第二十話:霧降りの決戦と帝国の崩壊
「神託は下った! 我らに勝利を約束された神は、今、追撃を命じておられる!」
鷲巣砦に響き渡る、老将軍ダリウスの力強い声。その声は、もはや以前のような悲壮な響きではなく、絶対的な勝利への確信に満ちていた。
彼の前に整列したエリアンの兵士たちも、同じだった。
彼らの瞳には、恐怖も疑念も、もはや一片たりとも存在しない。そこにあるのは、神に選ばれた軍隊であるという、熱狂的な信仰と、戦いへの渇望だけだった。
鷲巣砦の奇跡。あの一方的な勝利は、彼らの精神を、根底から作り変えてしまったのだ。
彼らは、自分たちが無敵であることを、疑っていなかった。
「全軍、出撃! 敵の残党を追撃し、霧降りの平原にて、これを完全に殲滅する!」
鬨の声が、天を突いた。
数日前まで、死を覚悟していたはずの三千の兵士たちは、今や伝説の英雄の軍隊のように、意気揚々と、砦の門から出撃していった。彼らの足取りは軽く、その歌声は、谷間にこだました。
彼らは、自分たちが、遠い街にいる一人の青年が描いた脚本の上で、完璧な役を演じているだけの駒であることなど、知る由もなかった。それでよかった。彼らが、その熱狂のままに戦うことこそが、俺の脚本の、最も重要な要素なのだから。
一方、追われる立場となったガルニア帝国軍の雰囲気は、まさしく地獄そのものだった。
鷲巣砦での、悪夢のような敗北。
そして、その後の、補給路の寸断、謎の病の蔓延、相次ぐ不運。
兵士たちの心は、完全に折れていた。「エリアンの悪魔」という噂は、もはや、単なる噂ではなく、彼らにとっての絶対的な真実となっていた。
エリアンの兵士は不死身だ。彼らに戦いを挑むことは、死を意味する。その恐怖が、軍全体を、重く、冷たい鎖のように縛り付けていた。
「立て! 貴様ら、それでも帝国の兵士か! たかが一度の敗北で、腑抜けるとは何事だ!」
総司令官グルザの怒声が、野営地に響き渡る。だが、その声も、かつてのような威厳を失っていた。飢えと、疲労と、そして、得体の知れない恐怖に蝕まれた兵士たちの心には、もはや、彼の言葉は届かない。
「……司令官閣下。このままでは、軍の統制が保てません。一度、本国まで退き、体勢を立て直すべきです」
副官が、そう進言した。それは、誰の目にも明らかな、最も合理的な判断だった。
だが、猛将グルザのプライドが、それを許さなかった。
「退くだと? この俺が、エリアンの雑兵どもに背を向けて、逃げ帰れと言うのか!」
彼は、副官の胸ぐらを掴み、吼えた。
「まだだ! まだ終わってはおらん! 敵は、わずか三千! 我が軍には、まだ八万の兵力が残っているのだぞ!」
その時、伝令兵が、血相を変えて駆け込んできた。
「も、申し上げます! エリアン軍、鷲巣砦より出撃! 我が軍を追撃し、こちらへ向かって進軍中との報!」
その報告を聞いた瞬間、グルザの目に、獰猛な光が戻った。
「……来たか。愚か者どもめ」
彼は、ほくそ笑んだ。
「砦に籠っていれば、まだ少しは命拾いできたものを。調子に乗り、自分から死地に飛び込んでくるとはな」
彼は、地図を広げ、前方に広がる広大な平原を指さした。
「全軍、この『霧降りの平原』にて、陣を敷け! 追撃してきたエリアンの雑兵どもを、ここで迎え撃ち、一匹残らず、叩き潰す!」
彼の目に、エリアン軍は、罠にかかった獲物のようにしか見えていなかった。
数で圧倒的に優位な我が軍が、開けた平野で、少数の敵を包囲殲滅する。それは、兵法の基本中の基本。これ以上ないほどの、好機だった。
彼は、この戦いで、鷲巣砦の屈辱を晴らし、自らの名誉を回復するつもりだった。
だが、彼は知らなかった。その決戦の地こそが、彼のために、そして、彼の軍隊のために用意された、巨大な墓場であることを。
*
決戦前夜。
霧降りの平原は、束の間の静寂に包まれていた。
平原の両端には、二つの巨大な野営地が、対峙するように広がっている。
片や、エリアン軍。篝火は明るく、兵士たちの間には、笑い声と歌声が絶えない。彼らは、明日の戦いを、まるで祭りの前夜のように、楽しみにしていた。神のご加護がある限り、自分たちは、決して負けない。その確信が、彼らを無敵にしていた。
片や、ガルニア帝国軍。篝火の数は多いが、その光は、どこか弱々しく、頼りない。兵士たちは、黙り込み、明日への不安と恐怖に、顔を曇らせていた。彼らの間を流れるのは、不信感と、敗北の予感だけだった。
その、エリアン軍の野営地の一角。
