③『???』
あのやり取りで、マリラとあの少し変わった隣国人との距離が特に変わったわけではない。相手の名前すら知らないのだ。他の客は多くが誰かと連れ立って、もしくは酒場で話の輪に加わってわいわいと賑やかに楽しんでいるのに対し、あの隣国人はいつも一人なのである。そうすると知る機会がないので、心の中で勝手にあの人と呼称する事にした。
マリラが場所を教えた先で、手紙はちゃんと出せたのだろうか。それが気になっていたが、あの人とは注文と支払いのやり取りしかしない。彼にとっては単なる酒場の給仕で、街の風景以上の存在には感じないのだろう。
試しにじっと彼の挙動を見ながら釣銭を渡した事もあったのだが、彼の眼鏡のレンズは持ち主に、じろじろ見ている怪しい給仕がいる事は伝えなかったようだ。それより用事でもあるのか忙しそうだったのでマリラはそれ以上、引き止める事は止めておいた。最近では少しの時間を惜しむように、食事の時が終わればそそくさと去って行ってしまう。
港と工房街、周辺のまだ発展途上の国から来ている出稼ぎ労働者で溢れる街の中、彼は随分と浮いていた。それから相変わらず、給仕の対価のお金も相場より多いままである。
「よかったじゃん、今度こそ遠慮なく受け取れて」
同僚はそう言って笑っていたが、マリラは少しも納得しなかった。仕方がないので、スープの具をちょっと多めに、肉も一切れこっそり余分に。そんな風にマリラがせっせと向こうに合わせなければならない、という変な状況が続いた。
海辺の街は、祭りの季節を迎えていた。一年で最も日が長い、それをどうやって計っているのかをマリラは知らないけれど、とにかく街は朝から晩まで賑わっていた。働き始めてまだ一年に満たないマリラは、今からが一番忙しい時期だと同僚二人のぼやきが伝染して、ため息ばかりが出てしまう。
この街の観光の目玉は、かつてこの海辺には人魚が棲んでいたとされる伝説である。確かに街のあちこちに古い石像やレリーフ、何かのデザインに至るまで登場する。しっとりと濡れた長い髪、足の代わりに鱗のついたひれ。岩場に優雅に腰かけて、もしくは波間から顔を出して、自慢の歌を披露してくれるのだ。
祭りの当日は砂浜に造る即席の舞台の上と、海に浮かべた大きな船の上。陸と海の双方に分かれて、歌の上手な女の子達が可愛い衣装を着て練習の成果を披露する。憧れだったけれど、それはその子達がとてもお金持ちの家に住んでいて、有名な先生に教えてもらっていると知るまでの話だった。
子供の頃のマリラはかつて、人魚が街を守っていた事を信じていたが、流石にもうそんな年齢ではない。おとぎ話の中の魔法使いや王子様、突然訪ねて来る生き別れの両親。そんな都合の良い存在なんてどこにもいないのは、とっくの昔にわかっていた。
さて当日、働いている酒場もまだ昼のうちだと言うのに客が大勢いた。今年はどちらの歌が上手なのか、毎年競い合うのである。彼らは街のあちこちにばら撒かれた張り紙を片手に、あれこれと笑い合っていた。
「おい、今年の歌を港まで観に行った奴はいないか」
昼過ぎに酒場にやって来た常連客が、中に向かって声を張り上げた。なんでも歌姫の登場と同時にまるで天の国からの恵みのように、たくさんの花が会場に向かって降り注いだのだと言う。海風に吹かれて舞う光景に、会場は大いに盛り上がったのだと興奮したように話している。その後に入って来た人間の何人かがその話をしていたので、余程驚くような光景だったらしい。
「まあ、要するに手品か、へええ。そんな派手ならこんなところでぐだぐだしていたないで、聴きに行けばよかった」
「誰かが、かごに入れたのを撒いたんじゃないのか? ほら、結婚式の花嫁花婿にみんなで投げるみたいなものだろう」
「いや、そんなもんじゃない。大体、舞台には歌姫しかいないってのに、名乗り上げたらどこからかふわーっと、目がおかしくなったのかと思ったよ」
マリラはそんな話を小耳に挟みつつ、テーブルの間を忙しく立ち回った。本来は夕方からの酒盛りが、もう既に始まっているのである。空になった盃を洗って中身を入れてまた持って行き、料理を配った。
休みなく働いて、最後の客の追い出しに成功したところで、店主がマリラを呼びつけた。
「祭りの日は会合がある」
残りの二人はそそくさと、今日は用事があるとか何とか言っていつの間にかいなくなっていた。洗い物と掃除はまさか、マリラが一人でやらなければいけないのだろうか。不在の間に店の金に手をつけたらすぐわかるからな、と要らぬ脅しまで掛けられて、マリラの気分は増々沈んだ。
いつもは翌朝に持ち越すはずの床掃除まで押し付けられるのを、同僚は祭りの当日はこうなるとわかっていたのだろう。
