香りは壁を越える
最初に異変に気づいたのは、通りのパン屋だった。
「……今日、風向き変じゃないか?」
焼き上げたパンの香りとは違う、
もっと深く、腹の奥を直接叩くような匂い。
炒めた油。
温められた香辛料。
甘さと辛さが混じった、説明できない誘惑。
「何だ……この匂い……」
店の前で足を止める人が増える。
――数分後。
「おい、あっちからだぞ」
「領主館の方じゃないか?」
「昼には早いだろ?」
人が、自然と流れ始めていた。
かおりは、鍋の前で額に汗をかいていた。
「……やっぱり、来るわよね」
窓の外。人影が、確実に増えている。
「師匠……外が……」
「見なくていい」
鍋の中では、今日の試作――
“まだ名前の無いカレー” が静かに煮込まれていた。
「今回は油に香りを移してからだから……
そりゃ、拡散するわよ」
問題は、予想より早すぎたこと。
「何を作ってるんだ?」
「匂いだけで腹が鳴るんだが」
「売るのか?」
門の前が、軽い市場状態になっている。
誰も騒いではいない。
むしろ――期待で静かだった。
「……これは、まずいわね」
弟子が恐る恐る聞く。
「味が、ですか?」
「違う」
かおりは、鍋を見つめたまま答えた。
「匂いだけで、人が集まる料理は――
もう、隠せない」
そこへ、見知った顔。
「かおりさん」
リーナだった。
「……やっぱり来ましたか」
「来ますよ。領主館の廊下まで匂いが届きました」
一瞬の沈黙。
「……それは、想定外」
「褒めてます」
リーナは微笑む。
「領民が“楽しみに待つ顔”をしている匂いです」
外を見ると、子供が背伸びをし、大人が腕を組んで待っている。
「……どうします?」
弟子の声が震える。
かおりは、深く息を吸った。
「――少量、配る」
「えっ」
「試食。正式販売じゃない」
「でも……」
「ここで断ったら、逆に不信感が出る」
一拍置いて、続ける。
「料理はね、
期待を裏切ると恨まれるけど、
期待に応えると、仲間が増えるの」
小さな器に、ほんの一口ずつ。
「匂いほど強くない……?」
「いや、後から来るぞ」
「何だこれ……米に合う……?」
ざわめきが、歓声に変わるまでは早かった。
「売らないのか!?」
「次はいつだ!」
「家でも作れるのか!」
かおりは、頭を抱えた。
「……やっぱり、こうなるわよね」
弟子は、目を輝かせていた。
「師匠……これ、すごいです」
「ええ」
遠くを見ながら、かおりは答える。
「匂いに耐えられない料理はね、もう文化になるのよ」
夕方。
領主館の前は、不思議な高揚感に包まれていた。
ああ……
また一つ、戻れない所まで来たわ。
香りは、壁を越え、身分を越え、人を集める。
――そう、カレーは、もう逃げ場がない。