「灯火の団」の三人は、自分たちのテントの中で、静かに、その時を待っていた。
「……いよいよ、だな」
ゴードンが、新調されたバトルアックスを磨きながら、呟いた。
「ええ。少し、緊張するわね……」
ティナが、魔法の杖を握りしめ、小さく頷いた。
ミリアは、黙って、目を閉じていた。
彼女の心は、不思議と、落ち着いていた。
その時、彼女の頭の中に、直接、声が響いてきた。
それは、アッシュの声だった。
『ミリア。聞こえるか』
念話。アッシュが、彼らにだけ授けた、特別な通信魔法。
「……はい、師匠。聞こえます」
ミリアは、心の中で、そう答えた。
『明日の決戦。君たちには、特別な任務を与える』
ゴードンとティナも、同時に、その声を聞いていた。三人の顔に、緊張が走る。
『決戦が始まったら、他の兵士たちとは別行動を取れ。敵の本陣、ただ一点を目指せ』
『目的は、敵の総司令官、グルザの首だ』
『他の敵は、気にするな。君たちが進むべき道は、我が、切り開く』
その言葉は、静かだったが、絶対的な力強さに満ちていた。
「「「はっ!」」」
三人は、声に出さず、しかし、力強く、心の中で応えた。
彼らに与えられた、最初の、そして、最大の任務。
それは、この戦争の、クライマックスを、自分たちの手で飾るという、名誉ある役割だった。
*
夜が明け、霧降りの平原に、朝の光が差し込み始めた。
だが、その光は、すぐに、おびただしい数の、鉄の光に取って代わられた。
「全軍、突撃ィィィィィィィッ!」
グルザの、雷鳴のような号令が、平原に響き渡った。
ド、ド、ド、ド、ド!
地響きと共に、ガルニア帝国軍の誇る、重装騎兵部隊が、突撃を開始した。その数、五千。鉄の塊と化した騎馬の津波が、エリアン軍の、貧弱な陣形めがけて、殺到する。
エリアンの兵士たちは、その圧倒的な迫力を前にして、一瞬、恐怖に顔を引きつらせた。
だが、その瞬間だった。
どこからともなく、白い、帳のようなものが、静かに、平原に降りてきた。
霧だ。
最初は、ただの朝霧だと思われた。この平原が、「霧降りの平原」と呼ばれる所以だ。
だが、その霧は、異常だった。
ものの数分で、その霧は、まるで生き物のように、みるみるうちに濃度を増し、平原全体を、完全に、乳白色の闇の中へと、閉ざしてしまったのだ。
視界は、ゼロ。手を伸ばせば、自分の指先すら、見えない。
「な、なんだ、この霧は!?」
「前が見えん! 止まれ、止まれ!」
突撃の勢いのまま、霧の中に飛び込んだガルニアの騎兵たちは、大混乱に陥った。
方向感覚を失い、互いに激突し、落馬する者、味方の馬に踏み潰される者。先頭集団は、一瞬にして、その戦闘能力を失った。
後続の歩兵部隊も、同じだった。
隣にいるのが、敵か、味方か。前に進んでいるのか、後ろに下がっているのか。何も、分からない。
規律と統制を命とする、帝国の大軍は、この、魔性の霧の前に、その機能を、完全に停止させられた。
「うろたえるな! 隊列を組め! 声を出し合って、位置を確認しろ!」
グルザが、本陣から、必死に叫ぶ。
だが、その声も、濃い霧に吸い込まれ、誰の耳にも、届かない。
そして、ガルニアの兵士たちにとっての、本当の悪夢が、始まった。
*
エリアンの兵士たちは、不思議と、この霧の中でも、目が利いた。
いや、目が見えているわけではない。だが、霧の中にいるはずの敵兵の位置が、まるで、闇の中に灯る、炎のように、はっきりと、感じ取れたのだ。
アッシュの《マインドブースト》が、彼らに、第六感とも言うべき、超常的な知覚能力を与えていた。
「……今だ」
老将軍ダリウスの、静かな命令。
エリアンの兵士たちは、音もなく、霧の中へと、進んでいった。
彼らは、狩人だった。
そして、視界を奪われ、混乱しきった帝国兵たちは、もはや、ただの獲物でしかなかった。
「ひっ……!?」
ガルニアの一人の兵士が、背後に、人の気配を感じて、振り返った。
だが、そこには、白い霧があるだけだ。
気のせいか、と、彼が前を向いた瞬間。
霧の中から、ぬっ、と、一本の剣が現れ、彼の胸を、音もなく、貫いた。
「……ぁ……」
彼は、声を上げる間もなく、崩れ落ちた。
彼を刺したエリアンの兵士は、また、音もなく、霧の中へと、溶けるように消えていった。
そんな、一方的な殺戮が、平原の、至る所で、繰り広げられていた。
ガルニアの兵士たちは、見えない敵の恐怖に、発狂しそうになっていた。
霧の中から、突然、剣が伸びてくる。矢が飛んでくる。
