静かな余波
伯爵一行が滞在する最初の夜は、思いのほか静かだった。
大きな発表があり、空気は揺れたはずなのに、誰も騒がなかった。
それぞれが、それぞれの場所で、考え事をしていたからだ。
かおりは、自分の家の縁側に腰を下ろし、夜空を見上げていた。
「……養子、かぁ」
呟いてみても、実感は湧かない。
名誉。
立場。
責任。
どれも、自分が異世界に来たときに、極力避けようとしていた言葉だ。
「のんびり生きる予定だったんだけどなぁ……」
誰に聞かせるでもなく、苦笑する。
そのとき、足音がした。
「ここにおったか」
爺さんだった。
「眠れませんか?」
「お主ほどではないがの」
爺さんは、かおりの隣に腰を下ろす。
「……驚いたじゃろ」
「正直に言うと……頭が追いついてません」
「ふぉふぉ。それでよい」
爺さんは、空を見上げた。
「お主は、何も変わっとらん。変わったのは、周りの評価だけじゃ」
「でも……」
かおりは、指先を握る。
「私がここにいるだけで、色んな人の人生が動いてる気がして」
「怖いんです」
爺さんは、ゆっくり頷いた。
「それを怖いと思えるうちは、大丈夫じゃ。力を持って、怖がらぬ者の方が危うい」
「……」
「お主は、“出来ることしかしない”それを、自分で決めておる」
爺さんは、はっきりと言った。
「それが線引きじゃ」
かおりは、少しだけ息を吐いた。
一方その頃。
ミリャは、仲間たちと簡単な焚き火を囲んでいた。
「……なぁ」
「なんだ?」
「かおり、遠く行っちまうのかな」
その問いに、誰もすぐには答えなかった。
「行かねぇだろ」
鍛治士が、ぶっきらぼうに言う。
「養子って言っても、あいつはあいつだ」
「畑も掘るし、機械も直す」
「今日も、配管の確認してたぞ」
木工士が笑う。
「変わるとしたら……」
洋裁師が、静かに言った。
「私たちが、“守られる側”になったってことかもね」
皆、黙った。
「……それ、悪くねぇな」
ミリャが、ぽつりと言った。
翌朝。
かおりは、いつも通り早く起きた。
服を着替え、外に出る。
鶏が鳴き、畑には芽が揺れている。
温水配管の蒸気が、うっすらと立ち上る。
「……うん」
深呼吸。
「やることは、変わらない」
畑を見る。
道具を見る。
人を見る。
出来ることを、出来る形で。
その背後から、声がした。
「おはようございます」
振り返ると、伯爵の娘が立っていた。
今日は、杖を使っている。
「おはよう。体、無理してない?」
「はい。少しずつ、です」
少女は、にこりと笑う。
「ここ、すごく落ち着きます」
「……そう?」
「はい」
少し間を置いてから、少女は続けた。
「父は、色々と決めてしまいましたけど」
「私は」
かおりを見る。
「ここで、ちゃんと“生きてる”人たちと一緒にいたいんです」
かおりは、驚いてから、微笑んだ。
「それなら……歓迎します」
「領主とか、養子とか」
「そういうのは、後で考えましょ」
少女は、嬉しそうに頷いた。
◇
その日の昼。
かおりは、作業台の前に立った。
新しい紙を広げる。
「……さて。今日は何を“しない”か、決めよう」
書き出したのは、禁止事項でも命令でもない。
自分への、確認だった。
・治さない
・支配しない
・急がせない
その下に、小さく書く。
「生活を、楽にするだけ」
ペンを置いたとき、胸の奥が、すっと軽くなった。
外では、人の声がする。
建築の続き。
畑の相談。
風呂の準備。
日常は、変わらず動いている。
ただ一つ違うのは。
この場所が、もう「偶然の住処」ではなくなったこと。
それでも。
かおりは今日も、何でも屋だった。
肩書きよりも、道具箱を信じて。




