④『スノードーム』
マリラは翌朝、ずっと早い時間にベッドから這い出した。同じ部屋で寝起きしている、この時間に外へ出て仕事に向かう人がちょうど着替えていて、目が合うと驚かれた。
「ごめん、起こしちゃった? ところで昨日、全然帰って来なかったね。お祭り楽しかったの?」
「いえ、行くところがあるので起きたんです、大丈夫です」
同室は、マリラが仕事の後に祭りに参加したので、帰りが遅くなったのだと思っているようだ。しかし今日はどうしても用事がある。いつもはシーツに潜り込んでいつまでも起きられないのに、今朝は手早く支度を済ませ、周りから不思議そうな視線を向けられながら部屋を後にした。
街は年に一度のお祭りが、無事に終わった事に安堵するような空気に包まれていた。そんな光景を横目に向かう先は、街の北にある大きな公園である。マリラは生まれてからずっとこの街に住んでいたが、ここに来たのは初めてだった。狭苦しい下町とは違って、高級住宅地の人々が散歩に来るような場所なので、敷居が高いような気がしていたのだ。事実、日傘を差して美しい所作で歩くような婦人とすれ違った。
昨日の夜に教えられた公園内の喫茶店に向かうと、外にも溢れていてる席のうちの一番隅が埋まっていた。正面からは新聞を広げていて相手の顔が見えなかったので、後ろにそっと回った。
マリラが、いつも店に来るあの人改め、レイさんと呼ぶ事にした人だと確信して声を掛ける前に、途中で足音が気が付いたらしくこちらを振り返った。いつもの分厚いレンズの眼鏡と、クセのある明るい色の髪。それから口元に浮かべた穏やかな笑み。
「じゃあ、ここの清算を私がします」
「……なんかかえって申し訳ないね、ありがとう」
レイが新聞を畳んで席を立って飲み物を買いに行くのに、マリラ後ろから付いて行った。朝の手伝い募集、の張り紙を横目に注文すると、酒場の一杯より割高ではある。けれど命を助けてもらった対価でもあるので、惜しむ気持ちは少しもなかった。
彼の分の代金の清算をした後で自分の分として果物の絞り汁を買って、彼の向かい側に腰かけた。
「ところでマリラさん、お腹空いていない? あまり甘い物好きじゃないから、よかったら食べてくれないかな」
勤め先でもらったのだ、と彼はテーブルの上の紙袋をマリラに勧めた。美味しそうな香ばしい匂いに惹かれて中を覗いてみると、焼き菓子が綺麗に並んで詰められていた。感想を言う必要があるから、とレイは一枚だけ先に袋から取り出して口に運んでいる。それからコーヒーに砂糖も何も入れずに、平気な顔で口をつけて飲み始めた。
「……昨日はどうもありがとうございました」
「本当に、たまたま通りかかっただけなんだけどね、僕の方は」
彼は苦笑しながら、さあさあとマリラに紙袋の中身を盛んに勧めた。お礼をしたかったのに逆に食べ物をもらってしまったので、できるだけ申し訳なさそうな顔で一枚食べてみると、今まで食べた事がないくらいにお上品な味がした。
「それで、本当に魔法使いなんですか?」
「……どうなんだろうね。僕は自分で魔法使いだとは思っていないけど、僕と同じ事をして日銭を稼いでいる人間が、どうやらいないみたいで」
海を渡れば一人くらい同業者が見つかるかと思ったのに、とやや残念そうな口調である。どこかで見た事がないかと尋ねられたが、マリラも魔法使いは絵本の中にしかいないと思っていたので、首を横に振った。
「それなら、自分では何だと?」
「……じゃあ、『売れない発明家』にしておいて」
発明家、とまた変わった職業を引っ張って来る隣国人である。飲み物に口をつけるフリをして、マリラは相手を観察した。
「もしかして、あちこちの国を旅して暮らしているとかですか?」
「……いやこっちに、もう二年くらい前かな。初めて生まれた国を飛び出してさ」
身なりはきちんとしていて、そして今日はずっとこの国の言葉でやりとりを当たり前のようにしている。雰囲気も含めて、ちゃんとした教育を受けて育った裕福な階級出身なのだろう。それはマリラにもわかった、嫌でもわかってしまう事だ。自分が想像する貧乏と、彼の認識の中での売れていない、にはかなりの差があるに違いない。
「……じゃあ、最近作った発明品は、どんな?」
マリラが少々しんみりとした気持ちで質問した。すると自称売れない発明家はよくぞ聞いてくれました、とばかりに嬉しそうに饒舌に喋り始めた。
