロデューサーは予算管理などが主な役目であり、当日の仕事といえばゲストの送り迎えぐらいなもので、結構暇である。
ところが今日のゲストが遅刻しているため、高崎もバタバタしていた。榊原理恵子の新人マネージャーが道を間違えて渋滞に巻き込まれてしまった。高崎は自分のデスクから榊原の自動車電話に連絡をとり、渋滞から脱出できるように裏道を案内することで終始していた。
どうやら一段落ついたみたいだ。
高崎は椅子に腰掛けながら言った。
「あそこ混むんだよな、この時間・・・」
佐野が不安気な表情で、
「榊原さんですか?」
「何とか脱出したから大丈夫だろ。2時には間に合うよ」
「ご苦労様です」
ペコっと頭を下げる佐野。
本番1分前。
構成作家の倉橋銀太郎(47歳)がサブコンに駆け込んで入ってきた。
「ボッキー、ボッキー」
銀太郎が慌てた様子で、アナウンサーの川久保を手招きして呼ぶ。
スタジオからサブコンに走ってくる川久保。
銀太郎が川久保に何かを手渡し、耳打ちする。
川久保は頷いて、走ってスタジオに戻った。
佐野が銀太郎に聞いた。
「何ですか?」
「小ネタ、小ネタ・・・見といて」
そう言って、銀太郎は空いてる椅子に座った。
佐野の椅子の前にはディレクター用のマイクがあり、本番中はこのマイクを使ってスタジオの中にいる出演者に支持を出す。出演者は各自イヤホンを付けており、ディレクターからの指示を受ける。
佐野がマイクに向かって
「そろそろ本番はいります」
CMが時を告げる。
「コンビニマートが一時をお知らせします」
佐野、スタジオにキューを振る。
「さ、一時になりました・・・ということでね、今日はこういうものを持ってきました」
川久保は手にスルメを持っている。
小俣はキョトンとして
「あら、スルメ・・・」
「うん、スルメだね・・・ビショ子、ちょっと匂い嗅いでみようか」
小俣、怪訝な表情をして、
「え、なに、やだ。怖い・・・」
と言いつつも、匂いを嗅いでみる小俣。
「わっ、イカ臭い」
思わず眉をしかめた。
「あれ、君はイカ臭いのは嫌いだったっけ?」
川久保が突っ込む。
小俣、何かに感付き、
「え? あれ? 嫌い・・・じゃないかな?」
「そうだろ、そうだろ。嫌いじゃないだろ。もう一度嗅いでみようか。オイニーを」
そう言われ、もう一度鼻を近づけて匂いを嗅ぐ小俣。
今度はがらりとリアクションが変わり、色っぽい声を出して反応した。
「クンクン・・・いや~ もう~ イカ臭いいい・・・」
甘ったるい声を出しながら、体をクネクネする小俣。
「食べちゃダメだぞ。オイニーだけだぞ。オイニーだけ」
「ダメよ~。こんなところで、イカ臭いなんて~」
「だって、スルメだもん」
サブコンでは佐野が銀太郎に握手を求めている。なるほど、小ネタっていうのはこういうことでしたか。という意味である。
加藤も手を叩きながら大笑いしている。
「くだらねえ、くだらねえ・・・」
スタジオに向かって、両手で丸を作りOKサインを出す銀太郎。
「さすがビショ子、いいリアクションするね~」
プロデューサーの高崎だけが何故か無表情で椅子に座っている。
周囲の笑いが続く中、高崎だけ動かない。
竹重が受話器を手にして叫んだ。
「中継、スタンバイOKです」
スタジオでは川久保のテンションが一気に上がり、タイトルコールに突入した。
「さあ、参りましょう。日本一サイテーな番組をお昼から生放送。お下劣アナウンサーのボッキー川久保と」
「アシスタントの小俣潤子がお送りします」
「毎回言いますが、潤子の潤は、潤うという字です。信じられますか、皆さん、そんな名前付ける親がいるんですな~、世の中には・・・」
「もう、うるさい」
「いっそのこと、小俣ビショ子に改名しなさいと言うとるだろうが」
「ほっといてー」
「公序良俗に反する不謹慎ラジオ。四時まで生放送でお送りします」
「午後はおもいっきり」
「生ラジオ!」
番組テーマソングが流れる。
少しおいて川久保がしゃべり出す。
「さて今日は、2時のゲストにタレントで人気漫画家の榊原理恵子さんが来てくれます」
「榊原さんって、昔この局で番組やってましたよね」
「そうそう、しょーもない下ネタとバクチの話ばっかり言ってたっけ・・・」
「賭け事、凄そう・・・」
「凄いなんてモンじゃないよ。パチンコと麻雀で何千万もすってるからね・・・」
「わあ、何千万も?」
小俣もさすがに驚いた。
「今日もどぎつい話が飛び出るんじゃないかな」
川久保が締めると、
小俣がアシスタントらしい口調になって、
「そんな、本日のゲスト榊原理恵子さんへのご質問を、電話とファックスでどんどん受け付けております。電話は×××まで、ファックスは×××までです。番組に対するご意見ご希望もお待ちしております」
