仮に動かすという決断
リーナは、執務机の上に置かれた一枚の紙を見つめていた。
そこには、かおりが残していった簡素な言葉だけがある。
――集める
――分ける
――運ぶ
――売る
装飾も、結論もない。
あるのは「間」に目を向けろ、という視点だけ。
「……確かに、理屈は通っているのよね」
独り言のように呟き、リーナは椅子に深く腰掛けた。
農家は、育てるところから売るところまで、すべてを担っている。それが当たり前だっただが、それは「効率的」かと言われれば、違う。
「農作物を作ることに、専念できる環境……」
頭の中で、かおりの言葉が蘇る。
◇
問題は、すぐに見えた。
「中間を設ければ、コストは上がる」
集める人。
運ぶ人。
まとめる人。
今まで存在しなかった役割を作るということは、必ず“余分”に見える部分が生まれる。
「……けれど」
リーナは、書類棚の一角に目をやった。
最近まとめられた報告書。
工具、農具、荷馬車。
「仕事は、確実に増えている」
領内の景気は、ゆっくりだが確実に上向いていた。
職を求める声はまだあるが、絶望的ではない。
「仕事が増えるということは、金が回るということ」
税収。
消費。
生活。
すべてが、少しずつ繋がっている。
◇
リーナは、立ち上がり、窓の外を見た。
領地は、まだ小さい。だからこそ――
「他領で前例がない、か」
これは欠点でもあり、利点でもある。
失敗しても、広がりすぎない。
成功しても、すぐには真似されない。
「……一部だけ、なら」
かおりが言っていた言葉を思い出す。
――成功させようとしないでください。
リーナは、静かに頷いた。
「“改革”なんて、大袈裟な名前は付けない」
◇
その日のうちに、リーナは数名を呼んだ。
市場を知る者。
運搬を請け負っている者。
農家と話せる者。
「正式な制度ではありません」
最初に、そう断った。
「試しに、です」
「仮で、です」
「合わなければ、やめます」
誰も反論しなかった。むしろ、戸惑いの方が近い。
「農家が、全部やらなくてもいい……と?」
「ええ。一部だけ」
「値は?」
「大きくは変えません。まずは“流れ”を見るだけです」
書類も、規則も、最低限。
責任の所在も、曖昧なまま。
それでも。
「……やってみる価値は、ありそうですね」
誰かが、そう言った。
◇
夜。
リーナは、執務室に一人残った。
「かおり」
声に出して、名を呼ぶ。
「あなたは、正しかった」
だが、それ以上に。
「慎重でいてくれて、助かった」
いきなり完成形を持ち込まれていたら、
おそらく断っていただろう。
“仮に動かす”。
それは、領主として選べる、最も安全で、
そして最も勇気のいる判断だった。
「さて……」
小さな実験が、始まる。
誰も気づかないほど、静かに。
けれど確実に、領地の流れを変える一歩が。
踏み出された。




