第11話
どうしてこうなったんだろう。
もこもこの毛布。膝には小さなバスケットを乗せて、わたしは窓の外を眺めていた。雨音だけが支配する談話室は静かで、わたし以外は誰もいない。暖炉にくべた木材が崩れて、パチンと音をたてて爆ぜた。
事の発端は、約一時間前。レダさんとセトア、わたしの三人でお喋りをしていたら、二人がいきなり変な態度を取り始めたのだ。困ったような、呆れているような表情。「怒っているわけでは決してない」とは口を酸っぱくして説明してくれたけれど、その表情がなにを意味するのかは終ぞ教えてくれなかった。
やっと表情が和らいだかと思うと、今度は満面の笑みを貼り付けた二人に談話室まで連行された。「ノアの帰りを待っていてやれ」と言われ、あっという間に毛布を押しつけられる。更にホットサンドが入ったバケットを渡されたかと思うと、極めつけに暇つぶし用の本まで三冊積まれ(しかもわたしの好きそうなやつ)、わたしは暖炉の一番近い席に強制着席させられた。
「今日は急ぎの二件だけだって言ってたから、すぐに帰ってくると思うっすよ」
「ホットサンドは坊やが帰ってきたら渡してやりな」
「そのバケットね、この前謝肉祭で買ったやつなんだけど、食べ物を入れてる間は女の子の膝の上に置いておかないと爆発しちゃうやつなんすよ。だからヨルちゃん、ちゃんと見張っててね」
こうしてわたしは、無人の談話室に置き去りにされた……というには、状態が万全すぎるけれど。身体を冷やさないための毛布と、退屈しないための本。ここまで思いやってくれているのに、結果的には問答無用で放置されている。
「爆発とか絶対嘘だ……」
そんな危ない物を、セトアがわたしに持たせるわけがない。試しに一度テーブルの上に置いてみたけれど、爆発どころか微動だにしなかった。そもそも、ただのバケットに突然爆発するような機能を付けるなんて不可能だ。つく嘘が適当すぎる。
「まあ、いいか」
雑な嘘をついてでも、わたしにノア先輩を待っていて欲しかったのだろう。この寒い中作業をして、疲れて帰ってくるのだ。たとえ相手がわたしでも、出迎える人がいたら嬉しいだろう。セトアもレダさんも夜間公演があって忙しいから、わたしに託したのかもしれない。そのくらい、言ってくれれば喜んでお待ちするのに。あんなおかしなことばかりしなくたって。
現在の時刻は二時十分。セトアの話通りならそろそろ帰ってきてもいい時間だけど、まだノア先輩はまだ姿を見せない。だんだん風も強くなってきているし、いい加減心配になってくる。どこかで怪我でもしていないだろうか。先輩に限ってそんなことないとは、思うのだけど。
「迎えに行こうかな」
小さく呟いて、それから笑ってしまった。まだこの街の地理をちゃんと覚えていないのに。そもそもノア先輩がどこにいるかも知らないのに。長く息を吐いて、さっきからちっとも読み進まない本を置く。わたしは、人を待つのがあんまり得意じゃなかった。
お茶でも淹れてこよう。テーブルにバケットと毛布を置いて、わたしは立ち上がった。談話室の給湯室って初めて使うのだけど、勝手はわかるかしら。戸棚を探りヤカンを探し当てたところで、蝶番の軋む鈍い音が耳に届いた。
「ただいま! ヨルいるー!?」
分厚い雨雲を蹴散らしてしまうような、明るい声。待ち人が帰ってきたことを悟ったわたしは、慌てて談話室から飛び出した。
「お帰りなさい、ノア先輩」
「うっそ、本当にいた!」
わたしを見つけたノア先輩が、目を丸くして声を上げる。その頬と鼻が真っ赤になっていたものだから、わたしは思わず顔をしかめてしまった。失礼しますと断って頬に触れると、氷のように冷たい。
「ああもう、こんなに冷えて。ちゃんと防寒しないとだめじゃないですか。
「大丈夫だよ……」
わたしの手からするりと逃げて、ノア先輩が曖昧に笑った。いつも耳にたこができそうなほどわたしの防寒や体調を心配している人だから、逆に心配されてばつが悪いのだろう。
「セトアとレダさんが、お昼ご飯を用意してくださったんです。お預かりしてありますから、召し上がってください。わたしは温かいお茶を淹れてきますので、ノア先輩は座っていてくださいね」
自分でやるよ、というノア先輩の言葉は礼儀正しく無視をして、わたしは給湯室に引っ込む。寒い中一生懸命働いてきた人は、帰ってきたら暖かい部屋で思い切り甘やかされるべきなのだ。北で育った子どもなら誰だって知っていることだと思うのだけど、ノア先輩は知らないのだろうか。初めて会った日に、北で生活していたことがあると教えてくれたのだけど。
談話室に戻ると、ノア先輩は暖炉の横の長椅子にちょこんと腰掛けていた。なぜか背筋を真っ直ぐに正して座っているものだから、わたしは思わず笑ってしまう。わたしが正面の椅子に腰掛けると、彼は更に身体に力を入れた。
「なんでそんなに緊張しているんですか?」
「えっ……なんでだろう……」
両頬に手を当てて、ノア先輩は照れたように笑った。彼の前にバケットと白いカップ、自分の前に黒いカップを置く。どうぞ、とバケットの蓋を開ければ、彼は嬉しそうに瞳を輝かせた。
