第十三章 訪問者 <RINN>
凛目線
第十三章 訪問者 <RINN>
午前中、三時間ほど眠ったが、やはり目が醒めてしまった。無性に今は描きたくて仕方がない。昔は二日ぐらい寝ないでキャンパスに向かっていた。後ろで見ている水貴が眠ってしまったこともあった。
目の前のキャンパス以外すべてが視界から消えて、食事もしないでぶっ通しに描いていた。絵を認められた事にも興味はなく、ただ自分の内側からあふれ出てくる物をはき出すことに夢中だった。そして、それを水貴に見ていて欲しかった。バイトをすっ飛ばしてしまってもオーナーは何も言わなかった。あの頃大切にしていた物は、絵と水貴だけだったんだ。
傲慢でわがままで、人として欠けた部分がたくさんあった。
描けなくなってから、三年半、僕は人と話し、料理を作り、音楽を聴いた。買い物をし、洗濯をし、掃除をした。それまでしたことのないことを無理矢理一つずつやっていった。
静かに自分と向き合いながら水貴と過ごした穏やかな時間は、絵を失った代償以上の物を僕に与えてくれたと思う。
鏡に向かって昨日の続きを描く。
突き動かされて描いていたあの頃とは比べものにならないほど、ただ、楽しかった。
イメージはどんど膨らみ、体の中に押し込められていた描く事への渇望が一気にあふれ出た。
僕は、初めて、絵を描く喜びを感じている。
冷蔵庫の中が寂しくなったので、久しぶりに食材を買いに夕方から出かけた。
時間が来れば描くのを中断して、ちゃんと生活をする。そんな切り替えが、昔はできなかった。
運動不足の解消に、ぶらぶらと表参道まで足を伸ばしたが、まだ日差しの強さが肌にひりひりするほどだった夏の陽は長い。帽子をかぶってくるべきだったと後悔したが、紀ノ国屋に入ったとたん強めの冷房が汗をさっと乾かしすぐに寒くなった。
生のモッツアレラチーズと合鴨の燻製、スパムの缶詰とサンテラモのオリーブオイル、これは絶対ドレッシングには欠かせない。非加熱に向いたホワイトラベルを選ぶ。
それとブラックオリーブの瓶詰めにドライトマト、バジルペースト。ショートパスタはペンネとフリッジ、タリアレッテはほうれん草を練り込んだタイプの物にした。
あっという間にかごはいっぱいになってしまった。
萌子が今夜、店を手伝ってくれるのでなにか食べさせたかった。和牛のいいすね肉が、いつになく安かったのでビーフシチューにすることにした。野菜をいくつかカゴに追加し、料理に使う赤ワインとカクテル用のワインを選びレジに向かった。
さすがに徒歩で帰るのはきつかったので地下鉄で帰ることにした。表参道の駅構内はまるで小型のショッピングモールのようだ。おやつにのマカロンを買ってしまった。さらにベーグル屋の前を通ったら、あまりに美味しそうだったので、オニオンとチーズ、ブルーベリーのベーグルを買う。明日の朝はベーグルサンドだな。
椎名さんのドラマは高視聴率を取ったようだ。水貴は京さんのピンチヒッターで仕事だったのでオンエアが見られないと嘆いていた。
飽きるほど見ただろう?と言ったら、仕事で見るのとは意味が違う、一視聴者として純粋にドラマを楽しみたいのだと反論された。
いつもはここまでこだわらないので、よほどこの作品は良かったのだろう。僕はまだハードディスクの中だ。次の休みに萌子と観る約束をしている。
水貴と話さなければと思いながら、時間がとれずにまた一日が過ぎていく。
エレベーターを降りたら、ベリーハウスの扉の前に女の子が立っていた。
スキニーのジーンズにピンクのエナメルのミュール、薔薇の花が刺繍されたシフォンの白いチュニック姿で、小型のスーツケースをひいていた。
僕の気配に驚いたように振り向くと、ストレートの長い黒髪がふわりと落ちた。
見たことのない子だな。思ったより若い。
「何か?」
「あの、・・・椎名貴志はここにいますか?」
椎名さんの知り合いだろうか。
「いますよ。ただ、今いるかどうかは解らないけど・・・どうぞ」
ブラックカラントの部屋に案内する。
「ノックしてみて、ブザーは無いんだ。」
しばらく待つが、反応は無かった。
「じゃあ隣も。」
「となり?」
「そっちにいることの方が多い」
ちょっと怪訝な顔をして少女は水貴の部屋をノックした。やはり返事は無かった。
「出かけてるみたいだね?とりあえずこっちに来て」
半分は興味も手伝って少女をリビングに通した。ソファーに座らせ、食材をしまいにキッチンに行き、お茶の準備をする。しばらくして気配を感じて振り向くと、彼女がキッチンの入り口に立っていた。
「ここはシェアハウス?」
「元はモデルクラブの寮だったんだけど、今は、部屋を貸してる。椎名さんのほかに一人、あ、もうすぐ三人になるよ」
「あなたの家なの?」
「違うよ、僕は雇われ管理人、どうぞ」
キッチンのテーブルにアイスティーとマカロンを二つ置く。
「ありがとう、いい香り、今、煎れたの?」
「そうだよ」
「ペットボトルじゃないんだ」