「これはほら、観光地で売っているお土産物だよ。スノードームってやつ。誰かからもらった事はない?」
彼が足元の鞄から取り出した小さな品物を、マリラに買ってくれるような人はいないので首を横に振っておいたけれど、見た事はある。観光お土産を売る露店には必ずと言っていい程、売り物として並べられていた。手の平に乗る大きさで、土台にガラスの球体がくっついている。中は透明な液体で満たされていて、きらきら、ひらひらと舞う粒子が閉じ込められている。通常は中には小さな建物や人形が入っているはずだが、見せてくれた物には何も入っていなかった。
「……この国には降らないけど、雪って本当にきらきらしているの? でも触るとすぐに溶けてしまうって、聞いた事がある」
雪、というものを南の国でマリラはよく知らない。南に位置するこの国で、雨や風と同じ天気の一つとして聞いた事はあっても、実際に見た事はなかった。
ここは暑い国なので、雨が凍り付く感覚もよくわからない。焼き菓子だって冷えて固くなるのを待つよ、と言われても、水がそうなるのは想像が難しかった。雨粒の落ちる速さでそんな固い物が落ちて来たら大変そうだと、雪を知らないマリラは思った。
「寒い冬の雨が、雪になるからね。……そうだな、木の葉が落ちる時を思い浮かべてごらん。その日の天気というか、風の強さに影響されるけど。天候が荒れていない日の雪は静かに、はらはらと降り積もるんだ」
雪は冬が一段と深くなる合図、とレイは説明を重ねる。彼は丸いテーブルの向こうから、マリラの手元に自分の腕を伸ばした。人差し指と中指の二本でスノードームのガラスに触れた。すると中のきらきらした粒は、まるで彼の意思に従うようにゆっくりと動き出した。
「もちろん、降って来る時は幾つか集まって来るからこんな風には見えないけど、でもこれは雪の本当のひとかけら、結晶の集まりなんだよ。寒い場所では、衣装とか刺繍のデザインなんかにも採用されたりする」
ガラスの球体は、雪を知らないマリラに、レイの知識の一部を見せてくれた。雪の結晶、とやらは六枚の花びらを持っているようにも見えた。丸いパイを六つに切り分けた形を元にして、綺麗な模様を考えてあるかのようで、白く淡い光を纏った形は美しかった。
「アマリリスの花みたい、形が似ているから」
「良いたとえだね、美的センスがあるよ」
「それか、パイを六人で分けた時みたいな形」
「良いたとえだね。ちょうど朝ご飯食べたところだしね」
「……お喋りなんですね」
「まあね、こっちの言葉で喋っている分で、これでも軽減されているくらいだ」
向こうじゃあうるさいって友達と喧嘩になる、と彼は肩を竦めてコーヒーを飲んでいる。どうやら海の向こうに、随分と気安い友人がいるらしい。
「……綺麗」
雪の花はマリラに、雪がどんな風に空からやって来るのかを見せてくれた。今はガラス球を覗き込んでいるけれど、もしこれを道に立って空を見上げながら雪を待ったらどんな風に見えるだろう。そんな事を考えながら、夢中になって覗き込んだ。
「……まあ、そんな悠長な事を言ってられなくて、雪がどんどん降ると道も家も埋まって、港も凍り付いてロクな事はないけどね。命の危険まである」
急にどすん、と言わんばかりにガラスの下半分が白い大量の粒に埋まってしまった。彼は苦笑して、雨が降り過ぎても困るのと一緒だと言った。
「でも僕が子供の頃に住んでいたお屋敷は、温かい場所で雪なんかほとんど降らなかったから、何年かに一度雪が来てくれた時は、寒いのにはしゃぎ回って怒られたよ」
「風邪を引くから?」
「そうそう。僕はね、これでも子供の頃は身体が弱かったからね。皆が心配してくれたんだよ、今はもう平気なんだけどさあ」
マリラの最大の長所は記憶にある限りで体調を崩した事がない、という点だ。目の前の相手は確かに、どちらかと言えば大人しそうな子供だっただろうとは思う。しかし子供の頃、特に男の子がずっとベッドに寝ていなければならないのは、退屈で寂しい思いをしていたのだろう。
「これ、このスノードームはそこそこ人気が出て完売して、その次は伝手でお祭りの手伝いをして。それが次の仕事に繋がればいいなあって思っている。自己紹介するならそんなところ」
