第1章 誓って言うけど生まれてはじめて 2
扉を押し開けて外へ出ると、あたためられたアスファルトの匂いがした。
季節的にはまだ春のうちだというのに、細い路地には熱気がこもっているようだった。
果たして、自分はどれくらい気を失っていたのだろう、と珊瑚は手首を返して時間を確認する。
夕方四時になろうとしていた。
ここへ来たのは午後の早い時間だったので、そうすると、結構な長い時間気を失っていたのだと珊瑚は思う。
ふとこめかみに指をあててみた。
この数日、ずっと重いような鈍いような痛みがあったのだが、今、それはすっかり消えていた。
珊瑚は今しがた出てきた場所を振り返る。
表向きは、いかにも年季の入った漢方薬局という佇まいだ。
真砂漢方薬店とレトロな書体で横長の看板がかかっている。ガラス扉の内側には目隠しの布があしらわれて中が見えないようになっており、扉の取っ手は大きな黒い四角形だ。漢方薬・生薬認定薬剤師証と書かれた賞状が額に入って入り口の目につくところに掲げてある他は、この手の店にありがちな、宣伝文句の書かれたポスターや看板などはない。
わざわざ教えられてきたのでなければまず間違いなく入るのを躊躇するだろう、そっけない店構えだった。
『確かに、御堂寺家において当主の決定は絶対だわ』
そう言ったのは大伯母だった。
現当主をつとめる珊瑚の祖父から見て、姉にあたる人だ。
『だけどね、あなたがそんなに嫌なら、蛇屋に相談してご覧なさいな。今は上野に店があるはずよ』
珊瑚に同情してそう教えてくれたのだった。ここまでの道順を教えてくれたのも彼女だ。
外出の機会さえ見つけられれば、店を見つけるのはそう難しくなかった。
蛇屋は一見の客を嫌う、私の紹介だと言いなさい、そう教えてくれた。
『もっとも蛇屋もここ数十年で随分代替わりしたと聞いているから、私の名前が通用するかどうかわからないけれど。でも、なにもないよりましでしょう』
そう言って。
そう、そこまではよかったのだと、珊瑚は数時間前のことを改めて思い起こしてみた。
◇◇◇
──カラカラン。
ドアの開け閉めでベルが鳴って、カウンターの奥から、珊瑚とそう年の変わらなさそうな女の子が顔を出したのだ。
「いらっしゃい」
一瞬、男の子か女の子かわからなかったのは、身のこなしが大きなストライドで、その表情もあけっぴろげでまっすぐだったせいだ。だが話し始めると、すぐに女の子だとわかった。
「蛇屋はここだと聞いてきたんですが」
ショートカットのその女の子はちょっと首をかしげて微笑を浮かべた。
「誰かの紹介かな? そう、あたしが蛇屋だよ。名前はシキ。あんたは?」
「御堂寺珊瑚と申します。あの、紹介は、大伯母から」
「ふうん」
珊瑚は肩からかけたバッグの中に手を入れて、紹介状を取り出そうとした。
だが同時に、もぞもぞする違和感を感じて、紹介状をつかもうとしていた手を頭上にかざす。ちょうど前髪の付け根あたりに。
まるで、昔ながらののれんの隅っこが頭の上に乗っかっているような、そんな違和感だった。
珊瑚が蚊でも払うようなしぐさをしたのは、ほとんど無意識に近かった。
だから、手が先に出て、視線がそちらへ向かったのは後からだったのだ。
少し遅れて珊瑚は目をあげ──そこに、青灰色の蛇の頭部があるのを見つけた。
とっさにそれが蛇とはわからなかったほど、真っ正面から近距離で向かい合う。距離にして、およそ十センチといったところ。
蛇の頭部は大きかった。スリッパほどもあるだろうか。大きな頭部で小さな黒い目がじっと珊瑚を見つめており、暗色の舌が絶えまなく出し入れされている。
(……蛇屋に、蛇がいるのは、当たり前だわね)
どこか遠くでそんなことを思う。
と同時に、では、今わたくしの前髪に触れていたのは蛇なのだわ、とも。
(今この手で払ったのはもしかして、のれんの端っこやハエなんかではなくて、蛇の)
考えることができたのはかろうじてそこまでだ。
ふうっと珊瑚の気が遠くなる。
視界がぼやけ、目の前の景色が反転し──。
「あっ、おい!」
慌てたような彼女の声は聞こえたような、聞こえなかったような。
そこで珊瑚は気を失ったのだった。
◇◇◇
(──言い訳の、しようもない)
己のここ数時間を反芻して、珊瑚はがっくり肩を落とした。
(完璧に失敗した)
いつまでも店の前に立ち尽くしているわけにもゆかず、珊瑚はとぼとぼと歩きだしながらバッグから携帯を取り出した。
「御用は済みました。さっきのところへ……ええ。迎えに来てください」
車が止まりやすいようにと大通りへ出ていきかけて、珊瑚は最後にもう一度振り向く。
西の空がけだるい色を帯びて、店の看板を照らしていた。
(彼女が怒ったのは当然だわ、わたくし、失礼なことをしてしまった)
あたりに人通りがないのを幸い、珊瑚はその場でもう一度、蛇屋の店舗に向かってぺこりと頭を下げた。
そこで気づいた。肘のところに大きめの絆創膏が貼られていることに。
(いつの間に怪我なんて)
よほど緊張していたのか、痛みは感じなかった。珊瑚はじっと患部を見つめる。
『自分から蛇屋にやってきたくせして、蛇見て卒倒するとか。ありえん!』
失礼なことをしでかしたのに。迷惑もかけたのに。なによりあんなに怒っていたのに、珊瑚の怪我の手当てはしてくれたのだと思った。
(フェアな人なんだわ)
ほどなくして迎えに来た黒塗りの自家用車に乗りこんでも、珊瑚はまだ気づいていなかった。
大伯母直筆の紹介状と手書きの地図。それをそっくりそのまま、封筒ごと店の床に落としてきたことに。