第四十五話 九時十三分前
宗一郎が規制線の前へ戻ったのは、午後六時四十二分だった。
午後五時二分から一時間四十分、近隣の待機場所で黒瀬家の映像と工具箱の状態だけを見ていた。箱の蓋が三ミリ開いたため、警察が規制線の外まで同行を認めた。
道路の異常で遅れたのではない。宗一郎をすぐ家へ近づけないため、人間が待たせた時間だった。
黒瀬家の周囲には規制線が張られている。直哉と佳乃は別々の避難先に移り、現在の颯真と警察官二人だけが庭の外にいた。
「来るなって言っただろ」
颯真が祖父を睨む。
「お前に言われた覚えはない」
宗一郎は車から降りる。
爪の割れた右手に、妻の写真と採血ラベルを持っている。左袖は肩の下で留められ、風に動かない。
「工具箱は」
「家の中だ」
「蓋は」
「三ミリ開いてる。誰も触ってねえ」
「見せろ」
「嫌だ」
二人の間へ、高井が入った。
「黒瀬家は現象発生区域として立ち入りを制限しています。宗一郎さんは規制線の外にいてください」
「あれは私の時計だ」
「所有権と立入制限は別です」
「私が使い方を知っている」
「だから入れないんだよ」
颯真が言う。
宗一郎は孫の左腕を見る。
「痛むか」
「話を逸らすな」
「お前が生きている履歴を選んだ時、この腕を失うとは知らなかった」
「祖父ちゃんの左腕と、俺の骨折を一緒にすんな」
「一緒ではない。だが、無関係とも言い切れない」
「だから五回目で直す?」
「直せる履歴があるなら」
「俺に訊かずに?」
宗一郎は答えない。
「俺はこの腕でいい」
颯真は吊り具を右手で押さえた。
「治療はする。治らなきゃ困る。でも、外の俺を消して怪我してない俺に替われとは言ってねえ」
午後六時四十二分を一分過ぎた時、家の中で金属音がした。
工具箱の時計が鳴った。
窓は閉じ、雨戸も一部下りている。それでも音は庭まで届く。
一回。
二回。
三回。
宗一郎の右手が上がる。
警察官二人が名を呼んだ。
「黒瀬宗一郎さん。その手を下ろしてください」
「箱へ伸ばしたわけではない」
「今、何をしようとしましたか」
宗一郎は写真を掲げた。
妻の顔が消えていた。
白く抜けたのではない。写真の紙ごと、その部分だけ透明になり、宗一郎の指が透けて見える。
「さっきまでは写っていた」
高井が撮影する。
宗一郎は写真へ触れ続けた。
「妻の顔を戻すために箱へ行きますか」
「行きたい」
「行動しますか」
「まだしない」
宗一郎は右手を下ろした。
午後六時五十分。
学校の体育館では、外の颯真が再び姿を見せた。
割れた時計には、秒針と長針が戻っている。短針だけがない。
長針は四十二分を指したまま、秒針だけが進む。
湊は校門の外から望遠鏡を使った。
体育館へ近づかない。
外の颯真は、自分の時計を指し、黒瀬家の方角を指す。
「向こうの時計と繋がってる?」
外の颯真は肩をすくめた。
分からない、という仕草だった。
続いて、胸元から三枚目の記録を出す。
湊の位置を書いた紙。
外の颯真は自分が血で書いた部分を破り、残りを床へ置いた。
『俺の答えは、俺が持つ』
声は一瞬だけ届いた。
『紙には使わせねえ』
「捨てるの?」
『違う』
外の颯真は破った血文字をポケットへ入れる。
『分ける』
湊の位置記録と、自分が湊を選んだ記録を同じ紙にしない。
こちらで写真を分散した方法と同じだった。
午後七時十三分。
青の澪の点滴機械が、また二人分の氏名を表示した。
今度は青と白の記号がある。
ただし、逆だった。
病院にいる澪が白。御厨家にいるはずの澪が青。
看護師は表示を直さず、本人へ確認する。
「今、どの記号を使っていますか」
「青です」
「治療を続けますか」
「続けます」
「この病室にいますか」
「います」
看護師は機械の記号ではなく、本人の腕、薬剤、時刻、同意を確認して点滴を続けた。
「白の人へ連絡しますか」
「しません」
青の澪は答えた。
「記号が逆になっても、あの人の場所は私が直しません」
御厨家では、白の澪のノートから白いシールが剥がれていた。
床にも机にも見つからない。
「新しいシールを貼りますか」
保護先の職員が訊く。
白の澪は首を振る。
「今夜は貼りません」
