呼ばれてから前に出る
かおりは、いつものように控えめな席でお茶を飲んでいた。
今日は特に予定はない。
報告書も急ぎではなく、会議も入っていない。
――はずだった。
「……かおりさん、少しよろしいですか?」
声を掛けてきたのは、集積屋のまとめ役を任されている男だった。
以前なら、こうして自分から声を掛ける事はなかった人物だ。
「はい。どうしました?」
かおりが立ち上がると、男は少し言いづらそうに頭を掻いた。
「今度、農家側と集積の時間をもう少し詰めたいという話が出まして……こちらだけで決める事も出来るんですが、一度意見を聞きたくて」
◇
それを聞いた瞬間、かおりは内心で小さく笑った。
ああ……変わったんだ!
以前なら
「決めてください」
「指示をください」
「どうすればいいですか」
そう言われていた。でも今は違う。
彼らはもう考えている。動いている。
その上で――確認のために呼んでいる。
「もう案はあるんですか?」
「ええ。二つほど。ただ、どちらも一長一短で」
机の上に広げられた紙には、時間帯と人員配置の案が書かれていた。
どれも現場をちゃんと見ていなければ出てこない内容だ。
……ちゃんと育ってる!
◇
かおりは紙を見ながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「どちらも、悪くないと思います。ただ……これ、農家側が忙しくなる時期はどうなります?」
男は一瞬考え、はっとしたように頷く。
「……あ、そこは確かに調整が要りますね」
「でも、それに気づいているなら大丈夫です。
私が決める事じゃないですし」
そう言って、かおりは微笑んだ。
「決めるのは、現場の人たちです。私は、困った時に一緒に考えるだけで」
◇
その言葉に、男は少し驚いた顔をしてから、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。それでも、意見をもらえると助かります」
かおりは首を横に振る。
「意見じゃなくて、確認です。もう十分、前に進んでますよ」
◇
男が去った後、今度はリーナがこちらを見ていた。
「……頼られていたわね」
「うん。でも、指示はしてないよ?」
「それでいいのよ」
リーナは静かに言った。
「必要な時に呼ばれて、呼ばれた分だけ関わる。今の立ち位置、悪くないわ」
かおりは少し照れたように笑う。
「……やっと、分かってきた気がする」
◇
前に出なくてもいい。
引っ張らなくてもいい。
それでも、必要な時には名前が呼ばれる。
それは信頼で、役割で、そして居場所だった。
かおりは、空になった湯呑みを見下ろしながら思う。
私は、ここに居ればいい!
世界を変える人ではなく、世界が動くのを支える人として。
そう思えた事が、何よりの前進だった。
さて、何か食べようかしら。
かおりは軽く伸びをしながら、空腹を自覚した。
この世界の食事は、決して不味いわけではない。
素材は良いし、味付けも素朴で安定している。
……でも。
「同じなのよね」
焼く、煮る、蒸す。
味付けは塩か、香草か、たまに甘味。
悪くはない。
むしろ、慣れれば安心する味だ。
けれど。
メニュー数が、圧倒的に少なすぎる……
前の世界では、冷蔵庫を開けるだけで選択肢が山ほどあった。
コンビニに行けば、季節限定や新商品が当たり前に並んでいた。
それを思い出すと、どうしても物足りなさを感じてしまう。
「たまには、違う物を食べたいわね……」
◇
かおりは顎に指を当て、記憶を辿る。
完全再現は無理でも……近い物なら出来るかも?
粉もの。揚げ物。
調味料は限られているけど、工夫次第で何とかなるかもしれない。
「……あ」
ふと、一つ思い浮かぶ。
材料は、ある。
調理道具も、たぶん揃う?
手間はかかるけど、不可能じゃない。
「これ、出来たら結構喜ばれるかも」
誰かの顔が、自然と浮かんだ。
驚いた顔。
最初は警戒して、でも一口食べて目を丸くする顔。
……実験、してみようかな?
◇
まあ……「食べたいから」でいいか。
かおりは立ち上がり、軽く服を整えた。
「失敗しても、自分で食べればいいし」
そう呟いて、扉に手を掛ける。
今日の予定は何もない。
だからこそ――
小さな「食の実験」をするには、ちょうどいい日だった。




