もう一人
朝、目覚ましが鳴った。
ユイは布団の中から手だけを伸ばし、枕元に置いていたスマートフォンを探る。
「……んー……」
指先が画面を二度ほど滑ったところで、ようやくアラームが止まった。
静かになった。
もう一度、目を閉じる。
――三分だけ。
そう思った。
思っただけだった。
「……あっ」
次に目を開けたとき、時計は予定より二十分も進んでいた。
「うそっ!?」
ユイは布団を跳ね飛ばして起き上がった。
大学一年生の夏。
入学してから、四か月ほどが経っていた。
慌ただしく着替え、顔を洗い、適当に髪をまとめる。鏡を見る暇も惜しんで、トーストを一枚くわえたまま鞄を肩にかけた。
「行ってきます」
言ってから、ユイは少しだけ間を置いた。
当然、返事はない。
「……」
自分で言っておいて、なんとなく間抜けだった。
玄関を出る。
鍵を閉める。
今日も、いつも通りの一日が始まった。
大学は、それなりに楽しかった。
講義は難しい。
高校までとは違って、先生の話す内容も、周りの学生の会話も、どこか一段上にあるような気がする。
ユイが通っていた高校は、都心から少し離れた場所にある公立校だった。
別に進学校というわけでもない。
放課後になれば、みんなで駅前のイオンへ行った。
新作の映画を観た。
フードコートで何時間も喋った。
昨日放送されたアニメの話だけで、一時間以上潰したこともある。
くだらない話をして、くだらないことで笑った。
ユイは、そういう時間が好きだった。
大学にも友達はいる。
それは間違いない。
「ユイ、このレポート終わった?」
「一応ね」
「え、早。見せて」
「絶対やだ」
「あはは」
講義が終われば、一緒に駅まで歩く。
昼食だって誘われることがある。
グループ課題だって普通に話す。
だから、傍から見れば何も問題はない。
むしろ、順調な大学生活に見えるだろう。
けれど。
「じゃ、また明日」
「うん。またね」
駅前で友達と別れた後。
ユイは一人になった。
電車に乗る。
窓の外をぼんやり眺める。
スマートフォンを見る。
高校時代の友達のグループチャットが目に入った。
『今日暇な人いる?』
『いるー』
『じゃあイオン集合な』
『映画行こ映画』
すぐに写真が送られてくる。
フードコート。
ポテト。
ドリンク。
意味の分からない変顔。
ユイは思わず笑った。
『楽しそう』
送信。
すぐに返信が来る。
『ユイも来ればよかったのに!』
『大学忙しいんでしょ?笑』
『また帰ってきたら遊ぼー』
ユイは、
『うん!』
と返した。
そしてスマートフォンを伏せた。
電車は、静かに走っていく。
大学に入って、一番最初に感じたのは。
寂しい、ということだった。
友達がいないわけじゃない。
嫌われているわけでもない。
毎日、一人ぼっちというわけでもない。
なのに。
なんとなく。
どうしても。
高校の頃みたいには、なれなかった。
家に着いたのは、夕方だった。
「ただいまー……」
鍵を開け、玄関に入る。
返事はない。
当然だ。
一人暮らしなのだから。
靴を脱ぎ、鞄を置く。
部屋は朝出たときと何も変わっていない。
冷蔵庫を開ける。
何もない。
「……コンビニ行こ」
財布を持って、また外へ出る。
コンビニで夕飯を買う。
弁当と、飲み物と。
それから、なんとなく目に入ったから揚げ棒。
家に帰る。
電子レンジで弁当を温める。
机に置く。
一人で食べる。
テレビをつけても、あまり頭に入らない。
スマートフォンを眺める。
SNS。
動画。
ニュース。
大学のグループチャット。
そして、また高校時代の友達から写真が届いた。
今度は映画館だった。
『めっちゃ面白かった!』
『ユイ絶対好きなやつだったよ』
『次は一緒に行こうね』
「……うん」
誰もいない部屋で、ユイは小さく呟いた。
そして、から揚げ棒を一本食べる。
「……これ、結構うま」
誰に言うでもなく、感想を漏らした。
当然、返事はない。
その夜。
風呂上がりにベッドへ寝転がったユイは、ぼんやりとスマートフォンを眺めていた。
動画サイトを見ていた。
ゲームの広告が流れた。
次に、化粧品。
その次に、映画。
そして。
一つの広告が、画面いっぱいに表示された。
白い背景。
そこに、二足歩行の人型の獣が立っている。
柔らかな毛並み。
大きな獣耳。
その隣に、文字が浮かぶ。
ユイは指を止めた。
――最高の相棒、欲しくないの?
