踏み出さないという選択
その報告を聞いたのは、夕方だった。
かおりは倉庫で紙類の整理をしていた。
古紙回収品を種類ごとに分け、簡単な札を付けていく。単調な作業だが、頭を空にするにはちょうどいい。
「……かおり」
声をかけられて振り向くと、そこに立っていたのはリーナだった。
いつものように背筋は伸びているが、表情は少しだけ硬い。
「使者が来たわ」
「……そう」
それだけで、十分だった。
いずれ来ると思っていた。
むしろ、思ったより早かったくらいだ。
「噂になっているそうよ。この領地」
「でしょうね」
否定する理由はない。生活が安定すれば、人は集まり、言葉は外へ流れる。
「遊戯盤も、調味料も“面白い”“便利だ”と」
リーナは、そこで一度言葉を切った。
「だから、線を引いたわ。外には、広げない」
◇
しばらく、沈黙が落ちた。
かおりは、棚に戻しかけていた紙束をそっと置いた。そして、ゆっくりと息を吐く。
「……正しいと思う」
その答えに、リーナはわずかに目を見開いた。
「止めなくていいの?」
「止める理由がないわ」
かおりは、穏やかに言った。
「私は“作る人”でいたいだけ。広げるか、守るかを決めるのは、領主の仕事でしょう?」
「……それを、私に任せる?」
「最初から、そのつもりよ」
かおりは笑った。無責任な笑いではない。
線を越えないと決めた人間の、軽さだった。
◇
「私が前に出るとね」
かおりは、ぽつりと続ける。
「たぶん、全部が速くなる。便利で、効率的で、正しい方向に」
「でも――」
言葉を探すように、少しだけ間を置く。
「それは、この場所の“選択”じゃなくなる」
誰かが与えた正解。誰かが敷いた道。
「それはもう、ここじゃない」
◇
リーナは、静かに頷いた。
「だから、私は“減らす判断”をしたわ。求められても、全部は渡さない。説明はする。でも、再現は任せない」
「うん」
「それで、人が離れるかもしれない。それでもいい」
即答だった。
「残る人が、この場所を選んだ人なら」
◇
外では、木を打つ音がしている。
家が、少しずつ増えている音だ。
「ねえ、リーナ」
「何?」
「困ったら、相談して」
それだけ。
助けるとは言わない。指示もしない。
「判断は、あなたがして。私は、隣にいる」
リーナは、初めて少しだけ肩の力を抜いた。
「……ありがとう」
◇
夜。
かおりは一人で、ランプを灯した倉庫に戻った。
今日も、何も“新しいもの”は作っていない。
けれど。
(踏み出さないっていうのも、案外大事ね)
世界はまだ壊れていない。それならそれでいい。紙束を一つ、棚に戻す。
この場所が、この速度で進む限り。
かおりは、前に出ない。
それが――彼女自身の、選択だった。




