夜を越える香り
ラーメン……
考え始めたら、もうダメだった。
かおりは、夕暮れの空を見上げながら小さく息を吐く。
「……完全に、食べたい」
頭の中に浮かぶのは、湯気、香り、濃い色のスープ。
ここまで来たら、もう作る前提で考えている自分がいる。
「豚骨醤油……」
この世界に豚はいない。
でも――
「猪っぽいの、いるわよね」
肉は既に試している。なら、骨もいけるはずだ。
「骨を砕いて、じっくり煮込めば……」
香味野菜っぽい根菜も、ネギのような葉物もある。
油もある。醤油に似た発酵調味料もある。
「理屈は、通る」
決めた瞬間、もう動いていた。
◇
「骨、分けてもらえますか?」
肉屋さんをしている人に声をかけると、不思議そうな顔をされた。
「骨?捨てるやつだが……」
「ください!」
即答だった。
しばらくして、ずっしりとした袋を受け取る。中には、太くて硬そうな骨。
「……うん。いい感じ」
完全に料理人の目だ。
◇
次は倉庫。
「えーっと……寸胴鍋、寸胴鍋……」
棚を一つ一つ確認していく。
「……あった!」
埃をかぶってはいるが、形はしっかりしている。
「洗えば、全然使えるわね」
鍋を抱え、かおりは小さく笑った。
「揃った」
骨。鍋。時間。
「後は……覚悟だけ」
◇
夜。
火を起こし、鍋に水を張る。
骨を入れ、強めの火で一気に沸かす。
「まずは下茹でね」
浮いてくる灰汁を取り、湯を捨てる。
もう一度、水。
「ここからが、本番」
香味野菜を刻み、鍋に放り込む。
ぐつぐつと、音が変わる。
次第に、空気が変わった。
「……来た」
重く、濃い香り。肉の旨味と、骨の匂い。
「これは……」
かおりは、鍋を覗き込み、静かに頷いた。
「明日、いける」
今夜は煮るだけ。焦らず、時間に任せる。
「ラーメンは、待つ料理だから」
そう呟き、火加減を落とす。
鍋から立ち上る湯気が、夜の空気に溶けていく。
それは、この世界ではまだ誰も知らない香り。だが、確実に――
「私の知ってる“あの味”に、近づいてる」
かおりは鍋を見守りながら、静かに夜を越える準備をした。
んー……もう朝?
かおりは、布団の中で小さく身じろぎした。
目を閉じたまま、ふぁっと大きく息を吐く。
「ふぁ〜……眠い……」
昨日は遅くまで鍋に付きっきりだった。
火加減を見て、灰汁を取って、香味野菜を足して。
気づけば深夜をとっくに回っていた。
「そりゃ眠いわよね……」
ゆっくりと体を起こした、その時だった。
――ざわ……ざわ……
「……ん?」
外から、いつもと違う気配がする。
人の声。それも、ひそひそではなく、はっきりとしたざわめき。
「……何だか、外が騒がしくない?」
窓に近づくと、確かに人影が多い。
村人が数人、家の前で立ち止まっている。
「……何かあったのかしら?」
慌てて上着を羽織り、外へ出る。
すると――
「……え?」
家の前に、人だかり。
「……人盛り?」
しかも。
「……リーナさんまで?」
かおりは思わず目を瞬かせた。
「ど、どうしたんですか?」
声をかけると、近くにいた人が一歩前に出る。
「かおりさんの家から……」
「嗅いだことの無い、すごくいい匂いがするって!」
「朝から、あちこちで話題になってまして……」
「それで、報告が上がって……」
リーナが、少しだけ困ったように笑って続ける。
「“異様に食欲をそそる香りが漂っている”と、何件もですね」
「……見に来ました」
「……えーー!!」
思わず声が裏返った。
「ま、まだ……完成してないです!」
「鍋、煮てただけで……!」
しかし、既に遅かった。
「この匂い……」
「腹が……鳴る……」
「朝飯前なのに……」
あちこちから、正直な反応が漏れる。
リーナは鼻をくん、と動かし、真剣な表情になる。
「……確かに、これは」
「……新しい“事件”の予感がしますね」
かおりは、内心で頭を抱えた。
しまった……香り、広がりすぎ……!)
鍋から立ち上る匂いは、どうやら夜のうちに――
いや、朝になって、完全に目覚めた村を捕まえてしまったらしい。
かおりの家の前は、いつの間にか。
「朝なのに、空腹を誘う現場」
と化していた。