ようやく終わらせる頃には疲れ切っていた。裏口から外へ出て見上げた空、住んでいる場所の方角はまだお祭り騒ぎが続いているようで、微かな喧騒と街の明かりが煌々と輝いている。そのせいか星はいつもより遠く感じた。手足の重さが、自分のいる場所の暗さと相まって、余計に惨めだった。
「……おかしいなあ」
この後はいつものように、部屋には寝に戻るだけ。どんな暮らしだって苦労はある。読み書きすら満足にできないのだから仕事は限られる。新入りの下っ端はこき使われるのも当たり前。
だけどいつまで、こんな生活が続くのだろう。髪の毛だって、家賃の工面に回すために伸ばしていたのではない。マリラが泣く事ができないのは、子供の頃の自分が言い聞かせたからだ。涙を流して、誰か同情してくれる人が今までいなかったじゃないか、と。
マリラは溜息を、肺の中の空気が全て出て行くまで吐き続けて、それがいつも頭の中を切り替える合図である。明日からはもっと、何がなんでも上手に立ち回るのだ。
そんな決意とは裏腹に、やはり足取りは重かった。疲労と降り積もった惨めな気持ちが、若い娘がこんな時間に一人で出歩けばどうなるか、そんな最低限の事まで失念していた。
「……あ」
帰り道の坂と曲道の先で、マリラは複数の男性とばったり出くわした。全部で五人いる彼らを、すみません、と道の端に寄ってやり過ごそうとしたのだが、明らかに酔っている一人が行く手を遮って、愛想よく捲し立てた。しかし残りの四人からは値踏みするような視線を投げかけられて、あまり愉快ではない気分を通り越して、少し怖くなった。
「ごめんなさい、本当に急いでいるんです、だから……」
マリラが困り果てているのと対照的に、相手は酒の勢いなのかひどく楽し気で、大声を上げる。あっとう間に腕を掴まれて、家とは違う方向に引っ張られた。
「……こんな時間に何を騒いでいるんだ?」
訝し気な声が、今まさに連れて行かれそうになった方向から割って入った。助けて、とマリラは訴えたかったのに、情けない事に肝心の声は怖くて出て来なかった。けれど後から現れた彼はマリラと男達を見比べて、何となく状況は察してくれたらしい。
「嫌がっているって、わかっているなら解放してやれよ」
彼の努めて冷静な声に対し、しかし酔っ払い達は何を言っているのやら、とばかりに失笑して肩を竦めた。どうやら無視を決め込む腹積もりらしい。ぐい、とマリラは先ほどまでより強い力で連れて行かれそうになるのを、必死でその場に踏みとどまった。
『……』
彼が何と言ったのか、今度は聞き取れなかった。しかしどうやら残りの五人には、意味のある言葉として通じたらしい。というのは、冷や水を浴びせられたみたいに揃って笑うのを止めて、その場の全員が彼を見たからだ。
まるで魔法を使ったみたいに空気はがらりと変わり、マリラの捕まえていた男は手を離した。急に空気は張り詰め、一旦は無視しようとした存在に大股で詰め寄った。解放されたはずが、思わず身体が竦んでしまいそうな大声で罵り始める。
「……怒鳴りつけたくらいで引き下がるって?」
彼の静かな、しかし確かに怒りを滲ませた冷たい声が一瞬男を怯ませた。その隙に固くて脆い殻が、割れるような音が響いた。
裏通りの一角で花火が炸裂させた。音はしなかったがそのくらいの火花と閃光が溢れて、マリラは思わず目を瞑った。誰もが呆気にとられ、炎への本能的な恐怖によって、すぐに悲鳴に切り替わる。マリラだけはぎりぎり巻き込まれない位置にいたので、目の前の阿鼻叫喚をしばらく呆然と眺めるしかなかった。
「こっち!」
伸ばされた腕が、マリラの手を引いた。その時には炎はすっかり色を変えて、今度は暗い中に淡く青く、輝く光が裏通りの石畳に溢れかえっていた。まるで植物の種のように次々と芽が出て葉となり、空へ手を伸ばすように茎が現れた。成長を早くして見ているかのようにするすると伸びて、やがて現れたつぼみが丸くやわらく膨らんだ。
まるでその一生を見届けなければならない魔法が掛かっているみたいに、居合わせた誰もが、光る花の海を穴が空くように見つめている。マリラは腕を引かれながら角を曲がったので、見届けたのはそこまでだった。
大きい通り、それも国の主要施設が立ち並ぶ一画に辿り着いてようやく、マリラを逃がしてくれた人は速度を緩めた。周囲は今の騒ぎが起こったのが嘘のように、楽しそうにあちこちで踊ったり歌ったり、お祭り騒ぎが続いていた。
彼は手を離して、建物の壁に背中を預けて息を整えている。夜の通りを駆け抜けたせいで少し乱れてはいるが、髪の毛はちゃんと整髪料で整えて、服装に至ってはどこぞの上流階級の青年で通りそうな格好をしている。だからいつもと同じ分厚いレンズの眼鏡をしているのに、そうだとわかるのに時間がかかった。