「中継入れます」
サブコンのディレクター佐野から指示が入った。
川久保は、ガラス越しに佐野と視線を合わせた。
「それでは、街角中継コーナーのレポーター、ハブちゃんを呼んでみましょう・・・ハブちゃんは今日は何処にいってるのでしょうか?」
川久保と小俣、二人で一緒に呼びかける。
「ハブちゃ~ん」
「はいはい~、タレ目でぽっちゃり、ハブちゃんで~す。ボッキーさん、ビショ子さん、本日は武蔵小山の商店街に来ております。いや~、ここの商店街はいつ来ても賑やか。活気がありま~す」
「ハブちゃん、今日はそこで何をやるんですか?」
「きょーは、久々にパンチラ野球拳やりま~す。僕とジャンケンして勝ったら賞金1万円。負けたらパンチラを披露して貰うという、おなじみの人気コーナーで~す」
「出ました、パンチラ野球拳」
「これってラジオでやる意味あるのかしら」
小俣が元も子もない突っ込みを入れる。
ハブちゃんが返す。
「ビショ子さ~ん、そんな事言っちゃダメよ。僕の出番が無くなっちゃうでしょ。いいですか、これからのパンチラは見るモノではなく、聞くモノであると、いつも言ってるでしょうが。色、柄、質感を僕がビシッとレポートしますので、ラジオをお聞きのお父さん、今日も思いっきり妄想して下さいよ。こちらでは先程から、豆腐屋と魚屋のオヤジさんが、商売ほったらかしてワクワクしております」
小俣、ガクッとずっこけながらも、
「まったく~、お仕事も頑張って下さいって言っといて・・・」
「とにかく、我こそはと思うパンチラ自慢の方は、本日はここ、武蔵小山商店街に集まってくださ~い。大体三時半からのコーナーですから、まだまだ時間に余裕ありますからね~」
「ハブちゃん、参加できるのは、二十歳以上の女性限定ですよね」
川久保が聞いた。大事な情報だ。
「その通りで~す。特に若い女性の方、お待ちしておりま~す。それと、おパンティーは新しいのに履き替えて来て下さいね~。公衆の面前でさらけ出すことになりますので、ビショ子さんみたいに、三日間も穿きっぱなしなんてのは困りますよ~」
「ほっといて。私のは彼氏の趣味なの~」
「知るか! そんなこと~。――それじゃあ、また、のちほど」
小俣のボケにハブちゃんが突っ込み、中継は終了した。
サブコンでは笑いが続いている。が、高崎だけが、動かない。
スタジオでは川久保が引き取って、
「今日の中継は武蔵小山商店街からということでした・・・大体、三時半から、パンチラ野球拳をやりますのでお集まり下さい」
小俣が続いて
「それでは一曲行きましょう。本日の電リクはこの方の特集ですね。中島みゆきで、時代」
曲が流れ始めた。
スタジオの緊張が、ふっと緩む。
サブコンでも、誰もが一瞬だけ肩の力を抜いた。
――1995年。
この年、日本は未曽有の出来事に見舞われていた。
一月。阪神・淡路大震災。
崩れ落ちた高速道路の映像が、繰り返し流れた。
三月。地下鉄サリン事件。
何が起きているのか、誰にも分からなかった。
やがて、それが無差別テロだと知る。
五月。教祖の逮捕。
そして六月――。
さらに、日本中を震撼させる事件が起きる。
このスタジオにも、そのニュースは届く。
時は、1995年6月。
――まだ誰も、この日の出来事を知らない。
プロデューサーの高崎が椅子にもたれ掛かったまま、大きなため息を吐いた。
「ふぅ~・・・」
マイナスオーラが全開だ。
佐野が立ち上がって、高崎に近づき小声で話しかける。
「高崎さん、やめてくださいよ。そういうの・・・」
「おう、すまんすまん・・・」
「プロデューサーがそんなんじゃ、現場の士気が下がりますから」
「分かってるよ」
高崎は悩んでいた。深く悩んでいた。
なぜ自分は、こんなお下劣番組を作っているのか。
問題は、この番組が、『数字を取っている』ことだった。
先日、佐野と打合せのつもりで飲みにいった時、飲み過ぎたついでに番組の愚痴を散々ぶちまけてしまった。プロデューサーとしては大失態だった。
「俺は報道がやりたいんだ、報道が」
酔いつぶれた高崎を介抱しながら、佐野は思った。
――これが本音か。
それ以来、佐野は高崎の現場での態度が気になりだした。
高崎も佐野に対して、それ以来、萎縮した気持ちで向き合ってしまう。
「お前はいいよな。まだ若いから」と、高崎。
また始まった。と佐野は思った。
「分かりましたよ。それはまた、鴨鍋でもつつきながらやりましょうよ」
「はいはい・・・」
「それより、ゲスト大丈夫なんですか?」
「さて、榊原、迎えに行ってくるか」
高崎は立ち上がり、扉へ向かう。
