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水の檻  作者: 香野三弥
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第十一章 戸惑い <RINN>

凛目線

第十一章 戸惑い <RINN>   



 目の上に光を感じ目を覚ました。カーテンの隙間から一筋、朝陽が差し込んでいた。

サイドテーブルの時計を見ると7時だった。昨夜は夜中まで模様替えをしてたんだった。疲れたんだろうな、萌子は僕に背を向けて穏やかに寝息を立てていた。

 昨日の海での萌子を思い出すと、胸の中がこそばゆい感じがして自分の中にこんな少年みたいな感情が残っていたことに戸惑ってしまう。


 萌子を起こさないようにブランケットかけて、そっとベットを下りる。


 昨日は『私の朝』の定休日だったからこの時間に目が覚めたのだが、いつもは

これから眠りにつく頃だ。

 

 だから、今朝は萌子とゆっくり朝食をとろうと思いキッチンに立った。


 フレンチトースト用の卵液にフランスパンををつけ込み、ガーリッククルトンをオーブントースターに入れ、低温でセットする。そろそろ温泉卵ができ上がる頃か。

 テーブルにランチョンマットとカトラリーを並べていると、椎名さんが顔を出した。


「おはよう、早いね」


「そちらこそ、早いですね」


「今帰ったんだ。昨夜は事務所の方で仕事があったんでね。どうなってるのリビング、模様替え?」


「気分転換です」


「ずいぶん雰囲気が変わったね」


「ええ、何か取りにいらしたんじゃ・・」


「いや、氷がないかと思って。ウイスキーをストレートで飲むのはちょっときついし、部屋の冷蔵庫まだ動かしてないんだ、申し訳ない。」


「ここは自由に使ってください。キッチンは共有です。飲み物なんかは名前を書いて冷蔵庫に。扉にマジックが張り付いてますから」


 その時、寝室のドアの開く音がして、僕はヤバイと思った。

 萌子がどんな格好で出てくるか想像がついたからだ。


「凛、シャワー浴びて一度帰るね、あ・・・」


 かなり距離はあったが、一瞬二人はお見合い状態になった。

 萌子は案の定、裸の上に僕のYシャツを羽織っただけの姿。先に目をそらしたのは椎名さんだった。


「失礼、じゃあ、僕は」

 

去ろうとする椎名さんを、慌てて前をかき合わせた萌子が呼び止めた。


「待ってください。椎名さんにお話があるんです。」


「僕に?どういう事ですか?」


 彼は僕と萌子を交互に見た。


「とにかく着替えてきて、彼は引き留めておくから」


「う、うん、ごめん」



 たいがいの事には動じない萌子も、さすがに動揺していた。初対面でこの出会いはなかなかハードだ。

 僕は戸惑っている椎名さんにとりあえず事態の説明をしなければならない。


「椎名さんどうぞ座って下さい、朝ご飯まだですよね」

「いや、そうだが」


「じゃあ、食べていって下さい。ちょっと仕込み過ぎちゃって」


 僕はまず座ってもらうよう促した。そして萌子がいない間に、萌子が水貴の主治医であること、来週ベリーハウスの住人になること、だから模様替えをしたことを感情を交えず伝えた。


 焼きたてのクルトンを浮かせたスープ、温泉卵とベーコン、フレンチトーストの皿はあっという間にカラになった。


「これは、メープル?」


 椎名さんはシロップの瓶を持ち上げた。


「ええ、味、違うでしょ?カナダの友人が特定のカエデからしか採れない限定品を送ってくれたんで。色もかなりダークかな?」


「美味しかった。なんだかいつも君に朝食をごちそうになってるな。実は腹減ってたんだ。ウイスキー飲んで寝てしまおうと思ってたんだけどね」


「良くないですよ、体に。朝食はとても大事ですから。萌子もね。」



 出勤体制を整えて登場した萌子に声をかける。

 いつもながら素早い。研修医時代の習慣で、シャワー&メイクに時間をかけられないらしい。それでもとても美しいと思う。


「お待たせしました、椎名さん。なんだかお母さんみたいね、凛。でも太りそう、朝からこんなにしっかり食べたら」


「十分やせてるから大丈夫だよ」


「そう?」


「うん」


「まさか君にこんなステキな恋人がいたとはね。ちょっと驚いた」


「安心したんじゃないですか?」


「まあね」

 


 三人では広すぎるテーブルに少し和やかな空気が流れた。


「時間がないので本題に入っていいですか?」


「どうぞ」


 萌子は瞬時に、精神科医の顔にスイッチしていた。


「改めて真崎萌子と申します。赤坂の山王で精神科のクリニックを開いています」


 差し出された名刺を椎名さんは受け取って見た。


「お話というのは」


「あなたと水貴の事です。彼女に記憶障害があることはご存じですか?」


「昨日、本人から聞きました。」


「私は、あなたの存在が今の状態の水貴にとって危険かもしれないと考えています。これから少し失礼なことを伺うかもしれません。いやなことはお答えにならなくて結構です」



 僕は三人分のコーヒーをテーブルに置いた。



「水貴は共感覚の持ち主です。聞き慣れない言葉かと思います。ご存じですか?」


「ええ、言葉自体は。数字に色がついて見えるとか言うあれですか?」


「一つの感覚の刺激によって、別の知覚が不随意的に引き起こされる事を共感覚と呼んでいます。音や、数字に色が付いて見えたり、味覚に形を感じたり、見ただけで触ってもいないのに触感を感じるといったタイプの共感覚者が一般的に知られていますが、水貴の場合は手を触れた人物の周りに光が見えるのです。その光は人物ごとに固有の色があって、皆違うそうです。つまり、触れて感じる温かいとか冷たいといった触覚のほかに、人物のイメージを色として感じ取っているんです。きわめて特殊なタイプではありますが、ここまでなら他の共感覚者と大差はありません。問題は、水貴の場合、同時に相手の感情を直接受け取ってしまうことなんです。ふつう、相手の顔色や、声の調子などである程度の事は誰にでも分かりますが、水貴はおそらく我々が感じる数十倍の情報量を一瞬で受け取ってしまう。相手の感情が激しく動いたとき、その色が変化することがあるようです。これを共感覚としてひとくくりにしていいのか、結論は出ませんでした。」


