⑫『海の底には、決して無い物』
潮風が気持ちの良い夜だったので、マリラは自称人魚姫ステラの手を引いて、水面が月明かりに照らされているのを眺めた。月は海を見下ろして、鏡を見ている気分かもしれない。
ステラの小さな手は冷たいけれど、ちゃんと人間の手を掴んでいる感触がした。指だってちゃんと五本ある。先ほどのレイとのやり取りについては、きれいさっぱり忘れる事にした。
ステラがレイに依頼した、『海の底には、決して無い物』を作ってくれるのを待つために、二人は玄関の近くに置いてあった木の長椅子に座って、ぼんやりと月夜を眺めた。今夜はほとんど満月に近いような形で丸い形、明るい夜だった。海は凪いでいて、波の音は静かだった。
マリラの横で、ステラは自分の足が珍しいと言わんばかりの表情で、両足をぷらぷらと揺らしている。かと思えば夜空をじっと見上げて、丸い瞳をぱちぱちと瞬いた。
「あなたが欲しがっている、『海の底には、決して無い物』って、どんな物か教えてくれる?」
「ステラには名前がわからないのです。けれど鮮やかで綺麗で、……ところであれは何でしょう?」
「えっとね、一番大きくて丸いのがお月様、小さくてたくさんある一つ一つがお星様」
マリラは彼女と同じ方向を見つめながら、指で差して説明した。小さなステラは首が痛くなるのではないかと心配になるくらい、じっと夜空を見上げている。本当に人魚姫だったりして、とマリラは密かに思い始めた。
「お月様とお星様は、手に入らないのでしょうか?」
「そうね、あれはどんなに手を伸ばしても、届いた人はまだいないと思う」
ステラは残念そうに、けれど食い入るようにまだ空を眺めていた。マリラは彼女のまっすぐな黒髪を風がふわりと揺らしたのを見て、次の『海の底には、決して無い物』を思いついた。
「今! 今通り過ぎっていたのが風。その場でくるくる回るとわかりやすいかも」
ステラはマリラの声を聞いて、素直に長椅子から立ってその場で風を回ってみた。なるほど、と言わんばかりに感動している表情がとても可愛らしかった。
マリラはそれを微笑ましく観察しながら、『海の底には決して無い物』に関して、次の大問題が立ちはだかっているのに気が付いた。星に月に風。思い付きはしても、問題はどうやってステラに海の底へ持ち帰らせるかどうかだ。
ガラス瓶に栓をして、空気なら持って帰る事ができるかもしれない。しかしステラが空っぽの瓶詰を海の底で開封する様子を思い浮かべた。白い泡が上を目指して、ステラに目をくれずに浮かんでいくのだ。
少なくともさっき、ステラは目的の物が鮮やかで綺麗と言っていた。その条件に合致するとなると、それでは物足りないだろう。
マリラはちょうどレイが、住居の一番奥の部屋の明かりを点けたのがわかった。あそこにはマリラも入った事がないので、何かしらステラに渡してくれる気はあるのだろう。
「海の底にいるお友達がステラに、ここはいつも暗くて冷たくて静かでつまらない、と言うのです。毎日毎日、何回でも口にするので、ステラは可哀想になって、何か取って来られないかと、魔法使い様に相談する事にしたのです」
「へええ、海の底の」
やはり大きな魚かな、とぼんやり思い浮かべた。レイが以前に、たまに海底の巨大な生き物が打ち上げられ、怪物の死骸だと大騒ぎになる話をしてくれたのである。
昔から報告例があって、と彼は本の一頁を見せてくれて、何だかよくわからない図が掲載されていたのだった。
「あ、私も一つわかった。ねえ、陸の上の楽しい思い出も、お土産の頭数に入れてくれる? ちょっと待っててね……。これはオルゴールなんだけど、壊れちゃって捨てられていたのをレイが拾って修理してくれて」
マリラはレイの家の中に駆け戻って、小ぶりな木の箱を取って外へ出た。本来は金属の装置が短い曲を繰り返し演奏する装置だ。しかしこれはレイの手が加えられた結果、過去の音声が封じ込められている、と言うべきだろう。
