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最終夜 終わらない夜

 夜は、明けるためにあるのではない。語られなかった真実を、永遠に閉じ込めるためにある。


「……物語は昨日で終わりや」

 静かな部屋で、俺はそう言った。窓の外の闇は、吸い込まれそうなほど黒い。だが風は止み、音はしない。時間だけが、じわじわと沈んでいく。そんな夜だ。

 ベッドの上の女は、今夜も動かない。目を閉じたまま、眠っている。俺は椅子に座り、その横顔を見つめる。


「最初の夜から、ずっと聞いとったやろ」

 返事はない。

「祇園の話も、渡月橋の話も、比叡山の話も」

 小さく、息を吐く。

「全部な――」

 少しだけ、間を置く。

「前振りや」

 その言葉は、やけに静かだった。


 俺はゆっくりと立ち上がり、ベッドの横に立ち、女の顔をじっと見た。……そう。俺は今、彼女を見下ろしている。俺は、自分の足で立っている、はずや。

「最後の話はな」

 低い声で言う。

「怪談やない」

 時計の音だけが、静かな部屋に響く。

「あの晩、ほんまにあった話や。きっと、怖くなったんやと思う。あんたの愛が重すぎて、これ以上は息ができんかった。……いっそ一番綺麗なまま、冷たい川底に沈めて、終わらせてしまいたかったんや」


*****


 あの夜、橋の上はやけに静かだった。街の灯りが水面に揺れ、風が吹くたびに光が歪んだ。私は欄干にもたれて、下を見ていた。

「綺麗やな」

 そう言って笑った。あんたは、その横に立って私を見ていた。何も言わずに、ただ、見ていた。


「なあ」

 私が振り返る。

「このまま落ちたら、どうなるんやろな」

 冗談みたいに言う。あんたは答えない。


「怖い?」

 私は笑う。

「うちは、ちょっとだけ怖い」

 そう言って、また下を見る。


 そのとき、突然、背中に衝撃を感じた。

「あっ――」

 身体が欄干を超え、私は咄嗟に手を伸ばした。そして掴んだ。確かに、掴んだ。背中を突き飛ばした、その手首。必死に、力を込める。私の身体が、宙にぶら下がった衝撃で、あんたの身体も欄干を乗り越えた。


「……っ!」

 あんたは声にならない声をあげ、片手で必死に、欄干を掴んでいる。

 私を見たあんたと目が合う。

「……助けて、放さんといて」

 私ははっきりと、そう言った。

「……無理や」

 あんたは小さな声で呟いた。私の目が、大きく見開かれる。

「……何言うてんの」

 かすれた声。あんたは、目を逸らして、放したんや――


*****


「……そして、落とした」

 声が、部屋に響いた。

「その後、あんたも落ちたんやな」

 ゆっくりと、息を吐く。

「川底に沈みながら、あんたも落ちたんを見たで」


 時計がボーンと、午前1時を告げる。


「そのあと、どうなったかは……覚えとらん」

 小さく、笑う。

「せやけどな……」

 声が、わずかに低くなる。

「ひとつだけ、はっきり覚えとる。一度は掴んでくれた私の手ぇを放したんは――」

 静かに言う。

「あんたや」

 そのときだった。ベッドの上で、指先が、ぴくぴくと痙攣したように動き、まぶたが震えた。

「……やっぱりな」

 私は小さく、呟いた。

「体は動かんでも、口は喋れんでも、わかっとるんやな」


 男の呼吸が早くなる。私は、ゆっくりと口を開く。

「ずっと、見とったで」

 声は掠れているが、刃物のように鋭い。

「あんたの目ぇが、泳いでるのも。喉が、何か言いたそうに震えてるのも。……うちは、全部わかってたんや。最初から。全部」

 私は、男の顔のすぐそばまで顔を寄せた。男は、動けない。まばたき一つできない。

「自分の口では、もう言われへんもんな」


「うちがこの五日間、あんたに聞かせてた話……覚えとる?」

 私は、「千夜一夜物語」と書かれた一冊のノートを閉じた。

「あんたの耳元で、一晩にひとつずつ、丁寧に流し込んでやったんや。……あんたの罪が、腐って溶け出すように」

 私はゆっくりと立ち上がる。

「あんたは死に損なって、うちは生き残った。……ただ、それだけのことや」


 部屋の扉に手をかける。

「これで、終わりやな」

 扉を開けると、廊下の白い光が、男の動かない瞳を無慈悲に灼いた。

「うちは、忘れへんで」

 そして、少しだけ間を置いてこう言った。

「――あのとき突き飛ばした、あんたの手ぇを」

 扉が閉められ、部屋には再び静寂が戻った。


 そのとき、ふと違和感がよぎった。さっきから、妙に視界が高い。いや――違う、低い。ベッドを見下ろしていたはずなのに、何かがおかしい。さっきから、身体の感覚が曖昧だ。立ち上がった記憶が、うまく辿れない。椅子に座っていたはずなのに、いつから立っていた? いや――本当に立っていたのか? 足の裏の感触がない。重心の位置も、よくわからない。


 それでも、景色だけははっきり見えている。瞬きをした記憶も、首を動かした感覚も、思い出せないが、ベッドの位置も、窓の位置もわかる。まるで、ずっと同じ角度から見ていたかのように。五日間、同じ高さから、同じ距離で、一度も変わらず。


 俺は、思考だけが冴えわたる暗闇の中で、鏡のような窓に映る自分の影を、ただ見つめ続け、そして、理解した。

 俺が「女」だと思い込んで五日間見つめ続けていたのは、夜の闇が鏡に変えた窓ガラスに映る、身体中をチューブで繋がれた自分自身の無残な姿だった。


 逃げ場のない秒針のように、モニターの電子音だけが、虚しく闇を刻んでいた。

 ――夜は、まだ終わらない。


                                     了

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