第1章 誓って言うけど生まれてはじめて 3
同じ頃。
青灰色の蛇は円形のゴミ箱の中に頭を突っ込んだかと思うと、そこから厚手の封筒をくわえて、ぱさ、とシキの前へ落とした。
「……」
シキは、見もしない。
いくら待ってもシキが動かないので蛇が口吻の先を使ってそれを彼女の方へと押しやる。頬杖をついた肘に封筒があたって、シキはようやくその封筒を取り上げたけれど、中身はあけてみることなくゴミ箱へ直行させた。
また蛇が拾ってシキの前へ落とす。シキは無言でゴミ箱へ落とす。
これをもう、先程から延々と繰り返していた。
「しつこい!」
どちらが先に音をあげるのかしら、と他の蛇たちが興味津々で見守るなか、癇癪を起こしたのは案の定、シキの方だった。
「やだっていってるじゃん! だってあの女さ、あんたを見て気絶したんだよ!」
シュー、と無感情な空気音を蛇は漏らした。
≪私は、気にしない≫
その声は、シキの頭の中に直接響く声だった。
母の笙子には少しだけ聞こえた。祖母の邦子にも聞こえた。曾祖母の五十鈴にいたっては、五十メートル離れても蛇の声が聞こえたらしい。
バケモノ、と畏怖半分、苦笑い半分で身内に呼ばれていた彼女に一番似ていると言われるシキはというと、蛇と話ができるのが物心ついた時から当たり前だった。普通の人にはできないことだと知ったのは、いくつの時だろう。
「あたしは気にするんだよ。蛇見て気絶するような女は、蛇屋にお世話になる資格ありません!」
≪お前の言うこともわからないではないけれども……≫
蛇の話が始まると長いのは、ほとんど生まれた時からの付き合いだからよく知っている。はいはい、そうだね。はーいはい、と機械的に相槌を打ちながら、今日来た彼女のことをシキは思いだしていた。
ほっそりとして、可憐な印象だった。
ひざ丈のスカートに、初夏らしいアッシュブルーの袖なしシャツ。シャツの襟元と肩口には白いレースがあしらわれているのがよく似合っていた。栗色の長い髪はゆるやかに波打ち、卵型の顔のまわりを華やかに縁取っていた。
≪シキ、あんたも一回こういう格好してみたら≫
店内に張り巡らせた木の枝から来客を検分して言ったのは、ここに住んで今年で十年目になるエメラルドツリーボアだった。
他の蛇たちも好奇心は隠しきれないようで、家具の隙間、置物の裏からなど、思い思いに顔を出してはシキにしか聞こえない声と言葉で感想を述べる。
≪同じ年頃の人間のメスとはとても思えん≫
≪この子、なかなかかわいい≫
≪シキ、あんたも髪の毛切りっぱなしじゃなくてたまには伸ばして巻いたりしてみたらどう。女の子なんだから≫
≪蛇だって脱皮するっていうのに、あんたときたら年中同じような格好して≫
蛇たちがやいやい言うのをシキは右から左に流していた。
うるさい、似合うか似合わないかあたしの顔見てから言えってんだ。あたしがこんな格好したら、コスプレだろ。どう見ても。
だが蛇たちは御堂寺珊瑚が店に来た時から、興味津々で彼女を観察していた。
だったので、蛇と至近距離で顔を突き合わせたのも当然の流れだったと言える。
気を失って無防備に倒れてゆく彼女に、シキは慌てて飛びついた。
蛇屋の店内はそもそもそう広い方ではないし、あちこちにアルコール漬けのガラス瓶などもあって、もし当たって倒しでもしたら怪我は必須だからだ。腕の中でくたっとするする彼女からは、ほのかに爽やかで甘い香りがした。
(見た感じ、同じくらいの年頃だったけど)
くん、とシキは腕をあげて自分の匂いを嗅いでみる。
これといって匂いはしない。良きにつけ悪しきにつけ。
彼女が頭をぶつけないようにと、とっさに腕の中に抱き入れてかばったのだが、むきだしだった白い腕がガラスケースに当たったらしく、小さな傷ができていた。血が出るほどではなかったが、一応絆創膏を貼ってソファーに寝かせておいた。
気絶ついでに仮眠かよ。
彼女があんまり起きないので、舌打ちしてシキは毒づく。
だが、その寝顔を目にすると、毒づく気持ちが自然と薄れるのがかえってシキを苛立たせる。意識を失っていても、あまりに愛らしく整った顔だったので。
(寝顔がかわいいって、あんまり、いないよね)
ね、寝てたわけじゃありません! と珊瑚が聞いたらあわてて訂正したに違いないが。
しばらくたって気がついてからも同じだった。震えていても、しょんぼりしていても、言葉やしぐさの端々に愛らしさと気品が滲んでいた。
稼業が稼業なので、今までも大金持ちの女は何人か見てきた。でもそのどれとも彼女は違う感じだったので、もしかして、あれが本当の上流階級ってもんなのかなあと、蛇の長話に生返事を返しながらシキは思う。
≪いいからその封筒を読んでみなさい。御堂寺って書いてあるだろう≫
「うんうん」
生返事を返しながらシキは思う。
蛇屋に来たからには、普通では解決できない問題を抱えているのだろうに、ちょっとにらむと、用件を切り出すこともなく帰っていった。自分のしたことを恥じいるように、深々と頭を下げて。
≪大きな家だよ。通常、表立って名前が出ることはないけれど、御堂寺の当主がいいと言わなければ決まらない物事は世の中にいくつもある≫
「へーえ」
≪政治、しかり。経済も、しかり≫
真面目に説明しようとする蛇に、シキは半笑いを返した。
「蛇のくせに政治経済に詳しいってさあ。どうなのよ」
≪詳しいわけではないけど。私は邦子といた時間が長いから、それで自然に知ったというか、わかったというか≫
「なんかそれ。逆にむかつく」
≪なぜ≫
「格別勉強しなくても頭いいですアピールかよ」
≪そうじゃない!≫
依頼を受ける受けないは別としても、話は聞いてみたほうがいい、と蛇は根気強く説得を続けようとしたが、シキは黙って立ち上がると二階の自室にこもってしまった。
バタン、と大きな音で扉が閉まり、鍵のかかった音がする。
≪あの短気な気性は……誰に似たのか≫
蛇はしばらく階段の下で、体を巻いたりほどいたりして考えていた。
≪笙子はもっと温和で落ち着いた性格だし。邦子も、もっと≫
巻いたり、ほどいたり。巻いたり、ほどいたり。
蛇の体の一番太いところは、成人男性の二の腕ほどもある。その青みがかった体表が、動かしているうちにわずかに茶味がかる。
≪邦子や、笙子を除いてあの子のそばにいたものといえば……私だ。やっぱり私の育て方が悪かった、のだろうか。母親代わりは私では無理だったのだろうか……そもそも、私はオスだし≫
やや落ち込んで、とぐろを巻いた体の中に頭を突っ込んでしばらくしょんぼりしてから、蛇はおもむろに二階の階段をのぼる。
≪子育ては、自分のだってしたことないわけだし……≫
ドアの前でもう一度軽くうなだれてから、気を取り直しておでこの平らなところをコツコツ扉に打ち付ける。
≪シキ……シキ≫
返事はない。だがこのくらいの距離なら、声は過不足なく届いているはずだった。