救世主
睡蓮は、業霊武の粘着質な舌に捕らえられたまま、外国人墓地の冷たい地面にねじ伏せられた。
ガマの巨大な体躯と無機質な目が、睡蓮を見下ろす。睡蓮が身をよじらせて抵抗しようとするたびに、ガマは有無を言わさず、さらに強い力で彼女を押さえ込んだ。
我邪丸は、勝利の興奮に目を血走らせて、ゆっくりと睡蓮に近づいた。
「動くなよぉ。無駄に抵抗するとかえって痛くなるぞぉ。四肢をこれからじっくりもいでやる」
彼の残虐な予告と共に、我邪丸の長く鋭い爪が、睡蓮の頬をゆっくりと這うようになぞった。
睡蓮の顔に赤い線がつくと、そこから鮮血が一筋、滴り落ちた。
我邪丸は、その一滴の血を逃すことなく、爪の先についた睡蓮の鮮血を、まるで極上の酒でも飲むかのように、美味そうに舌で舐めとった。
ガマに押さえつけられ、我邪丸の爪に鮮血を流された睡蓮は、全身の麻痺と頭痛に耐えながら、心の中で弟への謝罪を繰り返した。
(なんて様だ。手も足も出ないとはまさにこの事だ。弟に申し訳がたたない)
彼女は、己の敗北と目前に迫った運命を悟った。その時、弟の悲劇的な死が脳裏をよぎった。
(優蛇。そういえばアイツも手足をもがれて亡くなったのだったな。姉弟同じ死に方とはな)
それは、運命の皮肉であり、悪魔の残酷な連鎖だった。しかし、睡蓮はそれを悪魔の仕業ではなく、自分の過ちだと責めた。
(イヤ、アイツを助けられなかった私の業だろう。すまない優蛇、本当にすまない)
睡蓮は静かに目を閉じた。その懺悔の表情を、我邪丸は鼻につくほど間近で、下卑た興味を持って眺めていた。
「観念したか? まずはどこから切り落とすかな。やっぱり鎌となった右手からか?」
我邪丸が睡蓮の右手に爪をかけようとした、その瞬間。
墓地の静寂を破り、軽薄だが力強い声が響いた。
「おいおい、たった一人のか弱いレディを大の男たちが寄ってたかっていたぶるつもりかい? 悪魔ってのはよっぽどのチキン野郎の集まりなんだなあ」
我邪丸は邪魔者の出現に苛立ち、声の主に怒鳴りつけた。
「誰だ? てめえは」
姿を現したのは、背広を肩にかけ、ふらふらと風に当たりに行ったはずの――アポロ・ゴールドだった。
彼は、手の中でトランプを器用に操りながら、アマン・デースと我邪丸のちょうど中間に、悠然と歩み出た。
「レディの手はとり、足下には跪くもんだぜ。切り落とすもんじゃねえよ」
睡蓮は、自分を助けに来たのがアポロであることを知り、絶望的な状況に彼を巻き込むまいと叫んだ。
「アポロ! 来るな、あなたの来る場所じゃない! 命にかかわるぞ!」
アポロは、捕らえられた睡蓮を一瞥すると、軽薄な笑みを浮かべた。
「泣かせてくれるね。だが、レディに心配されるほど酔いも回っちゃいねえ。素面だ。安心しな」
彼はそう言いながら、ふと睡蓮の言葉をからかうように訂正した。
「ってか、俺の心配より自分の心配しろよ」
我邪丸は、アポロの軽薄な態度に怒りを覚え、睡蓮を即座に始末することで格好つけの異人を絶望させようとした。
「格好つけやがって。そんな距離で何ができる。今すぐ絶望にかえてやるよぉ!」
我邪丸は、巨大な拳を睡蓮めがけて振り下ろした。
刹那、甲高い金属音と共に、我邪丸の振り下ろした右腕が、肘のあたりから完全に切り落とされた。
「グギャアアアア!!」
何が起こったのか理解できぬまま、我邪丸は激痛にのたうち回った。
この予測不能な事態に、黙って静観していた、アマン・デースが即座に動いた。
アマンは、魔力を込めた薔薇のツルをムチのように操り、そして炎を放ち、アポロに襲いかかる。
しかし、アポロの反応はさらに速かった。
アポロが投げつけたのは、数枚のトランプだった。
トランプは剃刀のような鋭さを持ち、薔薇のムチに正確に命中し、細かく寸断した。
アマンの放った炎は、アポロの着用している光る背広に触れた瞬間、何の痕跡も残さずにかき消された。
アマンが息を飲む間髪入れず、アポロは既にガマの巨大な背中に手をやっていた。
アポロは、手の中で握りしめていたトランプを使い、ガマの背中を剃刀のように切り裂いた。
業霊武は甲高い悲鳴を上げることなく、そのまま力を失い、土塊へと還っていった。
ガマの拘束が解かれ、自由になった睡蓮は、体内の呪いによる身体の重さに耐えながら、目の前の男の正体を問い質した。
「お前は一体?」
アポロは、睡蓮の問いには答えず、冷静にタキシードの悪魔――アマン・デースを見据えた。
「アマン・デースか。まさかこんな極東の地でお前みたいな悪魔に会うとは。旅には出てみるもんだな、おかげでいい土産話ができた」
アポロは、アマン・デースの名を知っていた。その口調は、彼がただの異人ではないことを決定づけていた。
アマン・デースは、業霊武を瞬時に失ったにもかかわらず、優雅な態度を崩さなかった。
「私の事を知っているとは、光栄だ。――だが、残念だ。きみが土産を持って故郷に帰れる術はない。ここで君の旅は終焉を迎えるのだから」
アマンは、アポロの存在が自分の美学にとって貴重な観測対象であることを認めつつも、容赦なく殺意を表明した。
「心苦しいよ。本来なら君に私との出会いを持ち帰ってもらい、いかに自分たち人間が愚かであるという事を吹聴してもらいたいのだからね」
アマン・デースの人間への評価に対し、アポロは自嘲的に己の素性を明かした。
「まあ、俺も人間としては誇れるような人生は微塵も送ってないが。自慢できることと言えば、悪運が強い事ぐらいだ」
彼はトランプを弄びながら、自分の職業を羅列した。
「なんせ本業はギャンブラーで、詐欺師で、マジシャンだからな。副業として貿易商の片腕をやっている。この世界も騙し騙されあいの世界だからな」
そして、核心を突く重大な事実を軽妙に付け加えた。
「――それと、そうそう片手間にいっちゃあ変だが、お前らみたいな悪魔を刈ってる。趣味みたいなもんっていやあ趣味みたいなもんだが」
アポロ・ゴールドは、詐欺師であると同時に、悪魔を狩る者であった。彼の常人離れした実力は、この裏の仕事に起因していたのだ。