「……何これ」
広告の下には、小さな文字で企業名が表示されていた。
**株式会社蒼和テクノ**
さらに画面が切り替わる。
別のキャッチコピー。
――あなたの人生に、もう一人。
「……」
ユイは、しばらく画面を見つめた。
そして、なんとなく。
広告をタップした。
蒼和テクノ。
そこは、最近急激に名前を聞くようになった会社だった。
人工知能。
ロボティクス。
バイオテクノロジー。
そうした最先端技術を扱う大企業。
その会社が、この夏から新たな製品を発売したという。
製品ページを開く。
そこには、モデルケースとして一体の獣人型生命体が表示されていた。
人間のように立っている。
人間のように服を着ている。
人間のように笑っている。
ただし。
人間ではない。
ページをスクロールする。
『あなた自身の手で、理想の相棒を』
『外見を自由にカスタマイズ』
『性格・会話傾向・趣味嗜好まで設定可能』
『音声による自然なコミュニケーション』
『高度な自律判断機能を搭載』
ユイは眉を上げた。
「……性格まで?」
さらに下へ。
購入ページへ進む。
価格。
表示された数字を見て、ユイは目を疑った。
「……十五万?」
桁を数える。
間違っていない。
「安……」
安い。
少なくとも、ユイにはそう感じられた。
もちろん大学生にとって十五万円は大金だ。
それでも。
犬や猫を飼うことを考えれば、それほど法外な金額ではない。
しかも、この存在は人間の言葉を理解し、家事の補助までできる。
何より。
『世界に一体だけの、あなたの相棒を』
その言葉が、妙に引っかかった。
「……友達、か」
ユイは呟いた。
口にした途端、自分でも少し驚いた。
「……いや、何考えてんの、私」
笑う。
閉じようとした。
けれど。
指が止まった。
――自分だけの友達。
その言葉が、頭から離れなかった。
大学の友達が嫌いなわけではない。
むしろ、みんな優しい。
でも。
帰宅したときに「おかえり」と言ってくれる誰かはいない。
コンビニでから揚げ棒を買ってきたときに、「それ一口ちょうだい」と言ってくる誰かもいない。
くだらないアニメの話をしても、笑って聞いてくれる誰かもいない。
高校時代みたいな。
あの感じ。
もう一度だけ。
取り戻せたら。
ユイはベッドの上で上半身を起こした。
「……」
もう一度、商品ページを開く。
そして、そのまま購入画面へ進んだ。
――個体作成。
まるでゲームのキャラクターメイキングみたいな画面が表示された。
「……うわ」
目が輝いた。
性別。
身長。
体格。
毛色。
耳の形。
尾の長さ。
瞳の色。
髪型。
声。
ユイは思わず笑った。
「なにこれ……」
楽しい。
さっきまでの寂しさが、ほんの少しだけ遠ざかる。
耳を選ぶ。
「大きい方が可愛いかな」
毛並みを選ぶ。
「グレー……」
髪色。
「ピンク」
目。
「丸目がいい」
身長。
「……私よりちょっと小さいくらい」
一つずつ決めていく。
そして最後に。
性格設定。
ここだけ、ユイは少し手を止めた。
『あなたの相棒は、どんな性格ですか?』
選択肢がずらりと並んでいる。
活発。
穏やか。
知的。
甘えん坊。
人懐っこい。
負けず嫌い。
おとなしい。
おしゃべり。
ユイは一つずつ眺めた。
「……明るい子」
選択する。
「おしゃべり」
選択。
「甘えん坊……」
少し迷って、それも選んだ。
「あと……」
ユイはしばらく考えた。
そして。
「帰ってきたら、喜んでくれる子」
それに近い項目を選択した。
画面に、完成した姿が表示された。
薄いグレーの毛並み。
ふわふわの尻尾。
ピンと立った房毛の多い獣耳。
ピンク色のツインテール。
丸い瞳。
桃色の目。
細身の身体。
身長は156センチ。
ユイより、二センチ低い。
画面の中の彼女が、こちらを見て笑った。
「……かわいい」
自然に声が出た。
名前。
最後に、それだけが空欄になっていた。
ユイは少しだけ考えて。
指を動かした。
**シフォン。**
それが、その子の名前になった。
購入確認。
『こちらの個体を購入しますか?』
価格。
**150,000円。**
ユイは自分の銀行口座を思い出した。
バイト代を貯めていた。
大学に入ってから。
服を買ったり、友達付き合いで無理をしたり。
周りに合わせるために。
少しくらい高い服を買って。
少しくらい高い店に行って。
そういうことのために。
貯めていたお金だった。
十五万円。
なくなる。
でも。
「……まあ」
ユイは画面を見つめる。
「服とかより、こっちのほうがいいかも」
指が購入ボタンに触れた。
――購入しました。
その表示を見て。
ユイはしばらく、何も言わなかった。
そして。
「……私、何してるんだろ」
笑った。
少しだけ、胸がどきどきしていた。
その夜。
ユイは初めて、
「明日が楽しみ」
と、思った。
まだ見たこともない。
声すら聞いたこともない。
自分で作っただけの、小さな命。
その数日後。
ユイの人生に、「もう一人」がやってくる。