「さっきは売れない発明家だって言っていたけど」
「流石に一つも売れなかったら、こんなところでのんびりしていられないよ」
彼は気を悪くした様子もなく、ご馳走様、とカップを置いた。
「普段は家庭教師の仕事で食い繋ぐ。女の子はお喋り、男の子は元気が有り余っているのが全部で四人。前任者が口を揃えて、『あんな生徒は手に負えません』と匙を投げた問題児。午後の一時から四時まで戦いだよ。おやつの時間を挟んで、お利口に授業を聞いてもらうのが給金の条件」
へええ、とマリラは一応、相槌を打っておいた。けれどこの穏やかな隣国人に、そんな腕白たちを宥めているのは想像がつかなかった。しかし彼が見た目通りの人間ではない事は、妙な発明品を作っている事や、昨日助けてくれた事を含めて事実である。
「じゃあ、普段は家庭教師を兼業していると」
「そう、最近は先生の方が主になっているけど。最初は隣国語だけの約束が、他の先生方が逃げ出したので、違う教科まで引き受けている子がいて大変だよ。その分の報酬は割増しにしてもらったけど」
本当に魔法使いなのか売れない発明家なのかは置いておいて、こんな綺麗で不思議な物を作って売っているのに、彼は家庭教師の仕事もこなさないと生活ができないらしい。マリラはその事に驚いた。
「お金を稼ぐのは大変ね」
「全くだよ。それは世の中の全ての人が、お互い様かもしれないけど。ウェイトレス……マリラさんも、あんな時間まで働いてさ」
全くだ、と今度はマリラがため息をつく番である。今まで食べた事がないようなお上品な焼き菓子でお腹がいっぱいだったせいなのか、この隣国人の人当たりが柔らかいせいか定かではないが、昨日の出来事を話した。
「……ひどい話だ。僕なら急に酷い頭痛に襲われた事にして帰る。残りの従業員と一緒に叱責された方がまだマシ」
そんな事をしたらきっとクビだ、とマリラは笑った。彼はマリラに大いに同情を寄せてくれて、少し気持ちが楽になった。二人の間でお金がないという認識には大きな隔たりがあるのは承知の上で、何だか妙な方向で意気投合が始まった。
「私、もっとちゃんと読み書きを覚えて、そうしたら違う仕事を紹介できるって役所の人に言われてて。隣国語ができたらもっといいんだけど」
「そうだね、この街に住んでいるなら尚更。時間さえ合えば、教えてあげるんだけどね」
いつなら空いているのかを訊かれて、マリラは午前中ならとだけと返事をした。それならこの時間にここへおいで、と彼はあっさり言ったが、今度はこちらが困惑する番である。
「でも、貴族の家に通うような優秀な先生に教えてもらうなんて」
「……お喋りを始めたら三時間は止まらない女の子とか、僕が屋敷を訪れる度に庭中に落とし穴を仕込んで置く腕白じゃああるまいし。僕はここでいつも新聞を読んで、飲み物を一杯だけ注文しているから、その時間でよければね」
今の情報は口止めされているから本当は秘密、と彼は悪戯っぽく笑う。がんばれそうかな? と彼はマリラに訊ねた。自分の一日の行動を振り返ると、午前中はいつも仕事の疲れでぐったりしている。しかし本当に今の生活を変えるなら、その時間を有効活用する以外にはない。
「やるのなら、いつだって早すぎる事も、遅すぎる事もない。つまり今、マリラさんの中に気持ちがあるかどうかだよ。それに何と言っても、歳が若いうちの方が体力があるからさ」
マリラは考え込んだ。すごく幸運な話に聞こえるような気がする。今まで一体何をしていたの、本の一つや二つ、開いてみようと思わなかったのか。教えを乞う以前の問題だと突き放された事は一度や二度ではない。今まで後回しにした事を馬鹿にするでも責めるでもなく、これから次第だと言ってくれた大人は今までいなかった。
「レイさんが、いつもここに新聞を読みに来るなら……」
マリラはカフェに客の出入りが落ち着いた時間を見計らって、中の店主らしき二人の男女に話し掛けに行った。朝に掃除や食器の準備を手伝いをしたい、酒場で働いているので大体の要領はわかる。報酬は一日飲み物を二杯、と交渉してみると、しばらくマリラの顔をしげしげと眺めていた。とりあえず三日間試用で雇ってくれる事になった。
それが、何故か隣国人にまずは読み書きを教わる、という奇妙な始まりだった。朝の公園に足繁く通って、マリラは彼に会いに行くようになった。