「白ではなくなるんですか」
「記録で使う記号がなくなっただけです」
澪は表紙へ自分の名前を書く。
御厨澪。
青の澪と同じ名だった。
その下へ、今日したことを一つだけ書いた。
――八月十五日の朝、自分で髪を切った。
午後七時四十二分。
山ノ宮神社の井戸から、工具箱の音がした。
黎一と警察官が三歩下がる。
井戸の底に箱はない。
暗闇の奥で、金属の蓋が開く音だけが繰り返される。
午後七時四十二分。
山ノ宮神社の井戸から、工具箱の蓋に似た金属音がした。
黎一と警察官が三歩下がる。井戸の底に箱はない。
水面に、沙夜子の顔が浮かんだ。
空の反射ではない。黎一が知っている姉の顔だった。
沙夜子は唇を動かし、宗一郎の名を作る。それから黒瀬家の方向を指す。
黎一は井戸へ近づかなかった。
「行かない」
警察官には顔も唇も見えていない。
「姉が生きていたなら、俺の返事を聞く。これは聞かない」
水面の顔が揺れる。
黎一は背を向けた。
「宗一郎を許さない。時計を開けるなら止める。でも、その二つを姉の命令一行にまとめるな」
井戸の音だけが残った。
井戸の音は止まらない。
午後八時十三分。
黒瀬家の工具箱の蓋が、一センチまで開いた。
外から室内を撮影していたカメラに、箱の内部が映る。
時計の針は、午後八時十三分を指していた。
逆向きの動きは終わっている。
現実の時刻と一致した。
「あと一時間」
宗一郎が言う。
「九時十三分に何が起きるか、祖父ちゃんも知らねえだろ」
颯真が返す。
「知っていることがある」
「何だよ」
「四回とも、最後は私の右手で開いた」
「今回は、その前に止める」
「止められるか」
「俺一人じゃ無理でも、警察がいる」
「湊も、澪も、直哉も佳乃もいない」
「いないからいいんだ」
颯真は言った。
「誰かを盾にして開ける理由を作れねえ」
午後八時四十二分。
規制線の外にいた全員の時計が止まった。
宗一郎の腕時計。
颯真の携帯電話。
警察官の端末。
高井の記録用時計。
秒表示が、四十二で固まる。
家の中の工具箱の時計だけが進む。
午後八時四十三分。
八時四十四分。
外の時計は動かない。
高井は予備の機械式時計を取り出した。それも四十二分で止まっている。
「時刻を外部へ確認します」
無線は繋がらない。
一般車のラジオも、同じ音を一秒ずつ繰り返している。
宗一郎は工具箱を見つめた。
「あの時計だけが、今の時刻を持っている」
「だからって近づく理由にはならねえ」
「九時十三分を知るには必要だ」
「知らなくていい」
颯真は自分の携帯電話を地面へ置く。
「向こうが教える時刻で動くな」
学校でも、全ての時計が午後八時四十二分で止まっていた。
体育館の外の颯真が持つ時計だけは違う。
割れた文字盤に短針まで戻り、三本の針が揃っている。午後九時を指したところで、外の颯真は時計を伏せた。
『見るな』
声は届かず、唇だけが動いた。
湊は自分の携帯電話も、校庭の時計も見なかった。
「何を基準に待つの」
佐伯先生が訊く。
「待たない」
「学校を離れる?」
「違う。十三分後に何かするって決めない」
湊は校門の外で、自分のノートへ今見えていることを書く。
佐伯先生がいる。警察官が二人いる。体育館の扉は閉じている。外の颯真は向こう側にいる。
時刻は書かなかった。
外の颯真も、伏せた時計から手を離した。
二人は互いの顔だけを見て、針が命じる十三分を数えなかった。
午後八時五十九分。
工具箱の時計だけが、そう示していた。
外の全ての時計は八時四十二分のまま。
宗一郎は規制線の前へ立つ。
右手に妻の顔が消えた写真。
採血ラベルの裏には、青の澪の言葉がある。
颯真は反対側へ立った。
左腕を吊り、右手を空けている。
「祖父ちゃん」
「何だ」
「九時十三分になっても、俺は箱の時刻を信じない」
「私は見る」
「見るだけにしろ」
宗一郎は約束しなかった。
工具箱の時計が、午後九時を指した。
九時十三分まで、箱の上では十三分。
外の世界では、何分残っているのか誰にも分からなかった。
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