第13話
「疲れたね……」
「疲れましたね……」
「疲れたっすね……」
王都の中心街にある、可愛らしい喫茶店。その一席で、わたし達三人は屍のようにぐったりとしていた。
「王都ってこんなに人多かったですかね」
「普段中心街になんて来ないから知らなかった……」
「西部地区が今少しゴタついているらしくって、その影響もあるみたいっすよ。いつもより軍人さんがたくさんいたし……」
王都はとにかく、人が多かった。
着いたばかりの頃は午前の早い時刻だから、まだよかった。時間が経つにつれて、道もお店も徐々に混雑がひどくなっていった。祭りもかくやという混みっぷりに、わたし達は目を白黒させていた。ステライールのある街も、わたしの実家のある街も、それほど人口の多い場所ではない。慣れない人混みに翻弄されて、わたし達はすっかり疲労困憊だった。
「ね、ヨルちゃんは国立音楽学校にいたんじゃなかったっけ。この辺は詳しくないんすか?」
「お恥ずかしながら、街に出たことはほとんどないんです。休日は自主学習か読書に費やしていたし。街に出るには外出届を出さなければいけなかったものですから、ちょっと億劫で」
国立音楽学校は、国中から受験生の集まる名門の芸術学校だ。その分、授業や稽古は厳しいし、脱落者も少なくない。毎日の生活をこなすのに精一杯で、休日に遊びに行くほどの余裕がわたしにはなかった。校舎に閉じこもって、ひたすらに芸を磨く日々。そのお陰で今のわたしがあるのだ、後悔なんて一つもない。けれど、籠もりがちな学生時代のツケがこんなところで回ってくるとは思ってもみなかった。
「セトアは時々買い出しで王都に来るんですよね? わたしより詳しいんじゃないかな……」
「買い出しだけだと中心街には行かないし、そうでもないっすよ。想像より人がたくさんいて驚いたっす」
「……でも、楽しかったね」
「うん。たまにはこういうのも悪くないっすね」
「お目当てのものも買えましたしね」
食べかけのケーキをつつきながら、三人で笑い合う。表情に披露が滲んではいるけれど、心地よい達成感がわたし達を包んでいた。目的のものを買いながら、散々遊び回ってきたのだ。わたしの冬服一式を買って、セトアとお揃いの靴を買って、ノア先輩に「会話が上手くなる本」なるものをお贈りして、パン屋さんでお昼ご飯を食べて。そして今は、一休みしようと喫茶店でお茶とお菓子を頂いている。「満喫」という言葉がこれ以上似合う日もなかなかないほど、充実した時間を過ごした。
「他になにか買いたいものない?」
果実茶を飲みながら、ノア先輩がわたしとセトアに尋ねた。必要なものはもう買ったけど、あとなにかあったかしら。自室にあるものを思い出しながら、わたしは小首を傾げた。
「少し書店に寄ってもいいですか? 新しい本が欲しくて」
「あ、俺も行きたい!」
「あたしも行きたいっす」
じゃあ行こう。満場一致で、次の目的地は書店に決定した。現在の時刻は三時二十二分。帰りの馬車が二時間弱かかることを考えると、あまりのんびりもしていられない時間だ。残り少ないケーキとお茶を手早く完食して、わたし達は席を立った。
「美味しかったね」
「ああいう綺麗なお菓子は王都ならではですよね」
「綺麗な上に美味しいってすごいっすよね。ヨルちゃんって、音楽学校にいた頃はよく食べてたりしたの?」
「そういう子もいるにはいましたが、わたしはそれほど。ああいうのは、たまに食べるからいいんですよ」
「たしかに、それもそうっすね」
ぽん、と軽い音をたてて、瑠璃色の傘を開く。内側に花の模様が描かれたそれは、セトアが初舞台の記念にと作ってくれたもので、わたしの大事な宝物だった。元々雨も雪もあまり好きではないけれど、この傘を差して出かけられると思うと、生憎のお天気も悪くないと思えるのだ。
「わ、っとと」
「どした?」
書店に向かって歩き出してすぐ、わたしはたたらを踏んだ。ぱしゃん、と溶けかけの雪が跳ねる音がする。足下を見ると、ブーツの靴紐がほどけて垂れ下がっていた。
「ごめんなさい、ちょっと待ってください」
「大丈夫っすよ」
二人に断りを入れ、道の端にしゃがみ込む。手袋を外してから、ほどけた靴紐を結び直した。またほどけないように、できるだけ力一杯結び目を締める。「お待たせしました」と立ち上がったところで、誰かが背後からわたしの名前を呼んだ。
「ヨルドリヒカ……?」
鈴を転がしたような声。聞き覚えのある声。あまりにも鼓膜になじんだ声。反射的に振り返った先で、わたしの呼吸は完全に止まってしまった。
