第18話
今日の雪は、まるで花びらのようだった。
水分の極めて少ない雪は軽くて、中空をひらひらと遊びながら舞い降りてくる。少し早めに目が覚めてしまったわたしは、食堂が開くまでの暇つぶしに中庭を散歩していた。雪は降っているけれど、暦の上では一応今は夏だ。丁寧に整えられた花壇には、水仙やアネモネが咲き誇っている。
「この変な天気なのによく咲くなあ」
赤や橙の花が薄く雪を被っている姿は、粉砂糖をかけたお菓子のように見えた。この異常気象でちゃんと咲くだなんて思ってもいなかったのだけれど、案外植物というのは逞しく強靱であるらしい。
庭園の隅にある小さな東屋に入り椅子に腰掛ける。薄く積もった足下の雪を蹴ってみると、銀色の光がちらちらと舞い上がる。その様子に、あの人が春先に見せてくれた藤の花を思い出した。あの花は、今度の春も見られるだろうか。繊細な花だから、やっぱり雪に負けてしまうだろうか。
「また見たいなあ」
ただじっと、舞い落ちる雪を眺める。冷えた空気を大きく吸い込んで、ささやくように一つの旋律をなぞった。生まれ育った村に伝わる子守歌。誰に聞かせるでもない、ただなんとなくで歌を歌うのは、ずいぶんと久しぶりだった。
今日は、ノア先輩と街に行く日だ。二人で。あまり朝に強くないのに自然と早起きしてしまった事実が、自分は緊張しているのだということを突きつけてくるみたいで嫌だった。外に出て冷たい空気でも吸えば落ち着くかと思ったけれど、今のところあんまり効果はない。
……ノア先輩のことが好きだ。優しい人だと思う。少し頼りないところもあるけれど、芯は強くて凜々しいところを心から尊敬している。話していると楽しくて、無言の時間は落ち着く。わたしに向かって笑いかけてくる時の優しい目が本当に大好きだ。
考えて、と叫ばれてから数日、わたしなりに一生懸命考えてはみたけれど、よくわからなかったのだ。二人というところを散々強調していたのと、ここ数日のセトアやレダさんのなんとも言えない態度から、ノア先輩はわたしに、いわゆる告白というやつをしたいんだろうな。たぶん。というところまでは辿りついた。仮に告白、を、されたとしても、嫌ではない……むしろ嬉しいだろうとも思った。ノア先輩に対する「好き」の気持ちが、セトアやフルーリアさんに向けるそれとは違うことも、気がついている。
でも、ノア先輩がわたしに向けてくれるのと同じだけの気持ちを、わたしが彼に返せるのかは自信がない。先輩は時々怖くなるくらいに、わたしのことを大切にしてくれる。それがよくわかっているから、わたしは先輩の恋人になっていいのかがわからない。恋人になりたいか、というより、なりたいと思っていいのかがわからないのだ。つまるところ、彼を幸せにする覚悟がない。情けないにも程があるな。口ずさんでいた歌が終わった途端、わたしはため息をついてしまった。
「ジルテさん、おはよう」
聞き触りのいい男性の声が聞こえて、わたしは顔を上げた。視線の先には団長と、見知らぬ男性が立っていた。年齢は二十歳ほど。亜麻色の髪と瞳をしていて、真っ黒なローブを羽織っている。いつの間に来たんだろう、全く気がつかなかった。わたしはすっと立ち上がり、二人に向かって頭を下げた。
「おはようございます、団長。そちらの方は?」
「客人だよ。君のね」
「どうも、ジルテさん。今日はきみに会いに来たんです」
「わたしにですか?」
「丁度よかったよ。ジルテさん、少しいいかな」
「はい、もちろんです」
「そうか。よかった」
座って、と団長に手で促され、再び腰掛ける。改めて男性の容姿を確認してみても、見覚えは全くない。わたしに会いに来たとはどういうことなのだろう。
「はじめまして。僕の名前はサク・イズル。王宮で上級役人として働いています」
私の正面に座った男性──イズルさんは、気さくに笑って手を差し出した。
「は、はじめまして。ヨルドリヒカ・ジルテと申します」
「はは、そんなに緊張しないでください。きみのことはよく知っていますよ」
「そうなんですか」
「僕はきみのファンなんです」