「いただきます」
勢いよく、ただし行儀よくノア先輩がホットサンドを頬張る。先輩は男の子だからすごくたくさん食べるけれど、食べ方はとても綺麗だ。テナーさんに習ったのか、八百七十年のどこかで習ったのかは知らない。とにかく、ただの平民育ちの男の子だとはとても思えないくらいしっかりしている。わたしもその辺りの礼儀作法は音楽学校時代に厳しく叩き込まれたが、たぶんノア先輩には適わないと思う。
「ごちそうさま。美味しかった」
「セトアに伝えておきますね」
よほどお腹が空いていたのか、ノア先輩はほとんど無言でホットサンドを間食した。朝から昼公演の準備、本番、町の人のお家の修理と休む間もなく走り回っていたのだから、当然と言えば当然だけど。明るく朗らかで、言動が正に「少年」らしいから見えにくいけれど、この人はとても真面目で勤勉な人だ。
「事務棟に寄ったらね、「ヨルが談話室で待ってる」ってセトアが言うんだもん。俺びっくりして、寮まで走って来ちゃった」
「それは……すみません?」
「なんで謝るんだよ。俺は嬉しかったよ」
それから、すぐにこういうことを言う人でもある。相手に好意を伝えるのに躊躇いがない。お茶を飲むふりをして、わたしはノア先輩から目を反らした。わたしも行為は積極的に口にする人間だけど、こうもはっきりと口に出されると、流石に恥ずかしくなってしまう。
「あのさ、ヨル」
突然、ノア先輩が固い声でわたしのことを呼んだ。外した視線を、即座に彼の目へ戻す。きちんと居住まいを正して、わたしは口を開いた。
「なんでしょう」
「ヨルって次の連休いつ?」
声に反した緩い内容の質問に、わたしは小首を傾げた。これは、まさか。数秒の沈黙の後、盛大に顔をしかめたノア先輩が片手で口元を覆った。
「待って、今俺どんな顔してた? 真面目な顔してた? 『これは解雇の話だな』って思われるような顔してなかった?」
「大変、その、凜々しいお顔をしていましたけど」
「うわーん!」
うわーん! って口で言う人、初めて見たな。なんとお返事していいかわからず、わたしは微妙な笑みを浮かべることしかできなかった。わたしの反応をどう思ったのだろうか。赤い頬を手で仰ぎながら、ノア先輩は聞いたことのない早口で話し始めた。
「違うんだよ、そんな重要な話じゃなくてね。いや俺にとっては大事な話なんだけど、仕事の話とかじゃないよってことで」
初めは大きかった声が、だんだんと小さくなって消えていった。なかなか要点が見えてこない。話の続きを促すと、彼は意を決したように顔を上げ、口を開いた。
「一緒に、王都へ遊びにいかない?」
なにかと思えば、なんてことないお誘いじゃないか。無理矢理絞り出したような声を出すものだから、思わず身構えてしまった。すぐさまお返事をしようと口を開きかけた瞬間、なぜかノア先輩が奇妙なほど朗々と語り始めた。
「遊びに行くというか、必要な物の買い出しって面が大きいんだけどね。ほら、最近変な天気が続くだろ? 冬みたいに寒い日も多いし。ヨルに冬用の外套とか服を買った方がいいんじゃないかと思うんだ。王都ならこの時期でも取り扱ってるお店があるから、早めに用意するのは悪くないんじゃないかな? で、どうせ行くならついでにお茶とかしたいじゃん。や、ヨルが嫌なら断ってくれても全く構わないんだけどね。セトアと行ったっていいわけだし」
「はい。是非」
「そっか。ありがとう。え?」
明後日の方向を向いていた赤い目玉が、ものすごい勢いでわたしの方を向いた。形容しがたい不思議な表情をしたノア先輩が、恐る恐るといったように口を開く。
「いいの……?」
「はい。わたしも買い物には行かなくてはと思っていたので、こちらからお願いしたいくらいです」
「そっかぁ……」
ノア先輩の表情が溶けていって、緩く眉が下がる。もう一度嬉しそうに「そっか」と呟き、彼はへにゃりと笑った。先輩があまりにも嬉しそうにするものだから、わたしは内心戸惑ってしまう。行きたいと思ったから了承しただけなのに、なんでこんなに嬉しそうなんだろう。なにか特別なことをして差し上げたわけでもないのに。
「ノア先輩。あの、他意はないのですが、一つお伺いしても?」
「なに?」
「何故そんなにも嬉しそうなのですか?」
「ん、んー……」
照れたように頬を掻いて、ノア先輩はこう答えた。
「友達、と、遊びに行けるのが嬉しくって。……これじゃだめ?」
「いえ。わたしも、その、友達と遊びに行けるのは嬉しいです」
来年成人する十七歳と、人類最年長級の八百七十歳が二人、向かい合って照れ笑いをしている。なんだろう、これ。わたしもノア先輩も、お互いが相手だと妙に会話下手になってしまう。決して嫌ではないのだけど、それがまた困るというか。なぜか頑張って改善しようという気にもならないのが、余計にたちが悪かった。
「……楽しみだね」
「はい」
えへへ、とノア先輩が笑う。釣られてわたしも笑い返した。ああ、わたし、この人といると笑ってばかりだ。炎みたいに輝く瞳を見ながら、わたしはただ、そう思った。