「あれは、美味しくない。アールグレイだよ」
「ふうん、こだわってるのね・・・」
彼女はアイスティーを飲み、イチゴのマカロンを一口で食べた。顔が美味しいと言っていた。
言葉がとぎれて沈黙が広がる。僕はだまって向かいに座り、アイスティーを飲んだ。
「あの、あなたは椎名さんと親しいの?」
「うーん、オーナー代理と間借り人の関係だね、彼の事はあまりよく知らない」
「さっき、二つ部屋をノックしたよね?二つめは誰の部屋?」
やはり気にしてるんだ。だいたいこのパターンは女だって思うよね、誰だって。
「その前に、君は誰?知らない人に同居人のプライバシーをべらべらしゃべると思う?」
何か言いかけた彼女は、唇をぎゅっと強く結んで言葉を飲み込んだ。
だんまりか・・・二つ目のチョコのマカロンが彼女の口の中に消えた。
どう見ても十六、七ぐらいだ。彼の恋人にしては若すぎるよな。
僕が知らないだけでモデルか女優なのかもしれない。かなりレベルの高い美人だった。彫りが深く、黒目がちで切れ長の大きな瞳がぬれたように重く沈んでいた。やや小ぶりの鼻の先がちょっと丸くなった感じと、あごの線が誰かに似ているような気がするが思い出せなかった。
「僕はもう仕事に出ないといけないんだ。このビルの二階のバーだけど、待つならそっちに来て貰えないか?彼の場合何時になるか解らないし部屋にメモを貼っておけばいい。」
「あの、私、帰ります」
彼女が立ち上がりかけた時、椎名さんがリビングに飛び込んできた。まさに飛び込んだという表現が正しい。息が切れている。
「咲妃!」
さき・・と呼ばれた少女は少しばつの悪そうな顔をしたが、彼がキッチンに入って来るとニッコリと笑った。
「パパ、久しぶり!」
パパあ?
これはドラマならありがちなパターンだけど、椎名さんに限っては予想外だった。娘だって?あれだけ女性問題でマスコミを騒がせながら、子供の情報はどこからも出たことがなかったはず。
「いきなり来るなんて、なにかあったのか?」
「一週間前にメールしたよ!予備校の夏期講習に申し込みにきたの!地方はやっぱり不利だから。」
「そうだった。ごめん」
「それと、夏休みの間にこっちで仕事しないかって、バーグマンの野瀬さんから連絡が来たの。だからしばらく泊めてもらおうと思って事務所に行ったら、斉木さんが引っ越したっていうから」
「悪かった、彼から連絡が来たから、急いで帰ってきたんだ。とにかく部屋で話そう」
「いい加減、アプリ入れてよ!電話してもほとんどでないし、メールだって読んだかどうかもわからない」
「苦手なんだよあれは。咲妃は、返事しないと怒るだろう?」
「おじさんみたいなこと言わないで、かっこわるい!既読になるだけでもいいんだから。」
一部始終を目の前で見せられた限りでは、二人は、離れて住んではいるが普通の親子のように見えた。だが別れた奥さんとの間には子供はいなかったはずだ。だとしたら年齢的にこの親子関係には無理があるんじゃないだろうか。まあ、週刊誌の暴露記事にどこまで信憑性があるか不明だが。
キッチンの入り口に、いつの間にか萌子が立っていた。いつから聞いていたのか、おおよそのいきさつは察したようだった。二人が萌子に気づいた。
「おじょうさん?」
「ええ」
咲妃ちゃんは萌子をじっと見つめ、椎名さんに小さな声で尋ねた。
「この人が新しい恋人?」
「咲妃、失礼だよ」
「僕の恋人だよ」
萌子はすっと僕のそばに来ると腕を絡めてニッコリ微笑み、
「よろしくね咲妃ちゃん」と言った。
「そうなんだ、ごめんなさい」
こんふうにすぐ謝れるということは素直な証拠だ。まともな大人の間できちんと育ったのだろう。椎名さんは僕らに謝ると、彼女を連れて部屋に戻って行った。
見送った萌子の第一声は、僕の疑問と同じものだった。
「あの子、ホントに椎名さんの子供かしら、誰かに似てると思わない?」
「うん、僕もそう思ったんだけど誰だろう?」
「真莉絵よ」
そうか、真莉絵にそっくりじゃないか。少し線が細いがよく似ている。
十二年前僕は小学生だったが、真莉絵の顔はよく覚えている。歌姫でもあった彼女は、ミリオンセラーを二回続け、主演の映画も次々とヒットした。そんな真莉絵が話題の人とはいえ新人監督の作品に自ら希望して出演を決めたのだ。私生活は謎に包まれていた真莉絵だが、椎名さんとの同棲がスクープされたときの騒ぎはすごかったらしい。そのとき、真莉絵には子供がいたのだろうか?
「凛?この件は椎名さんと水貴の問題。私たちが口をはさむことじゃないわ」
僕はよほど心配そうな顔をしていたんだろう。
「そうだね、ところで萌子、早くない?」
「今日は予約の患者さんが少なかったから。荷物少し運んできた。どの部屋使ったらいい?」
「ラズベリーが広いからいいと思う。掃除してあるよ」
「ありがとう、荷物、車にまだあるの。手伝ってくれる?」
「OK」
もう、水貴の心配は、僕の役目じゃない。そう自分に言い聞かせ、萌子と駐車場に降りて行った。