「最近はね、レイが私にダンスを教えてくれるの」
いつかどこかの集まりに招待される事があるかもしれないからと言うので、とマリラは誤ってレイの足を踏んづけてしまったりしながら練習している。それを笑って流す彼の方は、ちゃんとどこかで教養の一環として身につけさせられたのだろう。
蓋を開けるとちょうど人魚姫の小さな人形が顔を出し、同時に優雅な音楽が流れ始めた。これの音を記録したのは小さくておしゃれな大衆酒場だった。一緒に閉じ込められた、マリラの笑う小さな声や、酒場にいた他の客のもう一杯持って来てくれ、などの音声が入り込んでいるのはご愛嬌である。
「どうぞ一曲。ステラ嬢、海のお姫様」
マリラは芝居がかった仕草で、小さな可愛い姫君を月夜の舞踏会に誘った。正式な踊り方を知らなくても、音楽に合わせて手を繋いだまま飛んだり跳ねたり回ったした。ステラは子供らしい動きで楽しんでいる。息が上がるまで二人はふざけ合って、マリラが腕を伸ばしてぱたん、と箱を閉じると、途端に辺りは静かになった。
「マリラさん、実は海の底にも似たような道具があるのです」
「へええ、一体どんな?」
これです、とステラが得意気に差し出して来たのは、手のひらほどの大きさもある巻貝だった。耳に押し当ててみてくださいと、と言われるがままに従うと、何とも不思議な音が聞こえた。誰かが歌詞をつけないまま、抑揚をつけて歌っているようにも思えた。同じ音の繰り返しのようにも最初は聞こえたが、決してそうではない。不思議な旋律だ。
「君達、とても楽しそうだね」
マリラは貝殻の中に閉じ込められた海の声を聞きながら、外にやって来たレイを振り返った。彼はまるで姉妹のようにくっついてじゃれているこちらに、やや口元を引き攣らせているのが見えた。
おいで、と彼はマリラとステラを連れて、建物から離れて海のすぐそばの岩場にやって来た。昔は舟が繋いであったであろう木の桟橋の向こうに、静かな海が広がっている。
「海の底の姫君は、火というものを見た事があるかな?」
姫君などと、レイが普段は口にしないような事を言い出したので、先ほどまで二人で騒いでいたのは聞こえていたらしい。火のついていないランタンを一旦地面に置いて、身を屈めてステラに話し掛ける。
彼は手にした燐寸箱から一つ取り出し、慣れた手つきで火を灯した。
「火という道具は人間だけが自在に扱える。この性質を理解し、身を焼かれる恐怖に打ち勝ち支配した事で、ただの動物から一つ先へ進んだ唯一の生き物になれたわけだ」
レイがすらすらと、まるで事前に用意された口上のように畳みかけた。ステラは勢いに押されて、何一つ頭に入っていない様子で相槌を打っている。
燐寸自体はありふれた、どこの家にも常備されている道具だ。小さな長方形の箱と、細い木の棒。先端は丸く、上手に点火するには少しコツが必要である。レイは燐寸を軽く振って火を消し、それからステラにランタンを抱えるように持たせた。
「ほら、真っ暗で冷たい海の底で暮らす君のために、作ったんだ」
彼はマリラとステラが見つめる先で、彼の指先がマッチを擦った。火が風を大きく吸い込む音がして、低い音と共に燃え上がった。独特の匂いがあたりに立ち込めて、潮風が混ざり合う。
彼は小さな火を、人魚姫に持たせた道具の中へしまった。ガラスの装置の中で赤々と、少し大きくなった炎が揺れる。
「これはランタンだよ、ランタン。明かりになるし、暖かいし、何より絶対に『海の底には、決して無い物』ってやつさ」
ステラは目を輝かせている。マリラは彼女の真っ黒い瞳に、小さな火が赤々と踊るのを見た。彼女は小さな腕に、小ぶりのランタンをしっかりと抱きしめた。暖かい、としみじみと呟く。
「ありがとうございます、本当に。心にぴったりしっくり来ました。私はこれが欲しかったのです」
「それは良かった。大切にしてね」
「……?」