反撃しようにも、相手の姿は、どこにも見えない。
彼らは、ただ、霧そのものと、戦わされているようだった。
「助けてくれ!」
「いやだ、死にたくない!」
「悪魔だ……! 霧の中に、悪魔がいるんだ!」
恐怖は、伝染し、彼らの戦意を、完全に、食い尽くした。
同士討ちも、頻発した。味方の鎧の音を、敵と勘違いして、切りかかる。
戦場は、もはや、地獄の様相を呈していた。
*
その、地獄のような戦場の中心を、三つの影が、疾風のように、駆け抜けていた。
ミリア、ゴードン、ティナ。
彼らの目にも、霧の中にいるはずの敵兵の位置が、はっきりと見えていた。いや、それ以上に、彼らの頭の中には、進むべき道筋が、一本の光の道となって、示されていた。
アッシュが、彼らのためだけに、道を切り開いているのだ。
彼らの目的は、ただ一つ。
敵の本陣。総司令官グルザの首。
「見えた! あれだ!」
ゴードンが、霧の向こうに、ひときわ大きな、グルザの軍旗を指さした。
本陣の周りには、グルザ直属の、最強の親衛隊が、円陣を組んで、守りを固めている。
「ティナ!」
ミリアが、短く叫ぶ。
「はい! 《サンダー・ランス》!」
ティナの詠唱は、もはや、以前の彼女とは比べ物にならないほど、速く、そして力強い。
彼女の杖の先から、まばゆい雷の槍が、数本同時に放たれ、親衛隊の陣形に、風穴を開けた。
「今だ! 行くぞ、ゴードン!」
「おうさ!」
ミリアとゴードンは、その隙間から、一気になだれ込んだ。
親衛隊の兵士たちは、帝国最強を謳われた、歴戦の勇士たちだ。だが、アッシュのバフを受け、最新の装備に身を包んだ、ミリアとゴードンの前には、赤子同然だった。
ミリアの剣が閃くたびに、血飛沫が舞い、ゴードンの斧が唸るたびに、鎧ごと、人体が吹き飛んだ。
ついに、彼らは、本陣の中心、グルザの前へと、たどり着いた。
「……貴様ら、何者だ」
グルザは、馬から降り、自ら、巨大な両手剣を抜き放った。
彼の体からは、猛将の名に恥じぬ、凄まじい闘気が、放たれている。
だが、その瞳の奥には、自分の理解を超えた現象に対する、深い、絶望の色が、浮かんでいた。
「エリアン王国、冒険者パーティー『灯火の団』!」
ミリアが、名乗りを上げた。
「総司令官グルザ! 覚悟!」
三人と、一人の、最後の戦いが、始まった。
グルザの剣技は、凄まじかった。巨大な両手剣を、まるで、小枝のように軽々と振り回し、その一撃は、大地を揺るがすほどの威力を持っていた。
だが、ミリアたち三人の連携は、それを、さらに上回っていた。
ミリアが、神速の剣で、グルザの攻撃を捌き、ゴードンが、その隙を突いて、破壊力抜群の斧を叩き込む。そして、ティナが、遠距離から、的確な魔法で、グルザの動きを牽制する。
それは、地獄の特訓で培われた、完璧な、三位一体の攻撃だった。
どれほどの時間が、経っただろうか。
グルザの巨体に、無数の傷が刻まれ、その呼吸は、荒くなっていた。
そして、ついに、その瞬間が訪れた。
ゴードンの渾身の一撃が、グルザの剣を弾き飛ばし、彼の体勢が、一瞬、大きく崩れた。
その、コンマ数秒の隙を、ミリアは見逃さなかった。
彼女の体は、まるで、光の粒子になったかのように、加速した。
彼女の放った、神速の突きが、グルザの分厚い鎧の、ただ一点の隙間、喉元を、正確に、そして、深く、貫いた。
「……ぐ……ぁ……」
グルザの巨体が、ゆっくりと、膝から崩れ落ちた。
彼は、血を吐きながら、信じられないという目で、ミリアを見つめた。
「貴様ら……一体、何なのだ……。これは……もはや……人間の、戦では……」
それが、猛将グルザの、最期の言葉だった。
彼の巨体が、大地に倒れた瞬間、戦場の、全ての音が、止んだ。
総司令官の死。
それは、ガルニア帝国軍の、完全な崩壊を意味していた。
まるで、何かの合図のように、戦場を覆っていた魔性の霧が、ゆっくりと、晴れ始めた。
昇ってきた朝日が、平原を照らし出す。
そこに広がっていたのは、この世の終わりと始まりが、同時に訪れたかのような、荘厳な光景だった。
武器を捨て、大地にひざまずく、数万の帝国兵の海。
そして、その中心に、まるで伝説の英雄のように、静かに佇む、エリアンの兵士たち。
エリアン王国の、大陸の誰もが信じられなかった、完全なる勝利の瞬間だった。
そしてそれは、歴史の裏側で、全てを操っていた、一人の支援術師の、完璧な脚本が、完遂された瞬間でもあった。