彼は茶目っ気たっぷりに笑った。十代の男の子のような笑い方だった。こんな若い身で上級役人なんて職に就いているのだから、もっと威厳や威圧感があってもおかしくないと思うのだけど。少年のような雰囲気を、服でも着るかのように自然と身に纏っていた。そう、ちょっとあの人を思い出すような。
「……」
「どうかしましたか?」
「すみません、失礼しました。なんでもありません」
そうかい、とイズルさんは特に気にした風もなく頷いた。突っ込まれたらどうしようかとちょっとヒヤヒヤした。大人の男の人に、友達の男の子に笑顔が似てるんですなんて言うのは失礼に当たるんじゃないだろうか。捉えようによっては、威厳がないだとか子どもっぽいと言っているように感じるかもしれない。まあノア先輩は八百七十歳なんだけど。
「それで、わたしにご用件とはなんでしょうか」
「ああ、そうですね。早速本題に入りましょうか」
イズルさんが、私の言葉に頷いた。途端に彼の瞳からは陽気さが消え、代わりに真剣な光が宿った。彼の纏う雰囲気が一変し、わたしは思わずごくりと唾を飲む。
「単刀直入に言いましょう。ジルテさん、君は王宮楽団に来る気はないですか」
「……どういう意味でしょうか」
言われたことの意味を理解するのに、数秒かかった。遠回しにステラーイールから出て行けと言われているのかと一瞬疑ったけれど、十七歳の小娘一人を追い出すのに王宮楽団へ追いやるなんてことがあるはずもない。訊き返すと、団長が僅かに目を細めて口を開いた。
「君の事情は知っている。メルトデロイ嬢とのことも。最終面接を突破した者には、必ず身辺調査をしてから採用通知を出すようにしていてね。不躾で申し訳ないが、君の事も調べさせてもらった」
「そうですか」
身辺調査をされていることに対して、特に怒りはなかった。やっぱりな、と思ったくらいだ。芸事はある意味人気商売でもある。地域との交流が盛んで、演目者それぞれに根強いファンのいるステライールなら尚更だ。演目者の不祥事はサーカスの人気、ひいては存亡に関わる可能性がある。過去や人格がどうであれ練習すれば芸は身につくし、面接だってその気になればいくらだって取り繕えてしまう。不祥事を起こすような人間を身の内に取り込まないようにするには、入団前に身辺調査くらいはしておいて然るべきだろう。
「きみは元々、王宮楽団を志望していたんでしょう。ジルテさんさえよければ、今からでも王宮楽団に招きたいんです。もちろん楽な道ではないでしょうが、君ならやっていけるだけの実力がありますよ」
「……そんなことが可能なんですか。王宮楽団には、国立音楽学校の推薦試験に受からないと入れないのが決まりでしょう」
「たしかにそうだが、方法はそれだけじゃない。音楽学校を卒業している二十五歳未満の者で、かつ現役の楽団員に推薦を貰えば入ることができる。サクが友人の楽団員に一度きみの歌を聴かせたそうだが、是非推薦させてくれと言っていたようだ」
「そんな制度、聞いたことがありません」
「ほとんど例がないですから。楽団員からの推薦を貰えるような実力の持ち主は、まず間違いなく音楽学校の試験に受かるでしょう?」
ジルテさんみたいな事情がなければ、とイズルさんが肩をすくめてみせた。
「あの、私の事情をご存じみたいですが……エアリはどうなるんですか」
「今後も楽団の一員として働いてもらいます。あんなことをしなくても、彼女は試験に合格するだけの力がありましたから。彼女の行為は愚かそのものでしたが、その後特に問題行動は起こしていません。彼女は表向き清廉潔白なままです。きみに公表する気がなければの話ですが」
「表沙汰にする気なんてありません……」
「ありがとう。無論、きみの精神的な問題は考慮するつもりですよ。メルトデロイ嬢とはなるべく関わらずに済むよう取り計らいます」
イズルさんの表情は真剣そのものだったこんな田舎出身の小娘にそこまで手を掛けようとしてくれる理由はなんだろう。自分の実力に自信こそあるけれど、彼に利益があるとは思えない。そうさせるだけの将来性をわたしに見い出しているということだろうか。だとしたら有り難い話だ。わたしはぎゅっと手を握り、イズルさんの顔を正面から見据えて口を開いた。