何だか話は感動的結末を迎えたような空気である。しかしマリラは人間なら誰でも知っておかなくてはならない、火の特性が気がかりだった。しかしこの場にいる残りの二人の様子を見る限り、そんな事をわざわざ指摘するのは野暮らしい。
「この手の物は、見せる時が一番重要だからね。さあこの黒い布で包んで、一気に海底まで行くんだ、いいね?」
ステラはレイがどこからか取り出した黒い布で、ランタンを覆ったので、辺りは少し暗くなった。
「転ばないようにね、ステラ」
「ありがとう、魔法使いさん、マリラさん」
暑い国の人間とは思えないような白い足、小さなステラが向かう先は街ではなかった。木の桟橋に、小舟が係留されているわけでもない。どこへ行くの、とマリラが掛けようとした声は、レイに止められた。
ぱしゃん、と小さな水音を、残された二人だけが聞いた。
「……今夜の事は誰にも話さない。内緒だ。いいね?」
レイはマリラに対して珍しく、有無を言わさぬ口調だったので、マリラもただ頷くしかなった。しかしステラが波間から今にも、火が消えてしまった、と泣きながら戻って来るのではないかとしばらく海を見ていた。
「ああよかった、穏便に帰ってくれて」
レイはやれやれと腕を上に伸ばしている。それからマリアの顔を見て、寮の門限があるからそろそろね、と帰宅を促した。
「……ねえ、火って水を掛けると消えるんじゃなかった? 消えないと怖いよね?」
「そうだよ。水を掛けても空気を遮断しても消えない火なんて、危なくて人間の手に負えないって」
だから内緒、とレイはマリラに念押した。燐寸箱は最後の一本だったらしい。レイは空の入れ物を外箱と内箱に分けた後、どちらもくしゃりと折り畳むようにして潰してしまった。
マリラの手には大きな貝殻と、小さな手の冷たい感触がまだ残っている。暗くなってしまった道を戻りながら、小さな人魚姫が、明りを抱えて海の底を目指す姿を思い浮かべた。
「あれ、貝殻のイヤリングなんて身につけていたっけ?」
「ああ、ええ、まあ」
あの不思議な夜から数日が経っている。レイがステラから受け取った瓶いっぱいの宝石は、彼が一粒ずつ丁寧に調べた後で、引き出しの奥にしまい込まれた。彼が言うには、自分達のような貴族でも何でもない階級の者が持つには不自然な品であり、店に持って行っても本物とは認められずに買い叩かれてしまうだろうと言った。最悪、あると知られたら要らぬ危険を呼び込む可能性もある。だからしばらくはレイが保管する事になった。
マリラも半分欲しいかと尋ねられたが、今の話を聞けばレイに預けておくのが正解だと思うので、遠慮しておいた。ただ一つだけ、小さな白い貝殻が紛れ込むように入っていて、それはレイが器用に加工して耳飾りとして贈ってくれたのである。
それを指摘して来たのが、商会で働くマリラを頻繁に食事に誘って来る人でなければ、もう少し話をする気になったかもしれない。ここには観光客への通訳や書類の翻訳の臨時仕事を目当てに、お金に困っている隣国人が手伝いに入る事があった。
ジリーと呼んで欲しいと言われた事があったが、マリラは当たり前の対応として苗字のハーディさんと呼んでいる。このハーディは噂によると隣国ではお金持ちの次男坊らしい。絵の才能があって、大学に通っているのだとも聞いた事がある。
わざわざ交代でとっている昼休憩の時に来なくても、とマリラは書類に集中しているふりをした。何回断っても食事に誘われるので、いい加減レイかカトレアのどちらかに相談するべきかと頭を過り始めている。
「マリラさんの恋人って、グレイセルって名前だったよね?」
話を適当に聞き流していたマリラは、流石に顔を上げなければならなかった。
「彼、元々は伯爵家の長男だったって、知っていて付き合っているんだよね?」
「……何が言いたいんですか?」
「実家を勘当されているんだ。こっちまで流石に情報は回って来ないから、誰も気が付かないみたいだけど。貴族の嫡男が追い出されるって、とにかくよっぽど悪い事をやった以外にはないんだって。マリラさん、騙されているんだと思う」