今日はお店に姿を見せなかったあの人、に間違いなかった。
「……やれやれ。ちょっと危なかったね。偉い人に連れて行かれたお店が女の子と遊ぶところでさ、慌てて逃げて来たんだけど、……ちゃんと帰り道を訊いておけば良かった」
おかげで迷子で、と彼は心の底から安堵しているらしい声で、眼鏡を外して汗を拭っている。訊いてもいないのに言い訳のようにしゃべり続けた。
「……」
マリラは何から口にするべきかがわからなくて、しばらく無言で目を瞬いた。とりあえずお礼を言わなければと思うけれど、走ったせいで息切れしている。
「……えっと、ちょっと待って下さい」
「結構走ったからね、ごめんね」
彼はマリラが走って逃げるのに疲れていると思ったらしく、賑やかな周囲を見回している。掛けなおした眼鏡のガラスレンズに、街の明かりが輝いているのが見えた。その横顔を見ながら、頭の中をどうにか整理した。
マリラが酔っ払いに絡まれているのを、話を聞く限りは通りすがりでわざわざ助けてくれた。そこまでは理解できる。問題はその後。
花火か何かをよりによって、至近距離で使用したらしい。それは本物にしか見えなかったが、どうやら違ったらしい。そうでなければ今頃、裏通りは間違いなく火災が起きている。
しかしその後は一転して綺麗な花が出て来て、おそらくあのまま眺めていたら咲くところまで見届けられただろう。
「……さっきのは、アマリリス?」
「よくわかったね。ユリと間違える人が結構いるんだけど」
これ以上は、マリラの貧弱な知識では説明できなかった。自分が知らないだけで、お金持ちはあんな感じの護身道具を持ち歩いているのかもしれない。
「あの、なんて言っていいのか……実は魔法使いだったんですか? 相手の気を逸らしたり、火とか花を出して」
息を整え終わって、馬鹿馬鹿しい事を訊ねなければならなかった。そう言えば花火の前に、彼はたった一言で相手の注意を引く事もやってのけた。そんないくつもの疑問をまとめて解決するためにそんな質問をしたが、向こうは笑うばかりである。
「魔法使い? 面白い事を言うね、ウェイトレスさん。あれはこちらの国に来る前に絶対に言うな、最悪殺されるってしつこく言われた、単なる侮辱の言葉ってだけだ」
もう二度とあんな下品な事は言わない、と彼は自分に言い聞かせるようにした。ところであのウェイトレスさんだよね? と彼はマリラの顔をようやくまともに見た。
「……は、はい。どうにか、どうもありがとうございました」
「いいよ、気にしなくたって。さっきのは僕の作品でさ。お祭りで歌姫のご登場とともに派手に演出してやろうと思ったんだけど、火は最後まで許可が出なかったんだよね。お嬢さん方が燃えたら怖いって嫌がるから」
今日でなんとか終わったんだけど、と彼は一方的に喋っていた彼は、そこで言葉を切った。
「……燃えないんですか?」
「実際はただのパーティグッズだからね。細かい調整しないで使うとああなるだけ。ああそう、ウェイトレスさんのおかげでちゃんと手紙も出せたんだ、色々とありがとう。いつも忙しそうで、声を掛けられなくて。お祭りが終わるからもうあの店は行かなくなりそうだから、ここでさようならかな」
「わ、私、あなたの名前も知らないんですが」
勝手に話が終わりそうな雰囲気になったので、マリラは慌てて口を挟んだ。
「名前? ああ、……本当はグレイセルだけど、どの人も短くして好きに呼んでいるから、あなたもどうぞ。それから家には誰かいる? それともこのまま自警団の詰め所の方がいいかな」
「いえ、この近くに何人かで住んでいるので。……それより、何かお礼を」
「いいよ、そんなの。ウェイトレスさんは悪くないんだし」
それじゃあ、と彼はあっさり踵を返そうとしたのが信じられなかった。もう少し遅かったらマリラは裏通りの一番暗い場所に連れて行かれたし、彼は袋叩きにされていただろう。
それに今の説明ではさっぱり何もわからなかった。マリラは小走りに、彼の前に回り込んで同じ台詞をもう一度繰り返した。賑やかな街なんてどうでもよかった。マリラはこの人だけに用がある。
「じゃあ、……レイさん、と短くしてお呼びさせて下さい。それから私はマリラです。レイさん、私ともう一回でいいから、会ってお話させて頂けませんか、もちろん、都合は合わせますから」
「……え、僕と?」
同じやり取りをもう一度繰り返して、向こうはマリラに引く気がないと判断したらしい。しばらく逡巡した後で、とりあえず明日会う約束をしてくれた。