第四十四話 助けに行かない人
宗一郎を乗せたタクシーは、黒瀬家から一キロほど手前で止められた。
警察の臨時規制だった。
追悼集会の動画が広がり、正門だけでなく黒瀬家の近くにも記者と野次馬が来ている。現象のためではない。普通の人間が、死亡したはずの中学生を見に来ていた。
「ここから先は警察車両で移動します」
高井が言う。
宗一郎は窓の外を見る。
カメラを持った人間が二人。
近所の住民。
制服の警察官。
「私の家だ」
「だから、勝手に歩かせません」
「時計へ行くからか」
「車道へ出ても困ります」
前日のことを持ち出され、宗一郎は黙った。
黒瀬家の映像だけが警察車両のモニターへ映される。
工具箱は閉じている。
午後三時二十分。
山ノ宮神社。
黎一は井戸の前にいた。
水面へ空が映る。
その中に、沙夜子の顔が現れた。
黎一は立ち上がらない。
水面の沙夜子が唇を動かす。
宗一郎。
それだけは読めた。
次に、山を下る方向を指す。
「黒瀬家へ行けって?」
同行の警察官には、ただの水面しか見えない。
黎一は立った。
二歩下り、止まる。
「姉さんなら、理由を言え」
水面は答えない。
「今のお前は、俺の返事を聞かない」
沙夜子の顔が揺れる。
「だから行かない」
黎一は井戸へ背を向けた。
姉を忘れたからではない。
姉の姿を命令として使わせないためだった。
午後三時四十二分。
御厨家。
白の澪は卵焼きを半分残していた。
玄関のガラスへ文字が浮く。
――工具箱を学校へ運べ。
白の澪は近づかない。
「私には運べません」
職員が横から読む。
次の文字。
――青の澪が死ぬ。
白の澪の指が止まる。
「病院へ電話したいです」
「しますか」
「……しません」
声が震えた。
「病院の担当者が必要と判断した時に連絡する約束です」
「連絡できないのかもしれません」
「その可能性はあります」
職員は安心させる嘘を言わない。
白の澪はノートを開く。
――青の人が死ぬと書かれた。
――怖い。
――電話したい。
――今はしない。
最後の一行を書いた手が震えた。
「正しかったと思いますか」
職員が訊く。
「思いません」
白の澪は答える。
「間違っていたら、私が後悔します」
文字は消えなかった。
午後四時十三分。
学校の湊へ、現在の颯真から電話が来た。
これは普通の通話だった。
『祖父ちゃんが家へ来る』
「俺も帰る」
『来んな』
「でも兄ちゃん一人じゃん」
『警察いる』
「祖父ちゃんが箱開けたら」
『止める』
「怪我したら」
『お前が来たら、お前も見なきゃならねえ』
湊は校門の外から体育館を見る。
外の颯真はまだ来ていない。
学校へ残る理由も、家へ戻る理由も、兄だった。
『今の俺を先にするって言ったろ』
「それ、命令に使うの」
『使う。来たら困る』
「俺の行動決めてるじゃん」
『来るなって希望してる。決めるのお前』
「ずるい」
『知るか』
湊は腹が立った。
「行かない」
『分かった』
「兄ちゃんが正しいからじゃない。俺が学校から消えたら、外の兄ちゃん来た時に誰も見れないから」
『それでいい』
「よくないって言え」
『嫌だね』
通話が切れた。
午後四時四十二分。
警察の待機車両から、宗一郎は黒瀬家を見ていた。
家の玄関ガラスが、夕方の光を反射している。
そこに妻がいた。
家の中に立っている。
宗一郎の隣には左腕のある自分。
居間の奥には開いた工具箱。
妻が手招きする。
高井には、ガラスへ雲が映っているだけだった。
「見えていますか」
「ああ」
「何が」
「妻だ」
宗一郎がドアへ手を伸ばす。
「行くんですか」
「行きたい」
「止めますか」
宗一郎は自分の右手を見た。
「まだだ」
妻の後ろに二人の澪が現れる。
同じ髪。
同じ服。
同じ笑顔。
現在の二人にはない揃い方。
「違う」
宗一郎はドアから手を離した。
「妻はいる。でも、あの澪は今の二人じゃない」
「それでも妻には会いたい?」
「ああ」
妻がもう一度手を伸ばす。
宗一郎の右手が震える。
誰も黒瀬家から助けに来ない。
湊も。
黎一も。
二人の澪も。
颯真さえ、庭から規制線を越えてこない。
それぞれが、自分の場所にいる。
「誰も来ないんだな」
宗一郎が言う。
「呼びますか」
高井が訊く。
「呼ばない」
「一人で決めるんですか」
「今だけは、自分の足を自分で止める」
妻の姿が薄くなる。
宗一郎は泣かなかった。
「午後六時四十二分まで、ここで待つ」
「家へ近づかない条件なら」
「分かった」
午後五時二分。
警察は宗一郎を近隣の安全な待機場所へ移した。
黒瀬家へ入れるためではない。
規制線の外から、工具箱の状態を確認させるためだった。
妻はもうガラスに映らなかった。
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