↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
時は復讐を忘れない  作者: 23
45/45

第四十五話 九時十三分前

宗一郎が規制線の前へ戻ったのは、午後六時四十二分だった。


午後五時二分から一時間四十分、近隣の待機場所で黒瀬家の映像と工具箱の状態だけを見ていた。箱の蓋が三ミリ開いたため、警察が規制線の外まで同行を認めた。


道路の異常で遅れたのではない。宗一郎をすぐ家へ近づけないため、人間が待たせた時間だった。


黒瀬家の周囲には規制線が張られている。直哉と佳乃は別々の避難先に移り、現在の颯真と警察官二人だけが庭の外にいた。


「来るなって言っただろ」


颯真が祖父を睨む。


「お前に言われた覚えはない」


宗一郎は車から降りる。


爪の割れた右手に、妻の写真と採血ラベルを持っている。左袖は肩の下で留められ、風に動かない。


「工具箱は」


「家の中だ」


「蓋は」


「三ミリ開いてる。誰も触ってねえ」


「見せろ」


「嫌だ」


二人の間へ、高井が入った。


「黒瀬家は現象発生区域として立ち入りを制限しています。宗一郎さんは規制線の外にいてください」


「あれは私の時計だ」


「所有権と立入制限は別です」


「私が使い方を知っている」


「だから入れないんだよ」


颯真が言う。


宗一郎は孫の左腕を見る。


「痛むか」


「話を逸らすな」


「お前が生きている履歴を選んだ時、この腕を失うとは知らなかった」


「祖父ちゃんの左腕と、俺の骨折を一緒にすんな」


「一緒ではない。だが、無関係とも言い切れない」


「だから五回目で直す?」


「直せる履歴があるなら」


「俺に訊かずに?」


宗一郎は答えない。


「俺はこの腕でいい」


颯真は吊り具を右手で押さえた。


「治療はする。治らなきゃ困る。でも、外の俺を消して怪我してない俺に替われとは言ってねえ」


午後六時四十二分を一分過ぎた時、家の中で金属音がした。


工具箱の時計が鳴った。


窓は閉じ、雨戸も一部下りている。それでも音は庭まで届く。


一回。


二回。


三回。


宗一郎の右手が上がる。


警察官二人が名を呼んだ。


「黒瀬宗一郎さん。その手を下ろしてください」


「箱へ伸ばしたわけではない」


「今、何をしようとしましたか」


宗一郎は写真を掲げた。


妻の顔が消えていた。


白く抜けたのではない。写真の紙ごと、その部分だけ透明になり、宗一郎の指が透けて見える。


「さっきまでは写っていた」


高井が撮影する。


宗一郎は写真へ触れ続けた。


「妻の顔を戻すために箱へ行きますか」


「行きたい」


「行動しますか」


「まだしない」


宗一郎は右手を下ろした。


午後六時五十分。


学校の体育館では、外の颯真が再び姿を見せた。


割れた時計には、秒針と長針が戻っている。短針だけがない。


長針は四十二分を指したまま、秒針だけが進む。


湊は校門の外から望遠鏡を使った。


体育館へ近づかない。


外の颯真は、自分の時計を指し、黒瀬家の方角を指す。


「向こうの時計と繋がってる?」


外の颯真は肩をすくめた。


分からない、という仕草だった。


続いて、胸元から三枚目の記録を出す。


湊の位置を書いた紙。


外の颯真は自分が血で書いた部分を破り、残りを床へ置いた。


『俺の答えは、俺が持つ』


声は一瞬だけ届いた。


『紙には使わせねえ』


「捨てるの?」


『違う』


外の颯真は破った血文字をポケットへ入れる。


『分ける』


湊の位置記録と、自分が湊を選んだ記録を同じ紙にしない。


こちらで写真を分散した方法と同じだった。


午後七時十三分。


青の澪の点滴機械が、また二人分の氏名を表示した。


今度は青と白の記号がある。


ただし、逆だった。


病院にいる澪が白。御厨家にいるはずの澪が青。


看護師は表示を直さず、本人へ確認する。


「今、どの記号を使っていますか」


「青です」


「治療を続けますか」


「続けます」


「この病室にいますか」


「います」


看護師は機械の記号ではなく、本人の腕、薬剤、時刻、同意を確認して点滴を続けた。


「白の人へ連絡しますか」


「しません」


青の澪は答えた。


「記号が逆になっても、あの人の場所は私が直しません」


御厨家では、白の澪のノートから白いシールが剥がれていた。


床にも机にも見つからない。


「新しいシールを貼りますか」


保護先の職員が訊く。


白の澪は首を振る。