防音扉が閉まると、気配だけが残った。
何となく二人の様子を伺っていた銀太郎が、佐野に囁いた。
「プロデューサー、調子悪そうだな?」
「ええ、悩み多き年頃なんですって」
佐野は冗談めかして答えた。が、現場の士気は明らかに下がっていた。
場の空気を変えようとして、銀太郎が口火を切る。
「分かるなあ。40過ぎると男は来るんだよ、いろんなモンが・・・厄年だろう、老眼が始まり・・・それから糖尿だよ」
指折り数える銀太郎に、加藤が喰いついた。
「血糖値が高いんですか?」
「甘い、素人はこれだから困る・・・血糖値だけで判断してはいかん。ヘモグロビンA1Cの数値がモノを言うのだ。6・5を超えたら危険だぞ」
「超えたんですか?」
「7・4」
銀太郎は胸を張った。
加藤は、いきなり銀太郎の手を握った。
「僕、尿酸値なんですよ」
「てことは加藤、お前は・・・」
「痛風です」
きっぱりと言った。
「その若さでか」
「はい」
銀太郎も加藤の手を強く握り返す。
――お互い頑張ろう。
見つめ合う銀太郎と加藤。
力を合わせれば乗り越えられないモノなどない。
とばかりに、二人の結束は固く結ばれた。
「なんの友情? これ?」
竹重が冷めた口調で突っ込む。
場の空気が和んできたところで、そろそろ曲が終わりに近づいてきた。
お忘れかもしれないが生放送中である。
中島みゆきの『時代』がエンディングを迎える。
佐野がマイクに向かって――「そろそろ曲終わります」
曲、フェードアウト。
佐野、キューを振る。
スタジオでは小俣が引き取って、
「中島みゆき、時代、でした」
川久保がテンション高めに、次のコーナータイトルを叫ぶ。
「さあ、それでは参りましょう。あなたの赤裸々な不倫事情をおもいっきり告白してもらいます。主婦の主婦による主婦のための『不倫でリンリン』のコーナー」
川久保と小俣で、
「奥さ~ん、今日も不倫してるか~い」
「イエ~イ」
「普段より大胆になってるぞ~」
「だって、旦那よりいいのよ~」
と掛け合いをする。ここまでがお約束である。まったくくだらないコーナーだ。
川久保が切り出す。
「と言うことで、現在不倫進行中のビショ子さん、どうなの?最近・・・」
「また、私の話から?」
「そりゃそうでしょ」
「実は、昨日もホテルに入るなり、いきなりパンストびりびりって・・・もう、野獣そのもの・・・今日から地方に行くからって」
「うわ、やらしい」
「でもね、こっちがその気になってきたら『俺の左利きがそんなに嬉しいか、俺の左利きがそんなに嬉しいか?』ってよく分かんない事言い出すの、よく分かんない事ばっかり・・・」
「奴は左利きなんだな」
「い~え、嘘つきです!・・・なんで男の人ってあんな嘘つきなんですか?」
小俣が熱くなった。
やばい、と思った川久保、
「はいはい、そこまで!・・・ビショ子も色々悩みがある見たいですけど・・・今日は先ず、ハガキが来てるんだって?」
「あ、そうそう・・・立川市のペンネーム、チョッチョリーナさんからです・・・ボッキーさん、ビショ子さん、こんにちわ。毎回楽しく聞かせて貰ってます。私もついに、不倫をしてしまいました・・・」
一方サブコンでは、先程出て行った高崎が原稿片手に血相変えて入って来た。
「佐野、佐野、報道センターから」
高崎が佐野に原稿を見せる
――えっ!
佐野は思わず声をあげた。
「たった今入ったニュースだ。速報だ」
佐野、マイクに向かって、
「川久保さん、速報です。今、原稿入れますから」
高崎が走ってスタジオに原稿を入れる。
ただならぬ緊張感があたりを覆いつくす。
スタジオの川久保、原稿を受け取って
「番組の途中ですが、臨時ニュースが入って参りました。本日、十一時四十五分頃、羽田空港発函館空港行きの大日本航空999便が山形県上空でハイジャックされました・・・」
「えっ!ハイジャック?」
小俣が思わず口走った。
「繰り返します。本日、十一時四十五分頃、羽田空港発函館空港行きの大日本航空999便が山形県上空でハイジャックされました・・・なお、飛行機はそのまま函館空港に着陸はしたものの、現在も、滑走路上で停止したまま、乗員乗客57名が人質になり膠着状態が続いているようです。犯人の正体は不明。具体的要求も今のところなく、人質の安否に関しても詳しい情報は入ってきておりません。機長からは『当機はハイジャックされた』との無線が入ったきり、管制塔からいくら呼びかけても今のところ返答はないとのこと・・・機内の状況はどうなっているのか? 犯人の目的は果たして何なのでしょうか?・・・この番組は予定を変更して、ハイジャック関連のニュースをお送りします。繰り返します・・・」
第1章 終