「……エアリ」
そこにいたのは、美しい少女だった。柔らかそうな栗毛を緩く編んで背中に垂らしている。大きな榛色の瞳は泣き出す前のように潤んでいて、誰もが守ってあげたくなるような儚さを醸し出していた。それでいて、その奥には芯の強そうな光が灯っている。世界中から愛されるために生まれてきたような女の子が、わたしの目の前に立っていた。
エアリ・メルトデロイ。音楽学校の同期。同じ声楽科だった人。わたしが王都に来て初めてできた友達。三年間ずっと一緒にいた、友達だった女の子。
「ヨル、その……久しぶり」
エアリが一歩一歩わたしに近づいてくる。なにか返さなくてはと思うのに、声が喉に張り付いたようにちっともでてこない。なぜか手から力が抜けてしまって、瑠璃色の傘が音をたてて地面に落ちた。泥で汚れちゃう。早く拾いたいのに、手も足も全然上手く動いてくれない。
「今はステライールで歌ってるって聞いたわ。貴女のことは王都でも評判になってるの。その、流石ね。やっぱりヨルはすごいわ」
震える声で言葉を絞り出し、エアリがぎこちなく笑った。どういう表情をしていいかわからないから、無理矢理口角を上げただけの笑顔だった。そういうことがわかるくらいには、わたしと彼女は一緒にいた。
「ヨル、その人は誰? 知り合い?」
「あ……え……」
怪訝な顔のノア先輩が、わたしにそう尋ねた。でも、それにすら言葉を返すことができない。ちゃんとお返事をしたい気持ちとは裏腹に、肺も喉も舌もわたしの言うことを聞いてはくれなかった。
エアリがすぐそばまで来ている。彼女の白い手がわたしの手を取って、優しく握った。まるでガラス細工でも扱うかのような手つきだった。あの日の乱暴さが嘘みたいだった。わたしを閉じ込めたのと同じ手だとはとても思えなかった。榛色の瞳から涙があふれて、一滴、また一滴と頬を滑って落ちていく。綺麗な涙がわたしの手にぽたりと落ちて、そこはもう、わたしの手ではなくなってしまった。
「今更どの面下げてって思うかもしれないけど、私、謝りたくて。ヨルにひどいことをしてしまったから」
う、と嗚咽染みた声が聞こえる。それが自分の喉から発せられていたものだから、わたしはひどく驚いた。どうして上手く動かないのだろう。なにか、ちゃんと言わなくちゃいけないのに。がちがちに固まった肺へ無理矢理空気を送り込んで、わたしは必死に声帯を震わせる。
「ヨルドリヒカ。私と貴女は友達なのに、私はなんて卑怯なことを」
「ごめん」
やっとのことで吐き出した言葉は、拒絶の形しかとってくれなかった。エアリが傷ついたような顔をする。ああ、そんな顔をさせたいわけじゃないのだ。大事な友達だった人だから。もっと優しい言葉を、例えば「気にしなくていい」とか、そういうことを言ってあげたいのに。
「ごめん、聞きたくない。あの時のことは忘れるから、貴女も忘れて」
「ヨル」
「ごめんなさい。わたしのことは忘れてください。もう、会いたくないの」
臓腑が奇妙に引きつって、微かな吐き気がこみ上げてくる。目の前がちかちか瞬いて、わたしはもう、自分が立っているのかしゃがみ込んでいるのかもわからなかった。気持ちが悪い。吐きそうだ。
「ごめんなさい……」
「ヨル」
両肩に誰かの手が触れた。分厚い外套越しなのに、炎みたいに熱い手だった。
「エアリさん、でしたっけ。俺の後輩になにか用があるみたいですけど、また今度にしてもらえませんか。今は体調が悪いみたいなので、早く帰って休ませたいんです」
「でも」
「すみません。俺はこの子の先輩なので、この子の体調を最優先にします。なにかあれば、ステライールの事務局までお願いします」
手がわたしを引き寄せた。「大丈夫だからね」と言ったその声で、手の主がノア先輩なのだとようやくわかった。ごく偶に見せる、面倒見のいい兄のような顔で私を見ている。先輩、その表情をしているとなんだか団長に似てますね。そう茶化したかったのに、まだ喉が上手く動いてくれなかった。
「セトア、ヨルの荷物を持ってあげて」
「了解っす」
硬い掌がわたしの頭を撫でていく。たぶんセトアだ。せっかく楽しい時間を過ごしていたのに、わたしのせいで台無しにしてしまった。情けなくて、申し訳なくて、視界が水でゆらゆらと揺れ始めた。
「大丈夫だから、な。ヨル、大丈夫だよ」
全部を見通しているような、ノア先輩の優しい声。一生懸命頷いた拍子に、わたしの頬を涙が伝って、落ちていった。




