手を動かさないという選択
かおりは、その日、工房に入らなかった。
木の匂いも、鉄を打つ音も聞こえる場所なのに、今日は不思議と足が向かなかった。
「今日は……作らない日ね」
自分に言い聞かせるように呟き、彼女は市場の方へ歩いた。
◇
市場は、いつも通りの賑わいだった。
籠を抱えた農家。声を張り上げる人。
値段を交渉する人。
かおりは端の方に立ち、ただ眺める。
馬鈴薯のような芋。葉物。果実。
それぞれの前に、それぞれの人が立っている。
「……全部、個人」
誰かがまとめているわけではない。
仕分ける人も、運ぶ人も、売る人も、同じだ。
「効率が悪い……って言ったら、失礼よね」
みんな真剣だ。
自分の畑で、自分の作物を、自分の手で売っている。
誇りもあるだろう。責任もある。
でも。
「疲れてる」
それも、はっきり見えた。
◇
かおりは、市場の裏手に回った。
売れ残った籠。途中で崩れた荷。
量が足りず、客を逃した人。
「これ、全部“作る”とは関係ないところで起きてる」
作物は、十分にある。技術も、少しずつ良くなっている。足りないのは、力じゃない。
「流れ、か」
道具を作れば、楽になる部分はある。
でも、それは点だ。
今、見えているのは線。
畑から市場までの線。
人の動きの線。
「……これを変えるのは、難しいわね」
かおりは思う。
ここに「仕組み」を置けば、誰かの自由を奪うかもしれない。仕事を奪うかもしれない。
善意でも、便利でも、やりすぎれば、壊れる。
◇
工房へ戻る途中、例の紙を取り出した。
畑。市場。その間。
前に描いた歪な線を、今度は少しだけ整理する。
「運ぶ」「揃える」「分ける」「売る」
今は、全部一人。
「分けるだけでも、別になれば……」
かおりは、そこでペンを止めた。
「……いや、まだ」
思いついたからといって、すぐに動かない。
それは、ここ最近で学んだことだ。
リーナの顔が浮かぶ。
領主として、全体を見る目。
「これは、私が一人で決める話じゃない」
道具なら作れる。でも、流れは――
人の生活そのものだ。
◇
その夜、かおりは何も作らなかった。
ただ、考えた。
作らないという選択。
動かないという判断。
「……これも、統治に近いのかもね」
技術を出さない。答えを出さない。
それでも、世界は回っている。
かおりは紙を畳み、引き出しにしまった。
いつか、必要になる時まで。
今はまだ、“考え続ける”という役目だけで十分だった。