「今夜は貼りません」


「白ではなくなるんですか」


「記録で使う記号がなくなっただけです」


澪は表紙へ自分の名前を書く。


御厨澪。


青の澪と同じ名だった。


その下へ、今日したことを一つだけ書いた。


――八月十五日の朝、自分で髪を切った。


午後七時四十二分。


山ノ宮神社の井戸から、工具箱の音がした。


黎一と警察官が三歩下がる。


井戸の底に箱はない。


暗闇の奥で、金属の蓋が開く音だけが繰り返される。


午後七時四十二分。


山ノ宮神社の井戸から、工具箱の蓋に似た金属音がした。


黎一と警察官が三歩下がる。井戸の底に箱はない。


水面に、沙夜子の顔が浮かんだ。


空の反射ではない。黎一が知っている姉の顔だった。


沙夜子は唇を動かし、宗一郎の名を作る。それから黒瀬家の方向を指す。


黎一は井戸へ近づかなかった。


「行かない」


警察官には顔も唇も見えていない。


「姉が生きていたなら、俺の返事を聞く。これは聞かない」


水面の顔が揺れる。


黎一は背を向けた。


「宗一郎を許さない。時計を開けるなら止める。でも、その二つを姉の命令一行にまとめるな」


井戸の音だけが残った。


井戸の音は止まらない。


午後八時十三分。


黒瀬家の工具箱の蓋が、一センチまで開いた。


外から室内を撮影していたカメラに、箱の内部が映る。


時計の針は、午後八時十三分を指していた。


逆向きの動きは終わっている。


現実の時刻と一致した。


「あと一時間」


宗一郎が言う。


「九時十三分に何が起きるか、祖父ちゃんも知らねえだろ」


颯真が返す。


「知っていることがある」


「何だよ」


「四回とも、最後は私の右手で開いた」


「今回は、その前に止める」


「止められるか」


「俺一人じゃ無理でも、警察がいる」


「湊も、澪も、直哉も佳乃もいない」


「いないからいいんだ」


颯真は言った。


「誰かを盾にして開ける理由を作れねえ」


午後八時四十二分。


規制線の外にいた全員の時計が止まった。


宗一郎の腕時計。


颯真の携帯電話。


警察官の端末。


高井の記録用時計。


秒表示が、四十二で固まる。


家の中の工具箱の時計だけが進む。


午後八時四十三分。


八時四十四分。


外の時計は動かない。


高井は予備の機械式時計を取り出した。それも四十二分で止まっている。


「時刻を外部へ確認します」


無線は繋がらない。


一般車のラジオも、同じ音を一秒ずつ繰り返している。


宗一郎は工具箱を見つめた。


「あの時計だけが、今の時刻を持っている」


「だからって近づく理由にはならねえ」


「九時十三分を知るには必要だ」


「知らなくていい」


颯真は自分の携帯電話を地面へ置く。


「向こうが教える時刻で動くな」


学校でも、全ての時計が午後八時四十二分で止まっていた。


体育館の外の颯真が持つ時計だけは違う。


割れた文字盤に短針まで戻り、三本の針が揃っている。午後九時を指したところで、外の颯真は時計を伏せた。


『見るな』


声は届かず、唇だけが動いた。


湊は自分の携帯電話も、校庭の時計も見なかった。


「何を基準に待つの」


佐伯先生が訊く。


「待たない」


「学校を離れる?」


「違う。十三分後に何かするって決めない」


湊は校門の外で、自分のノートへ今見えていることを書く。


佐伯先生がいる。警察官が二人いる。体育館の扉は閉じている。外の颯真は向こう側にいる。


時刻は書かなかった。


外の颯真も、伏せた時計から手を離した。


二人は互いの顔だけを見て、針が命じる十三分を数えなかった。


午後八時五十九分。


工具箱の時計だけが、そう示していた。


外の全ての時計は八時四十二分のまま。


宗一郎は規制線の前へ立つ。


右手に妻の顔が消えた写真。


採血ラベルの裏には、青の澪の言葉がある。


颯真は反対側へ立った。


左腕を吊り、右手を空けている。


「祖父ちゃん」


「何だ」


「九時十三分になっても、俺は箱の時刻を信じない」


「私は見る」


「見るだけにしろ」


宗一郎は約束しなかった。


工具箱の時計が、午後九時を指した。


九時十三分まで、箱の上では十三分。


外の世界では、何分残っているのか誰にも分からなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


続きが気になった方は、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。