「つまり、僕が安定していないと危険と言うことなんですね?」


「そうです。水貴は三年前に交通事故に遭って、それ以前の一年間の記憶をなくしました。それもある特定の人物に関しての記憶が完全に消えてしまったんです。事故のあった日、その人と水貴は同じ車に乗っていました。運転していたのは・・」


「待ってください、僕は水貴のいないところで、彼女の知らない情報を得たいとは思わない。彼女の過去は僕にとっては重要ではない。僕自身の事ならお答えします。本当はそちらがお聞きになりたいんじゃないですか」


 この人は鋭い。萌子が気にしている事が十二年前の事件であると気づいている。


 彼の言葉を聞いて、僕が水貴に対してするべき事が残っていることに気がついた。


 まだ彼にすべてを話す時ではない。


「わかりました。お察しの通り、お聞きしたいのは真莉絵さんの事です。」


「萌子、今日はよそう。椎名さんは徹夜明けだ。萌子もこれから仕事だろう?そんなに簡単にすむ話じゃない。」


 椎名さんと萌子はしばらく黙って見つめ合っていた。お互いの心を測っているように。そのアイコンタクトの間に二人は多くの情報を得ていたのかもしれない。僕の動揺を二人は感じたんだろう。


「そうね、たしかに性急すぎました。ごめんなさい、ご都合の良い日に、水貴の主治医として一度お話をさせてください。ただ一つだけ注意して欲しいことがあります。あなたに会って水貴の時間は急激に動き出しました。記憶を取りもどしたいと思う可能性があります。何か変化があったら話していただきたいんです。」


「わかりました」


「突然、お時間を取らせてしまい申し訳ありませんでした。」


「いいえ、お話を聞けて良かったです。じゃあこれで、凛君、ごちそうさま」



 椎名さんは僕を見てそう言うと、名刺を持ち立ち上がった。



「鍵・・開いてると思いますよ」


「え?」


「水貴は出かけるとき以外、部屋に鍵はかけません。」


 彼はうなずいてキッチンを出て行った。



 萌子は僕の手をそっと握ると、ごめんと言った。水貴の話をするには、僕と水貴の関係もすべて話さなければならない。僕の気持ちはあきらかに準備不足だった。そのことに萌子はきづいたのだ。


 そして、おそらく、椎名さんも。

 

 僕は、彼から見たらきっと子供のようなものだろう。何から何まで彼にはかなわないと思った。こんなにも勝負にならない人と出会ったのは初めてだった。

 初めて彼がリビングに入ってきて、水貴と僕を見た時から、僕はもう彼の腕の中に囲われていたのかもしれない。必死で対抗しようともがいても、すべてを見通されているような敗北感がある。


 なのに、何故か、その瞬間を心地よいと感じてしまう僕がいる。



「少し心配しすぎね、私。すべてがいい方向に行くかもしれないのに。椎名さんは信頼に足る人だと思う。思っていたよりずっと誠実な人ね。じゃあ、私も行くわ」


「食べないの?」


「ごめん、今朝は食欲無いの、だって真夜中に夕食だったのよ」


「そうだね、さっきは悪かった、あんな止め方をして。」


「凛の言う通りよ、片手間にする話じゃなかったわ、椎名さんには失礼なことをしてしまった。」


「少し時間をくれないかな?僕がはじめたことだ。最後の幕を引かないで退場するわけにはいかない。このまま水貴から逃げて終わる事はできないんだ」


「そうね。でも無理はしないで、約束よ」


「わかってる」


「それにしても、生で見る椎名さんって迫力だったわね。その辺の俳優なんて吹き飛ぶわ」


「このタイミングでそれ言う?」



 ふっと口元がゆるんだ僕に、軽くキスをすると、



「笑い飛ばすのよ、たいしたことじゃないって思えるから。・・・ね?」



 萌子は爽やかな微笑みを残して出て行った。

 

 唇に残った萌子のルージュが甘く香り、僕の気分は少し浮上した。


 冷たくなったフレンチトーストをかじりながら、思った。

 僕は、冷めた料理をいつまでも温かいふりをして食べ続けていたんだと。


 嘘のなかに確かな関係など築ける訳がない。




 水貴のことを一度頭から振り払い、 朝食の片付けを終えた僕はリビングにいた。


 床をブルーシートで養生し、カーテンを開け、鏡の前に立つ。

 昨夜、鏡面にプライマーを塗り下処理は終えている。壁画の経験はあるが、鏡に描くのは初めてだった。

 

 油絵の具があちこちに付いたカーキのツナギからは、染みついた懐かしい匂いがして、僕の心を煽った。

 

 描きたい構図はもう頭の中でできあがっている。あとはそれをトレースしながら息を吹き込んでいくだけだ。


 さあ、はじめよう。

 

 三年半ぶりに絵筆を握る手が、少し震えた。


 深い緑の絵の具をたっぷりと含ませ一筆目を鏡に置くと、震えはピタリと止まり、まるで限界まで溜まった思いが決壊したように、指先から色が部屋中にあふれ出した。

 

 体中の血が沸き立つ高揚感は、目を閉じても押さえることができず、僕はただひたすら描き続けた。

 


 


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